「で?してるんだ、同棲」
隣同士のカウンターで透が横から問いかけてくる。
それにスマホから目を離さず円香は返事をする。
「してるけど」
「ふふ、おもろいね、なんか」
「おもろないし」
そんな会話をしながら、円香が目を離さないスマホの画面を透は流し目で覗き込む。
「なにそれ?」
「ちょっと調べもの」
「ふーん」
透はそう言うとズゾゾゾと音を立て、ドリンクを飲み干した。
そして軽く伸びをして言う。
「しゃー、行くか、午後の仕事」
「もうそんな時間?」
「あーうん、一応早く行っとく」
「おけ、いってら」
ぷらぷらと手を振り、店から出て行く透を見送る。
流石の浅倉透と言えど、もう昔と同じではなく、もう立派な業界人だ、昔とは意識も仕事との向き合い方もかなり変化して、成長している。
そのため、円香は透の仕事に同行することは最近だとほぼない。
今日は珍しくランチの時間が合ったから一緒に食べただけだ。
さて、見送りをし終わり、もう一度スマホの画面に目を落とす。
画面に映る内容は「事故の後遺症」についてだった。
なぜこのようなことを調べているかというのはもう野暮だろう。
プロデューサー……一色翼のためだ。
これを調べる理由は今朝に巻き戻る。
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翼が退院してから数日後、円香は翼と一つ屋根の下で生活し始めた。
担当医である一色陽向の掲げた治療法『一緒にいること』を遂行するために。
それから更に数日普通に彼と生活をし、本当に記憶をなくしていることに絶望を味わいながらも、なんとか記憶を戻す手かがりがないかを探っていた。
そして彼も仕事に復帰する予定の今日の朝に驚くことが起きた。
「……できない」
ポツリとそう一言翼は呟いた。
どうしたの、と問いかける円香に翼はどこか弱々しく言葉を続ける。
「ネクタイが……結べないんだ、結び方は知ってるのに、実行しようとすると頭にモヤがかかって……何故か結べないんだ、はは、変だよな」
そう言って彼はまたネクタイを結ぼうと試行錯誤を続ける、しかし、遂にそのネクタイは結ばれることはなかった。
試行錯誤を重ねるうちに彼は泣き出してしまった、何故こんなことも出来なくなってしまったのかと、他の事は全て上手くできるのに、と。
そう子供のように泣きじゃくる彼を円香は少し戸惑いながら優しく抱き寄せる。
「大丈夫、私に任せて」
そう耳元で告げ、彼の結ぼうとして不格好な形となったネクタイを一度解く。
どうやら焦るうちにネクタイが表裏逆になっていたようだった。
ネクタイをもう一度彼の首に掛け、他人のネクタイを結んだことなど無いながらもなんとか少し不格好だが、結ぶことができた。
「ふぅ……出来た」
「……ははっ、円香はすごいな!」
「別に、そんな褒めることでもないでしょ」
「いや、助かったよ、ありがとう、円香」
そして、太陽のように眩しい笑顔を円香に向ける。
その笑顔に円香はモヤっとした感情を覚える。
前の彼なら……。
そう考えたところですぐに思考を止め、口を開く。
「そんなことよりも、仕事の時間ですよ、ミスター働き蟻」
「お、そうだな!行くか!」
そして共に彼の部屋を後にしたのだった。
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そして、今に至る。
とりあえずネットで手に入れた情報としてはそのような症状は割とあるらしく、大事なのはその『出来なくなった』という事実から、心を病まないようにケアをすることらしい。
それを見て、朝の自分の対応は間違えていなかったのだと内心ホッとする。
人にとって、過去に出来ていたことが出来なくなるということは酷いストレスだろう。
特にネクタイを巻くことなど、比較的簡単で、毎日行っていた事だ。
それが出来なくなった、とわかった瞬間の絶望感は正直なところ計り知れない。
なれば尚更のこと、彼の隣に居てやらなければならない。
今の彼は何が引き金になってポッキリと折れてしまうかわからないのだから。
……本当にそうなのだろうか。
本当に私が支えるべきなのだろうか、“今”の彼にはもしかしたら私は必要なくて、また一人の足で歩き出すのではないか、歩き出せるのでは……一色翼……いや”プロデューサー”という男は
そう思うと共に急な自尊心の低下を感じ、気分が下がる。
どこか今の状況に酔っていたような自分に気が付き嫌気が差す。
まるで彼の記憶の喪失を理由に自尊心を満たそうとしていた自分がとてつもなく惨めに感じた。
……今日の仕事はもうあらかた片付いているのだし、今日は直帰して、家で残りにカタをつけよう。
そう思い、席を立つと後ろから声がした。
「お、円香!偶然だな!」
確認をするまでもない、彼だ。
朝の様子とは打って変わり相も変わらずの好青年ぶりを発揮して、ランチをトレイに乗せて歩み寄ってきた。
「朝の様子とは大違いですね、ミスタースロースターター?」
「あぁ、久しぶりに現場の人達と話してな、元気をもらったよ」
「……へぇ、良かったですね」
「ははっ、間接的にだけど円香からも貰ったぞ、俺が寝てる間、頑張ってくれてたんだってな、ありがとう」
「体調を崩して、迷惑をかけましたが」
「……まぁそれはそれとして、まさか本当に円香が俺に憧れてプロデューサーになってくれてるなんてな、夢みたいだよ」
「……」
その言葉につい円香は苦虫を潰したような顔になり、固まる。
あぁ、嫌だ、本当に“はじめから”なんだ。
この数ヶ月で積み上げてきたもの、その全てが彼の主観からではなく、第三者の客観から評価されるのが今の円香にはとても辛かった。
私は彼から褒められたいのに。
積み上げが更地となった今、彼自身からの称賛は得られないのだ。
自分の行動原理が彼からの承認欲求であることを再認識し、円香は己の醜悪さに嫌気が差す。
“プロデューサー”の彼はつくづく円香の調子を崩す、それは4年前から何も変わっていない。
結局変わったのは円香の方で。
いつから私はこんなに“ワガママ”な女に……。
そう思ったころには口から悪態が吐かれてしまった。
「そのお眼鏡に叶ったようで良かったです、第一、色眼鏡かもしれませんが」
はっ、とし円香はプロデューサーに向き直る。
違う、私は……。
彼は……笑っていた。
“あの頃”と何も変わらない笑顔で。
「ははっ、色眼鏡をかけていても、いなくても、円香はいつだって頑張ってるのを俺は知ってる、だから大丈夫だ」
「どうして」
「ん?」
「どうして?私を、このワガママになってしまった私を、対等でありたいと思いながら貴方に褒めてもらいたい私を、貴方ではない“貴方”を見ている私を……大丈夫だなんて」
気づけば何故か溢れ出している涙、幸い店のカウンターの端席でその涙を見ている者は彼しかいない。
その涙にプロデューサーの彼は優しくハンカチを使い円香の涙を拭う。
そして、こう言う。
「……ごめんな、軽率だった、そうか本当に今の円香は俺の記憶の中の円香とはもう違うんだもんな」
「ちっ、違っ」
あなたが謝ることじゃない、と円香は否定しようとするも、しゃっくりに邪魔をされて上手く声が出せない。
そして彼はなおも言葉を紡ぐ。
「お互い、知ってる相手が違ってるんだ、でも……そうだな、円香は何も悪くないよ」
いや、悪いのは私だ、だって今だって勝手に泣いて勝手に迷惑を。
その否定もまた円香から発されることはない。
「人はさ、ワガママになれる相手を常に探してると思うんだ」
「……え?」
「俺達が居るのは全部が全部思い通りに行く世界じゃない、何かをするために何かを必ず犠牲にしなきゃいけないこの世界で、“我儘”なんていうのはかなり難しい願いだろ?それを他人に願える……なんてのは、信頼関係の現れだと思う」
「……」
「俺はさ、今とても幸せなんだと思う、記憶はないけどきっと幸せな時間を過ごして、他人の我儘を聞けてさ……いや、他人っていう表現は失礼か……?」
「……はい“私”にとっては」
一生懸命話す彼に少しまたワガママを鼻を啜りながら円香は言う。
「ははっ、それは申し訳ないなぁ!」
手を頭の後ろに回し朗らかに笑う彼に円香は腫らした瞼になんとか力を込めて微笑む。
「だからさ、俺は今幸せなんだ、俺じゃない“一色翼”って人間はさ、ちゃんと樋口円香という女性と恋人をやれていたんだ、ってそう実感できることがとても今の俺にとって幸福の種なんだ」
「種?」
「そう、種」
「その心は?」
「この種を発芽させるには俺じゃ駄目なんだ、この“プロデューサー”の俺じゃ」
「……ッ!!」
「悔しいことに今の俺は植えることはいくらでも出来る、でも多分きっと育てるのには水を遣りすぎる、種を知らず知らずに腐らせる、それがわかるんだ」
「その理由も、教えてもらえますか?」
「今、円香を泣かせた、それが理由だよ、たった一つの、とても大きな」
……私、泣きませんので。
過去に自分が言った言葉が急速にフラッシュバックする。
そして彼の言葉を理解し、円香は納得する。
「貴方は……プロデューサーの貴方は、手を抜けませんもんね」
「ははっ、そこが取り柄だったりするんだけどな」
「取り柄が必ずしもプラスの意味だとは限らないの典型ですね、貴方は」
「ははっ……だから円香、信じてくれ」
「はい」
彼は覚悟を決めた顔で宣言する。
「俺は
彼は彼なりの”ワガママ”を告げた。
「今度は俺から『
返答はもちろん、はい、の一言だった。