ソードアート・オンライン Youth in Aincrad 作:ユーカリの木
いつだって、川崎沙希は心配している 1
限界だった。
もう本当に限界だった。
いっそ死んでしまいたいと思うほどにそれを欲していて。
それ欲しさに幻覚すら感じてしまうほど、喉がそれを求めていた。
「マッ缶が飲みたい……」
俺の心からの呟きに、サキから返ってきた言葉は辛辣だ。
「ないよ、そんなの」
「サキ、作ってくれ! 頼むから!」
第一層攻略からさらに四ヶ月程度経ったこのとき、俺はマジで限界に達していたのだ。
マッ缶を、マッ缶をくれ……。そのためなら命なんて惜しくない!
「あのコーヒーに練乳入れたみたいなやつだろう? よくあんな甘ったるいの飲めるねえ。胸焼けしそうだよ」
「エセ千葉県民め! 逆だ逆! 練乳にコーヒーを入れてるに違いない美味さなんだよ! あの甘ったるさが喉に染みるんじゃねえか!」
はいはい、と軽く俺の話を聞き流しながら、サキが台所でふんふんと鼻歌を歌いながら料理をしている。
マジ、ほんとマジでマッ缶作ってください! と土下座をする。
男のプライド? マッ缶のためならそんなものドブにでも捨てちまえ!
もちろんサキは無視。ガン無視。
見事なまでのMU☆SHIだ。
突如鼻歌をやめたサキが振り返る。やばい、怒らせたか……。
しかし、表情は気だるげさは残っているものの、どこかもじと恥ずかしそうだ。
「こ、コーヒーの豆が売り出されてるって聞いたんだけど、買ってきてくれたら……その、がんばってみるけど」
「マジか! 買ってくる! 今すぐ買ってくる!」
ダッシュで俺はサキの家を出る。サキに何か声を掛けられた気がしたが聞こえない。
マッ缶様、ついにそのご尊顔を拝ませていただきます!
やっほい! っと飛び上がって俺は天に拳を捧げる。
うん、冷静になるとさすがに引くわ。また新たな黒歴史を作ってしまったかとすぐにテンションダウン。サキにプレゼントされた紺のマフラーに顔を埋め、サキに選んでもらった臙脂のロングコートの襟を立たせてステルスヒッキーを全開にする。ついでに《隠蔽》もプラスすればあら不思議、透明人間の出来上がりだ。
ひっそりと街を歩きながら雑貨屋を目指す。
第一層のボス攻略から四ヶ月が経った。最前線は三十層を超え、いまや三十三層に達している。
あれから俺の評価はもう、急転直下のナイアガラもいいところで、道を歩けば野次を飛ばされ、外に出れば自称自警団たちに追い回される始末だ。まったくどこの指名手配犯だよ。
そんな中でも傍にいてくれるのはサキだ。彼女は周りの目をまったくと言っていいほど気にせず、いつでも俺の傍にいる。レベル上げも、食事も鍛錬も、以前とまったく同じようにこなしていた。
正直、心苦しい。あのときの選択は間違っていたとは思っていない。
あれ以外に方法はなかった。仕込みは万全だったとは言えないが、俺なりに違った方法で試してみたのだ。それでダメだったのだから、もはや俺はあの方法を取るしかなかった。
サキは蔑みも絶望もしなかった。ただ、傍に寄り添ってくれた。俺はそれを嬉しく思う。
ここ三十三層の主街区《ラーヴィン》は渓谷の隣にある湖畔の町だ。背後にある山なみと、透明な湖畔、三角屋根の木造建築が織り成す風景が美しい場所だ……と、サキが言っていた。山の中には古城もあり、たしかに雰囲気はファンタジーだ。
ただし、山に面しているからか、坂道が多く、正直疲れる。俺にとっては若干面倒な街でもあった。
ステルス全開で《ラーヴィン》一のプレイヤーメイド雑貨屋に辿りつき、入荷したばかりというコーヒー豆を大量に購入する。ここまでバレないと俺って存在を認識されていないんじゃないかと思ってしまう。まさか、さっきの店員は透明人間に買われたとか思っているんじゃあるまいか。
そのまま帰るのではなく、路地へと入っていく。迷いそうになりながらも何度か丁字路や十字路を曲がって行く。湖上から吹き抜ける風が俺の背を急がせる。
奥まった場所にあるのは、かつてディアベルとの会談場所と同じような、ひっそりとした喫茶店だ。住人の殆どがその存在を知らない、知る人ぞ知るコーヒーの名店だ。NPCの店ではあるが、なかなかにうまい。しかし悲しいかな、マックスコーヒーは置いていない。なぜだ……。
東ヨーロッパの雰囲気をした深い臙脂の扉を開けると、からんからんと鐘がなる。入口から死角になっている最奥部の席へ行くと、既に俺を呼んだ人物が集まっていた。
「よう、ディアベル、アルゴ。今日も殺されに来たのか?」
本気ではない、軽い挨拶のようなものだ。
ディアベルが苦笑しつつ手を上げた。
「久しぶりだね、ハチマン。無事でなによりだよ」
「ハー坊、一体いつになったらお姉さんとデートしてくれるんだヨ」
アルゴはぶすっとした表情で俺を見上げていた。
「なんとかな。あとアルゴ、お前俺より年上なのか年下なのかそろそろはっきりしたらどうだ?」
さらりとアルゴのデートの催促をかわしつつ、俺も軽口を返す。アルゴの頬がむっと膨れる。なに? こいついつの間に鼠からリスに変身したの?
「どっちでもいいだロ。それより、早くデートしろヨ。ずっと待ってるんだからナ!」
おっと、どうやら話題は変えてくれないらしい。相変わらずめんどくせえ奴だな。どうせ本気じゃないくせに。
まあまあ、とディアベルが間に入って取り成す。
この三人で集まり時は、大抵ディアベルが仲裁役になるのだ。うむ、大義である。
「アルゴさんも分かってるだろ。いまのハチマンが下手に俺たちと近しいことが周囲にばれると、俺たちに被害が来る。ハチマンはそれを分かっていてこう言っているんだ。ここはいじけるところじゃなくて、感謝するところだよ」
そう面と向かって言われると面映い。俺はそういうつもりであんなことをした訳じゃないのだ。
「でモ……。ハー坊ばかりあんな目にあっテ、オレっち達だけのうのうと暮らしてるなんてサ……」
しゅん、としたアルゴがぽつりぽつりと言う。
空気が湿っぽくなる。
「あー、あれは別にお前らのためじゃねえよ。俺がやりたいからやったんだ。だから責任は俺のものだし、誰にも渡すつもりもねえよ。だからそうやって、罪悪感を俺から奪うなよ。それも俺んだぞ」
はあ、とアルゴがため息する。その頬は少し赤くなっていた。風邪なの?
「ハー坊には適わないよ。分かっタ、こういうのはこれっきりにするヨ。だからハー坊、デートしてくれヨ!」
「話が変わってませんねえ!」
ははは、と笑ったのはディアベルだ。実に楽しそうな笑顔で頬杖をつき、俺とアルゴを眺めている。
「さあ、そろそろ注文しようか。折角美味しい甘味処なんだ。頼もう頼もう!」
ディアベルに促され、俺もアルゴもウインドウを開いてメニューを眺める。俺は当然コーヒーだ。練乳は無いが、砂糖を大量にぶち込めばひとまず満足はできる。なにより、サキの下へ行けばもしかしたらマッ缶が飲めるかもしれないのだ。俄然、テンションは上がる。
「ハー坊ハー坊」
「ん、なんだよ」
「こレ、頼んでいいカ?」
アルゴがウインドウを滑らせながら、ある一点を指差しながら訊いてくる。ディアベルはニコニコとアルゴを眺めつつ、メニューを選んでいるようだ。
「あん? んなの自由に選べば……なんぞこれ」
適当に答えようとした瞬間、目に飛び込んできたのは、
――ラブラブ☆カップルのトキメキジュース、と脳内お花畑でハッピーな女どもが好きそうな名前と、添付されている写真データだ。
大きなグラスに注がれたソーダっぽい飲み物に、淵に挿されたオレンジ。そこまではいい。まだ許せる。だが、次が許せない。
このジュース、ストローがふたつあるのだ。まるで、というか、確実に恋人同士がきゃっきゃウフフと飲むためのものだ。ぐぬぬ、リア充メニューめ、許せん!
しかしなんでアルゴの奴、そんなのを頼みたいんだ?
もしかして、俺と飲みたいの?
罰ゲーム?
いや、まさか……そうか、そうだったのか! ハチマン分かったヨ!
「ディアベルと飲みたいのか? 頼めばいいんじゃね? なあ、ディアベル?」
そう、ディアベルは結構なイケメン様なのだ。しかも、爽やかで誠実。かつては後ろ暗いところがあったにせよ、いまはもう真っ白も真っ白、漂白剤も負けるほどだ。こうして三人で会う機会が増えた以上、アルゴも女の子だ。彼に惚れるのも分からんではない。
と、思っていったのだが、ディアベルがずっこけていた。なに? バナナでもあったの?
「き、君は……それはワザとかい?」
はて、なんのことかな?
アルゴを見る。ぐぬぬ、と口を強く結んだアルゴが、若干涙目になって俺を睨んでいた。
「うぅぅ……ハチマンのいぢわる」
完全に普段の片言語が取れている。やっぱあれキャラ付けだったんだな、というか、しれっとハー坊って言ってないし。たぶん、マジ泣きなんだろう。
あー、と頭をガシガシと掻く。
はっきり言って、俺は鈍感ではない。というか、敏感系男子だ。
ちょっとしたことで、あれ? この子俺のこと好きなんじゃね? と思うくらいには純情だ。
中学での一件以来、類稀なる自制心でそれを抑えてはいるが、こうも好意を全面的に出され、あまつさえ本人の前でそれを避けてみせるのは、いかがなものか。
さすがに今回は俺が悪い。
「すまん、冗談が過ぎた……」
うぅぅ、とアルゴが涙目のまま見上げてくる。くっ、破壊力が高い。
「じゃあ、一緒に飲んでくれる……?」
ぐっ、しかし、要求ハードルが高すぎる……。
「い、いや、しかし、なあ……?」
ディアベル、助けてくれ!
ディアベルは俺の顔を見ると、ぐっとガッツポーズをした。勇者は俺を見放したようだ。
こういうとき、どうすればいいのかマジで分からねえよ。恋愛経験値をもっと稼いでおくんだった。フラれる経験値ならもうMAXなんですけどね……。
「わ、分かった。今回だけだぞ。今回だけだからな」
「ほんと? ほんとに?」
アルゴが目を爛々と輝かせると、ぐっと身を乗り出す。近い、近いから……。
「ああ、ほんとだ。だから今回だけだぞ」
「分かったよ。ありがとう、ハチマン!」
心底嬉しそうに、乙女の笑顔で礼を言われる。そう喜ばれると、男としても悪い気はしない。というか、こいつもう俺の呼び方ハチマンに固定しやがったな……。別にいいんだけどさ。
苦渋の注文を終え、さて、とディアベルが手を叩いた。
「そろそろ本題に入ろうか」
ここの店は雰囲気を楽しませるためか、現実の喫茶店並に注文が届くのが遅いのだ。だから、ここではいつも注文後に会議をし、届いたら一時中断、その後再会するという流れが定番だった。
「おう、じゃあアルゴから頼む」
はいヨ、口調が片言語に戻ったアルゴが、表情も普段のそれに戻る。
「相変わらズ、ホーリィって奴の居所は判明しなかったヨ。あちこちで色々やらかした後は見受けられるんだケド、決定的な瞬間でいつもいなくなるから尻尾もつかめないヨ」
ホーリィ。キバオウが最後に言った言葉だ。
そして、ディアベルとキバオウの架け橋となり、すべてを裏で操っていた人物の名でもあった。
あの事件の真相はこうだ。
まずホーリィがディアベルと接触し打ち解け真意を聞き出すと、キリトの情報を伝える。どうやらベータ時代にはLAボーナスを取りまくって、結構有名だったらしい。やんちゃすぎんだろ。
その後、ディアベルとベータテスター嫌いのキバオウを接触させた。キバオウはディアベルの真意に感銘を受け、キリトの武器の買取役を担った。
その後の会議での騒動、実はこれはディアベルも想定外であったらしい。真意を知る今ならば理解できる。あれは、確かにない。
会議後、ディアベルはホーリィに詰め寄ったそうだ。しかし、逆に脅されることとなった。ベータテスターのことをみなにバラすぞ、と。
これがディアベルの身に起きた一連の騒動の裏側だ。
ボス戦後の騒動発端であるシミター使いは、おそらくそのホーリィの仲間か懐柔された者だろう。たぶん後者じゃないだろうか。チョロそうだし……。
こうしてみると、ホーリィがかなり重要な役を担っていたことが分かる。キバオウの暴走も、おおかたホーリィが吹き込んだのだろう。
俺としては、裏側などどうでもよく、サキに危害を加えた奴がいまものうのうとこのゲームでうろついているのが許せないだけだ。他は知らん。
「別件だケド、《軍》の方が内部ですこしゴタゴタしているらしいよ。一応探りを入れてはおこうカ?」
軍、とはギルド《アインクラッド解放軍》のことだ。大手MMOニュースサイトの管理者シンカーがギルド長を務めている。活動内容は、いわゆる相互扶助組織だ。下層での治安維持を目的としており、SAOの中では最大人数を誇るギルドだ。拠点は第一層の《はじまりの街》である。
「一応頼む」
「了解したヨ」
今度はディアベルへ視線を移す。
「ディアベルのほうはどうだ?」
「こっちも特に進展はないね。ギルドのみんなにもそれとなく話を聞いてみたけど、やっぱり所在までは分からないそうだ」
ギルドというのは、ディアベルが立ち上げた《ブレイブ・ウォーリア(Brave warrior)》のことだ。なぜ複数形のSが付かないのかはまったくの不明だ。英語が苦手なのかな?
ともあれ、実は第一層でやらかした後、ディアベルはホーリィの部分を除いてすべてを打ち明けたようだ。批判あり共感ありと、かなりしっちゃかめっちゃかな様相を呈したらしい。だが、それでもついてきた仲間達と共に、立ち上げたギルドが、《ブレイブ・ウォーリア》だ。
実は俺も何度か入団を勧められている。というか、団長になってくれと頼まれているのだ。当の団長であるディアベル本人から。
群れるのを嫌うぼっちがそんなものを承諾できるわけもなく、約一ヶ月にも渡る熱烈なラブコールを跳ね除け続け、ようやく表立って誘われることがなくなったのだ。
それで終わればよかったのだが、厄介なことに、ディアベルがギルドの信頼できるメンバーへ、極内密に第一層の事件のことを話したから、その連中からもラブコールがまだ来ている始末だ。もう勘弁して欲しい。
こいつら、ストーカーの気質あるんじゃねえのかな……。やばい、また具腐腐とかいう海老名さんの声が聞こえてきた気がする……。超怖い。
「ハチマンの方はどうだい? なにか分かったかい?」
ディアベルが訊いてくるも、俺は力なく首を振る。
「ないな。まったく無い。というか、情報のアルゴ、組織力のディアベルで見つけられなかったら、どっちもない俺に分かるわけないだろうが」
「それもそうだナ。ハチマンはぼっちだもんナ!」
妙にうれしそうに言うアルゴ。そう言われると少し悔しい。
お、俺にはサキがいるもん!
でも最近、サキはアスナと仲良くてたまに一緒にレベル上げとかできないんだよな。アスナの評判もあるから着いていけないし、女子会のあのウフフなところに突っ込めるわけもないし、ハチマン寂しい……。
そんなことをやっていると、ようやくNPCの店員が現れ、注文が届けられる。ディアベルにはコーヒーとチーズケーキ。アルゴの前にはチョコレートケーキ。俺の前にはピーナッツケーキ。
千葉県民としてはピーナッツは外せない。
そして、俺とアルゴの中央に鎮座ましますのは――
ラブラブ☆カップルのトキメキジュース。
なにこれ、実物の違和感が半端ないんだけど……。
しかもおかしいな。写真データ上だと真っ直ぐなストローが二本刺さっていただけなのに、いま眼前にあるのは、くるくるっと洒落た形に曲がった、即ち、ハート型に曲がった二本のストローだ。しかも店員の粋な計らいか、ちゃんと俺とアルゴに向けられている。
「うぅぅ!」
アルゴが嬉しそうにしながらも、どこか恥ずかしそうに頬を染めている。
ディアベルは、「青春だなあ」とか言いながら、爽やかスマイルでコーヒーにミルクを注いでいた。そして俺は、見事に固まっていた。
なにこれ。これを飲むの? アルゴと? ふたりで?
超恥ずかしいぞ!
「は、ハチマン。の、飲もっか?」
おずおずと言って、アルゴが潤ませた瞳で俺を見上げる。だからその仕草やめて! そういうの男の子弱いんだから!
「ぐ、わ、分かった……」
ええい、覚悟を決めろ男ハチマン!
こ、これくらい、告白してフられて翌日クラス中に知れ渡っていたときの羞恥心に比べれば、なんぼのもんじゃい!
俺とアルゴは、緊張の面持ちのままストローに口をつける。そのままちゅーと二人して中身を吸い込む。口に入ると爽やかな酸味と炭酸のしゅわしゅわ感が広がる。
お、これ以外と美味いぞ。
「ん……っ」
色っぽい吐息を零したアルゴもどこか満足そうだ。というか、そういうのやめてって言ってるでしょ! 男の子はそういうの弱いって言ってるじゃない! って、口に出して言ってなかった……。
しばらく無言でちゅーちゅーする。
美味い。恥ずかしい。美味い。恥ずかしい。美味い。恥ずかしい。
これをひたすらに繰り返す。
ディアベルは俺たちの姿を肴に、暢気にチーズケーキを食べていらっしゃる。「やっぱり美味しいな! 新しいものを探求するのもいいけど、食べなれているものもいいなあ」とかどうでも良いことをおっしゃりやがる。
「ん、ん……っ」
またも艶っぽい声を出して、アルゴが唇をストローから外した。あ、そうだよね、途中でやめてもいいんだよねこれ。なんだかポッキーゲームみたいに離したら負けみたいな雰囲気だから、ずっと飲んじゃってたよ俺。
「おいしいナ、ハチマン」
特大の笑顔で言われた。あまりにも可愛くて柄にも無く赤面してしまいそうだ。
「アハハ、ハチマン顔まっかだゾ」
していたらしい……。
まさか~、といやらしい顔をしてアルゴが再び身を乗り出す。殆ど唇と唇が触れ合う距離。途端、蠱惑的な微笑を浮かべ、
「お姉さんにホレたか? ハチマンなら大歓迎だゾ」
思い切り吐き出しそうになるのを寸前で止める。というか、仰け反って口を押さえた。
やばい。やばすぎる。いまのは本気で惚れそうになった。おかしいな。惚れっぽいのは自覚しているが、予防線を一気に超えてくるとは思わなかった。っべーよ。っべー。俺じゃなかったら完全に惚れてた。告白して付き合って結婚まである。結婚しちゃうのかよ。
「ぐ、ぐ、ぐぬぬ」
もうこうなると俺は唸るしかできない。気分は犬だ。
「アハハ。ハチマン可愛いナ~」
くすくすと、乙女のように口許を押さえてアルゴが笑う。
ディアベルは終始チーズケーキに首っ丈だ。
あまりにも恥ずかしくて、俺はそっぽを向いてピーナッツケーキを口に入れた。
うん、味がまったく分からないぜ☆
うー、と口の中で唸りながら、ラブラブ☆カップルのトキメキジュースを見る。まだ半分も減っていない。これをまたアルゴと何回か吸い合わないといけないのか。
俺の心臓、持つかな……。
そのとき、思考に一瞬空白が滑り込んだ。
額に違和感。周囲で慌てる声。聴覚がおかしく、ぐわんぐわんと耳元で鐘が叩くような音。頭が宙に浮いているようにふわふわとし、何が起きてる分からない。
ふと、思考が戻り冷静に分析を開始する。
額が痛い。どうやら思い切り頭をテーブルに打ち付けたようだ。周りがうるさいのは、アルゴとディアベルが声を掛けているからだろう。ゆっくりと、身体を起こす。
目の前にアルゴとディアベルの心配顔が揃って俺を見ていた。
聴覚も戻り。頭の浮つきも戻る。
「ハチマン! ハチマンってバ! だいじょうぶカ?」
アルゴの声がようやく届く。
「あー、大丈夫だ。なんかぼけっとしてたらしい」
「そんな風に見えなかったよ。疲れているんじゃないか? 最近無理してるんだろう?」
水を注文したディアベルが俺の顔色を伺う。彼を見る限り、俺の顔色はあまりよくないのだろう。アバターの癖に結構細かいなあ……。
よし、無駄な思考が戻ってきた。どうやら俺は一瞬意識を失ったらしい。無理している自覚はないんだが……。
「ハチマン、今日はもう帰った方がいいヨ? でないと心配だヨ」
アルゴの気遣いの篭った声に、俺は頷いた。
「悪いな、今日は帰る。ちっと寝るわ」
「うん、それがいいね。ひとりで帰れるか?」
「そこまでガキじゃねえよ。ただ、サキに連絡入れてくれるか? ちっと用事があって寄れないって。正直、メッセージ打つのがしんどい……」
昼食を作ってくれているサキには申し訳ないが、ふたりのどちらかに言付けを預けて立ち上がる。まだ少しふらつくが、宿までは自分の足で帰れそうだった。
「ハチマン、無理しないでネ」
「ああ、専業主夫が俺の夢だからな。家でごろごろして外に出たくないまである。んじゃ、今日は悪いな」
軽口を言うだけいって、俺はそのまま店を出た。
まったく、働きたくねえなあ。