「なるほど、できていたことができなくなっていた、と」
「はい、彼が少し前に話していたんです」
____ネクタイを締めるとさ、みんなの為に頑張らなきゃなって、そういう想いが湧いてきて、無力な俺に力をくれるんだ。
「あの人にとって、ネクタイを結べなくなったというのはなにかスイッチが壊れたようになっているのではって、そう思ったんです」
「……そのスイッチを治してあげれば、記憶が戻るかもしれない…と、うん、十分に一考の価値ありですね」
「本当に?ただの思いつき程度ですが」
「いえ、そういうふうに一つずつ思い当たるものをシラミ潰しに潰して行くことが大事なんです、実際にそれを思い当たるまでの数日間は思い出の場所を巡ったりしたんでしょう?それと今回のものも一緒です」
そう、実際行ったのだ、大型ショッピングモールや二人行きつけのエビグラタンの美味しいお店、お気に入りのカフェなど、様々なところへ。
しかし。
___すまん、思い出せない……どれもこれも。
でもどれも楽しかったし、美味しかったぞ、と付け加える彼の申し訳のなさそうな顔はもう思い出したくもない。
もちろんその瞬間の私の顔など、もう誰にも見せたくなどない。
だからこそ、この可能性にどこか賭けている節がある。
ここのところずっと賭けてばかりだ、と思うがそれほどに自分が追い詰められているということを思い知ってからは全身で縋り付いている。
今度こそ、今度こそ、と。
「それじゃあ、樋口さん、一旦は翼と一緒にネクタイの結び方についてリハビリする形で進めていきましょう、大丈夫、きっと上手く行きますよ」
そうして、その日の面談は終わり、円香は診察室を出ていった。
彼女を見送り、自分の診察室に入った彼は椅子に思い切りもたれかかった。
___本当に?ただの思いつき程度ですが。
さりげない会話の一言、その言葉が一色陽向の頭の中を何度も木霊する。
なぜならその一言を放った彼女の顔は今にも心が折れそうな顔だったから。
「これが、ラストチャンス……かな」
正直なところ本当に記憶を戻す手がかりはこれが失敗に終わると、いよいよ無い。
もしかしたら一生戻らない可能性だって……
そう考えたところで駄目だ、と首を振り胸ポケットから煙草を取り出そうとするが。
その指が煙草の箱を掴むことはなかった。
はぁ……という深いため息を吐き、天を仰ぐ。
___煙草を吸っている貴方はどこかへ勝手に消えてしまいそう。
消えないさ。
___えぇ、そうね、消えるのは……。
やめるんだ。
___ふふっ、ごめんなさい。
君のことは俺が必ず。
___ありがとう……あ!そうだわ、どうかしら、私が良くなるまでは禁煙するっていうのは
……あぁ、勿論。
「俺はいつまで禁煙すれば……良いんだろうな」
その一言は誰に届くでもなく部屋の隅へと消えていく。
「せいぜい、
そう思い、もう一度デスクへと向かう。
陽向の昔の記憶は苦くて、不味くて、ちっとも美味しくない、けれどそのヤミツキになる香りは今もたまに彼の鼻孔をくすぐるのだった。
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「ということで」
「はい」
「ネクタイの準備はいいでしょうか?」
「もちろん」
「……嘘でしょ?」
円香は思わず頭を抱える。
「ネクタイの表裏が逆」
「おっと、これは失敬」
落ち着いた様子だがきっと彼は今もなお焦っているのだろう、指がもたついている。
そして表裏を直してバツの悪そうな顔で笑い言う。
「ははっ、なんだかネクタイを前にすると妙に緊張しちゃってな……!」
「……どんなふうに緊張を?先生に相談するので教えて下さい」
「あ、あぁ……なんて言えばいいんだろうな……ん〜上手く認識できないっていう表現が一番適切かもしれない、手元が急に暗くなったり、モヤがかかったり……」
「なるほど、伝えておきます」
翼は、兄と円香の相談に同席することを認められていない。
何故か、と兄に聞いたときの「マジかお前」という言わんばかりのあの顔で見られたときは流石に自分のデリカシーの無さに情けなくなったのを覚えている。
とりあえず、今はこのリハビリを続けるしか手はないのだ、と手元に意識を戻し、リハビリを開始した。
しかし、なかなかどうして言われた通りに巻くことができない、一つ一つのプロセスが大きな壁となり翼の精神を追い詰め、更に手元を狂わせる。
そして、完成したのは、こんな状態で取引先に行こうものなら失望待ったなしの不格好で醜いネクタイのような何か。
軸はブレ、ノットの三角は右肩上がりに歪んで緩い、大剣が短いせいで小剣がみっともなく大剣の下から伸びている。
情けない、そう思っている翼を円香の笑う。
「ふふ、いいんじゃないですか?」
そして、はいチーズと呟き携帯のカメラでそのネクタイと翼の写真を撮った。
「良くないさ……前はもっと、こう」
「良いんです、これから上手くなれば良いんだから」
そして、円香は翼の不格好なネクタイを解き、結び直した。
共に仕事をする、彼のために。
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さて、仕事だが。
正直アイドル達の練度が上がった今、プロデュースという観点から言うとその手の仕事をする必要が少なくなった。
やることと言えば舞い込んだ仕事の精査、スケジュール管理と現場への送迎付き添い程度。
正直283プロの発足時と比べると格段に楽になっている。
為だろう。
「天井社長、これはつまり」
「あぁ、その通りだ」
手元の資料をもう一度目を落とし、表題を黙読する。
project originality。
そう書かれていた。
そしてこれが意味することは……。
「樋口円香に次期プロジェクト
“project originality”のプロデューサーを任せたい」
「……円香に聞かせる前に、少しだけ……考えさせてもらえますか」
「あぁ勿論だ、ぜひ熟考して、より良いものと出来るようにしてほしい」
期待しているぞ、と言った天井社長に一礼し、翼は社長室を出た。
勿論、良いか悪いか、で言えばとても良い話だ。
事務所の事業拡大に、円香自身のキャリアアップも図れる。
しかし、ある一文が翼の心に引っかかる。
新世代男性アイドルプロジェクト。
そしてそれを再度一瞥し、なるほど、と気づく。
記憶を無くしていても、心に居着いているのだ『独占欲』なる感情が。
勝手だ。
とてもじゃないが仕事中に発揮するべき感情ではない。
しかし、確かな不安感に今、翼は襲われている。
その不安感は次第に言葉を依代とし、脳裏に酷くこびりつく。
『今こそ好いてくれては居るが、若い男が近くに居れば離れていくかもしれない。』
『自分も円香には半ば一目惚れのような感情に襲われてスカウトしたじゃないか。』
『俺は28歳で円香は21歳、7歳差だ、それに対して新しく入ってくることとなる男性アイドル達はどうだろう。』
うるさい、と次々と出てくる御託のような不安を払いのけ、自らの根底にある感情と対峙する。
『記憶が戻らなかったら、円香は俺のことをきっと嫌いになるだろう。』
ひどく寂しげな言葉。
そして対峙した結果、悔しいが頭の中に浮かぶのは納得のニ文字だった。
今はリハビリをしている最中で面倒を見てくれてはいるが、いよいよ記憶が戻らないと知ったなら彼女はどのような感情を抱くだろう。
答えは決まっている。
自らの徒労に対する哀れみだ。
あれだけやったのに、あれだけ尽力したのに。
という自分へのリターンの少なさに唖然とするはずだ。
優しい彼女でもそれは例外ではないだろう。
そして彼女は優しいからこそ、静かに俺の前から消える。
俺をこれ以上傷つけまいと、前の関係性に戻れば“この俺”は間違いなく“一色翼”たり得るのだから。
そうでなければ、一層苦しむのは彼女の方だから。
気づけば企画書には皺が深く入っていた。
最近リアルが忙しいせいでマジで書く気力が起きないんだが??助けて魔ノめぐる……(白目)