鼻腔を一瞬だけ、ほんの小さな針が掠めるような。
そんな感覚を、サイガ-0は嗅覚のどこかで覚え続けていた。
消毒液のにおいだ。
「……なるほど」
厳密にいえばサイガ-0は、まだサイガ-0というわけではなかった。どのゲームにもログインしていなかったからだ。しかし斎賀玲であるかと言えばそれも違った。すでに本体接続型のVRヘッドギアによって、おのれの頭部の上半分を覆い隠し――飛ばした意識で、ここに佇んでいた。ロビーに佇んでいた。VRシステムのOSによって用意された中継空間。リアルとゲームを結ぶ橋。そこに(特に設定を弄っていない場合は)現実と同じアバターで降り立ったプレイヤーたちは、例えば――
「ああ……ダウンロード版で持っているゲームは、一度落とし直さないと遊べないんだ」
例えばアカウントと紐付けられたゲームの
「本体のコンフィグごと初期化したから、ロビーの
あるいは設定メニューから、自身のVR体験にまつわるさまざまな要素を調整したり、もしくは――
「……病院みたい」
確かに。
確かに、病院のようだった。VRシステムのロビーはもっとも内心と発言が近い場所で、だから
ただそれは
消毒液のにおい。
消毒液のにおいだ。
「……これは想像より、……」
もっとも内心と発言が近い場所ですらストップがかかるような、言葉にされないつぶやきが、二、三、彼女の脳裏を駆ける。
「その……」
果たして、陽務楽郎から借り受けたVRヘッドギアの初回起動なのであった。
玲のヘッドギアが抱える不調を聞き、もう使わないから貸してくれるといういくつかのハードウェアを携えてまで、わざわざ自宅に訪れてくれた想い人。手渡されたデバイスの接続は果たして成功し、特にトラブルも起こらずに、円満な起動をすることができた。ただ――思った以上に、すべてがまっさらだった。
システム設定やログイン情報、外付けの記憶デバイスの類は、すべて初期化したり除去したりした後だという話は聞いていた。しかし……。
「その、その……」
……内心ですら言語化したくない何かがあったらしい。
あえて秘された
もろもろの法規制の関係もあるが、VRシステムはプレイヤーを
実際にゲームを遊んでいるときは、ゲーム側が出力する感覚の方が圧倒的に鮮明な場合が多いので、現実のそれらはほとんど塗りつぶされる。ただ――あくまで架け橋たる、ロビーであれば。それも旧型のヘッドギア越しに見る、法規制とは無関係に、単なる技術的理由から没入度が低いロビーであれば。
「……気を取り直しましょう」
リアルでもゲームでもまず言葉にはしないようなセリフを、
システムメニューを操作して、結ばれなかった「もしくは――」の続きを探す。
「……あれ?」
もしくは、ゲームプレイの過程で保存した様々なメディア……
したサイガ-0は果たして気づいた。
「……消えて、ない」
厳密にいえば、消えてはいた。
消しきれていなかった、というのが正しい。
楽郎が除去した外部の記憶デバイスとは別に、VRシステムはささやかな内部ストレージを持っている。彼は内部ストレージの容量のほとんどを、いくつかの小規模なダウンロード専売クソゲーの実行ファイルと、そのセーブデータに費やしていた。だからシステムを初期化したタイミングで、アカウントに登録されたライセンスに依存するそれらのデータは、クラウドストレージへとバックアップされたうえで消滅した。
実行ファイルやセーブデータによって埋められた容量の更なる狭間、たった数ギガバイトの領域を穴埋め的に満たしたそれらは――ライセンスを要求しない、メタデータ付きのメディアファイルでしかない。だから消えなかった。
消し忘れた。
「…………」
その時サイガ-0が無言のままに飲み込んだ唾も、やはり僅かなフィードバックという形で、現実の斎賀玲に届いていた。和室に敷かれた布団のうえ、己の視界をふさいで横たわる少女の喉が音を立てた。それだけじゃなく――ヘッドギアによる隠蔽から逃れ、障子の向こうから漏れ射す日光に、あらわにされた彼女の頬は。
少し、紅潮していた。
「…………」
いまだなおサイガ-0は無言だった。当然、内心ですら言語化したくない何かがあったからだ。無言で『ギャラリー』のアイコンを選んだ。無言で思考入力から展開を選択した。無言でタイル状に並んだいくつものサムネイルたちを一望した。
とりあえず、左上から見ることにしたらしい。
自分が消毒液のにおいを既に感じていないことに、サイガ-0自身、気づかなかった。
◇
【1~34個目のファイル】
メディアファイルたちは収録が行われたゲーム別にカテゴライズされたうえで、さらに収録日の古い順に並べられているらしかった。最初のグループは――メタデータを確認する前に分かった。ベルセルク・オンライン・パッションだ。
一人称での動画と、第三者視点の写真。この二種類を基本とするメディアファイルたちは、基本的にまあ、バグだった。腕が伸び、脚が伸び、眼球が三倍に膨張し、首が等速円運動し、人差し指が七つに分裂した。撮影の目的はテクニックの研究が主軸のようで、対戦カードがクリップごとにまるで別で、なんならサンラクが参加していない決闘の様子すら収録されている一方、撮影されたバグ技の内容には被りが多かった。
最後の三つのファイルにはグリッチノイズが走っていて、よくわからなかった。おそらく、スクリーンショットを撮影するという行為それ自体をバグ技に取り入れた結果なのだろう。サイガ-0はそう推測した。
【35~52個目のファイル】
このゲームも見覚えがある――と感じた通り、ネフィリム・ホロウだった。三人称後方視点で収録されたクリップが殆どを締め、自機のアセンブルが動画ごとに異なる。対戦相手もバラバラだが、どうやら作成日が遅くなるにつれ、ストーリーモードの後半のボスのようだ。キャンペーンを攻略するついでに、機体構成を模索する作業も行ったのだろう。
とっかえひっかえで切り替えられていく、軽量機から重量機、二脚から
とはいえまあ、
【52~54個目のファイル】
風景写真。密林らしきものや砂浜らしきものが写っているが、解像度が低くわかりづらい。外部メモリに移されず忘れ去られた、失敗作のスクショ、というところだろうか。
メタデータが破損しているらしく、『ゲーム名が取得できません』の表示が見える。
そういうこともたまにはある。
【55~74個目のファイル】
ここまで順次入れ替わっていた相手が、一気に固定された。すべてライオンになったのだ。
アニマルファイト・オンラインのゲーム側機能で書き出される対戦動画で間違いなかった。とはいえ内容は虚無だ。『サンラク』のネーム表示を頭上に浮かべて立ち向かう、トムソンガゼル、チーター、カバ、カンガルー、ゾウ、ペンギン、シカ、ネズミ。それらの多様な動物が繰り出す、多様な種類の攻撃に対し、ライオンたちのやることは変わらない。叫び、殴り、殴り、あとは
サイガ-0の記憶によれば、さすがにこのゲームの対戦相手は、これほどまでにライオンばかりではなかった。ゴリラもいた。しかしライオンの動画しか撮っていないというのは、サンラクがアニマルファイト・オンラインというゲームを、あくまでオンライン環境下でライオンを攻略することに主眼を置いて遊んでいたことを意味する。
『ベンP』だろうと『ネフホロ』だろうと、彼は特定の敵への対策ではなく、対戦での汎用的な強さを探るために動画を撮っていたように見える。一方このゲームでは――相手は一頭、ライオンだけだ。とはいえそう意外なことでもなかった。セオリーが固まっているから同じ技しか出さないだけで、本来ライオンたちの中身は別人だ。それにライオンは固定されていても、サンラクのアバターはいつも違う。負け方が一辺倒なのは置くとして、対戦環境を何とかしたいという思いは感じられた。
【75~104個目のファイル】
一方、問題はこれなのだ。
◇
「……これ、はっ……」
サイガ-0はわなわなと震えていた。
斎賀玲もすごく控えめな出力で、布団の上でわなわなと震えていた。
彼女は辻斬・狂想曲:オンラインをほとんど触れずに辞めてしまった。だからその対戦相手の名前も、少なくとも記憶してはいなかった。しかし逆に、これから忘れることもなかろう――その中世的な見た目の志士は、『ユラ』という名前を浮かべていた。
三十本の動画の相手はすべてユラだった。
三十本の動画の挑戦者はすべてサンラクだった。
しかも、装いもほとんど変えない。
「……っ!」
繰り返そう。
サイガ-0はわなわなと震えていた。
岩巻の話でも盗み聞きした楽郎の話でも、『幕末』の本質が
サイガ-0はほんとうに震えていた。動画の中でサンラクは、胴を斬ろうとして首を斬られ、首を斬ろうとして胴を斬られ、脳天を撃ち抜かれ、コミュニケーションをミスり、普通に落下死し、意味不明な四次元殺法をうけ、殴り倒され、そのすべてでとても楽しげだった。
中性的な外見の、中性的な声色のプレイヤーに、挑まんとするかのように見えた。
「……確かめ、なくては」
サイガ-0は行動を開始する。
展開していた全てのウィンドウを閉じて、ログアウトの準備を整える。『幕末』のソフトは想い人に倣ってパッケージ版で買ったから、それを起動するためには一度、
「……あった!!」
どこか機械的な印象を与える寒色のUIをしばらく遷移し、見つけ出したログアウトの選択肢を躊躇なく選んだ。挑戦者が
鼻腔を一瞬だけ、ほんの小さな針が掠めるような。
消毒液のにおいだ。