円香から受けた情報を紙に軽くまとめて陽向は渋い顔をする。
「……良い傾向…です」
「嘘」
鋭い指摘にビクッと肩を震わせ、わざとらしく彼は誤魔化す。
「ネクタイのことです」
「……そうしておきます、それで記憶の方は?」
「先程、二人で話をしましたが……今のところは」
「そうですか」
円香は深呼吸をしたあと「次の手を」と小さく呟き、唇を強く噛んだ。
それもそうだ、この一月の間、リハビリを続けての結果がこれなのだから。
翼の結ぶネクタイの完成度は、正直以前と同等ほどまで近づき、円香が教えることはもうなくなるところだ。
そこまで来たのに、残念ながら記憶が戻る気配は微塵もなかった。
___ははっ、すまん、円香。
ここ最近で聞き飽きた、その謝罪の言葉。
それが頭を木霊し、ズキズキと痛ませる。
気分は……最悪だった。
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最悪だ。
状況も俺も。
そう、病院の廊下のソファに腰掛けて頭を抱える。
この一月で何も得られなかった。
もはや円香に謝る際の作り笑いすら出来なくなってきた自分に向けて嘲笑う。
「俺は誰なんだろう」
もう診療時間を過ぎてしまっている病院の廊下にその証明をしてくれる人間など居るはずもなく。
自らの問いが耳に返ってくる。
一体、今の俺は誰なのだろう。
きっとそこに仕事の関係者が居れば「急に何?」というような顔をして言うだろう。
一色翼だ、と。
いとも簡単に己を定義してくれることだろう。
しかし、それでは駄目なのだ。
駄目なのだ、と彼女は言った。
記憶が無い今の俺にとって、彼女から発される一色翼が全てだ。
彼を取り戻して円香に幸せになってもらうのが全てだ。
それなのに“俺”はそれがたまらなく怖かった。
記憶を求めるたびに、求めた末に俺は居ないような気がして。
それが嫌で。
そう、いつだって薄汚い独占欲の矢印は常にこちらを指していた。
「恋敵は俺自身だなんてな……」
どうしようもない三角関係の一角となってしまったことを最近になって理解した。
だから、円香に対しての罪悪感が肥大化を始め、自分自身の首を絞める。
そしてそこに追い打ちをかけるように若干皺が寄った企画書がバッグから見え隠れをする。
project originality.
あぁ……本当に、最悪だ。
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刻一刻と、その時は迫っていた。
もう、目を背け続けることも、そのような余裕も何もなくなった。
あれから半月が経ち、翼はもはや自身の輪郭がボヤけ始めていた。
反芻するのは自分は誰なんだ、という自問自答の言葉。
なるほど、人間というのは。
誰かが己を定義したとしても、それを己であると理解ができなければ。
理解を“しなければ”。
自己の確立など簡単に手放せてしまうのだと知った。
しかし、それももう、やめよう。
これでは彼女も、俺もシアワセにはなれない。
だから。
対面に座る円香に企画書を差し出す。
あの皺の寄った企画書ではない、朝に刷った新しい企画書を。
まるでこれまでの自分の葛藤をひた隠すように。
まるで少しの迷いもなかったかのように。
笑顔で差し出した。
もう形も忘れてしまった彼女への新たなシアワセとして。
「円香に大きな仕事だよ」
「……」
「どうしたんだ?気分でも」
「煽りですか?ミスタースワンプマン」
ビリッ。
と音を立てたように空気が変わるのがわかった。
いや、音は鳴っていたか。
目線を下げると対面のデスクの上で無残に破かれた企画書の表紙があった。
あ〜、企画書が……。
とどこか呑気な自分を無視しながら目線を再度上げる。
泥人間、と。
所詮貴様は雷から生まれ、同じ動きをしているだけの泥人間だ、と翼を呼んでみせた彼女はひどく恐ろしい顔をしていた。
「なんですか、これは」
「これ、って?」
「ふざけるのも大概にしてください」
「ふざけてなんかいないよ」
「そうですか、じゃあ貴方は今正気だと?そう言いたいんですか?」
円香はまくし立てるようにそう言う。
しかし、どこまでも正気な“彼”は答える。
ただ
「ははっ、正気だよ」
その笑顔を見た円香は。
酷く顔を歪ませていた。
怒り、悲しみ、苛立ち、恥、恐怖それら全てを内包した顔をしていた。
それでも円香を。
俺は。
綺麗だな、と、そう思った。
そう思ったとき、円香はもう会議室には居なかった。
最後に彼女は何か言っていた気がするが、最早それを理解する能すら彼には残されていなかった。
もうそこは無機質な空間と空っぽな人間が在るだけだった。
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事務所で仕事をしていると、テレビにそれが映った。
project originality.
ニューシングル、オリコン1位。
円香は今幸せだろうな、とそう思った。
軽快で爽やかな音色が心地良くて、テレビを消した。