ネクタイノオモテウラ   作:建月 創始

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第7話 恋からの逃避行

どれだけモニターと対峙していただろうか。

もはや時間の概念などどうでも良いような気がしてきた頃。

そんなふうに考える。

 

そろそろ休憩?

 

いや、さっきの打ち合わせの議事録がまとめきれていない。

これは今日中に仕上げておきたい。

 

今週のうちに仕上げる書類はいくつある?

 

6つ。

議事録を合わせれば7。

大丈夫、時間はあるし、焦らずやらなければミスなんて到底しない。

 

それに。

 

それに誰も俺のことなど気にも留めていないだろうから。

こんな俺のことを気にかけ続けてくれる人なんてもう信じられなくなってしまったから。

 

湯水のように湧いて出てくる仕事とその書類の山。

少し前ならば吐き気すら催してしまうその光景に今は少し、安心を覚える。

それを片付ける役割が俺にはある。

それが俺に課された仕事だから。

俺が283プロ(ここ)に居て良い理由だから。

 

この書類の山を消した先にある自由など今はもう必要(欲しく)はないのだから。

 

「あと、一踏ん張り、だな」

 

軽く伸びをして一色翼はまたキーボードへ手を乗せ、カタカタと軽快な音を立て始める。

 

5度目の“あと一踏ん張り”。

視界の端にはアイドル達からの付箋付きの労いの品。

彼はそれらから目を背け続ける。

それは贖罪のつもりか。

はたまた自己防衛か。

それは彼自身ですらわからない。

 

なぜなら彼は自らの行動に疑問も何も抱いていないのだから。

___________________________________

 

電話が鳴る。

ちょうど良かった。

ちょうど休憩に入ろうと思っていたから。

一体何についての電話だろうか。

仕事の話であることは大前提として……。

 

鳴っている携帯は仕事用の携帯ではなく。

デスクに伏せてある個人持ちの携帯だった。

 

ふ、と電話を取る気がなると同時に、なんだ、と心底落胆する。

もはや誰からの電話であるかどうかもどうでも良くなり、発信元を確認することなくキーボードにまた手を乗せる。

 

そういえば何度か携帯が鳴っているような気がしていたが、原因はこれだったか。

良かった、客先には迷惑はかかっていないようだ。

本当に良かった。

 

しかし、今回は様子がおかしかった。

 

鳴り止まないコール音、机を震わせ続けるバイブレーション。

コール音が切れてからまた鳴り出すスパンがどんどんと短くなっている気がする。

 

もしかして、アイドルの誰かが事件に……?

 

いやありえない、緊急の連絡先は全てあっち(仕事用)の電話番号で統一している。

 

ならば誰が……?

 

胸のうちに立ち込め始めた不安感に突き動かされるように。

携帯電話へと手が伸びる。

 

その伸ばしている時間にも着々と不安感は募る。

一体誰が。

酒に酔った友人がイタズラ電話をして来ている、ならば結構なのだが。

しかしそのように生半可な剣幕ではない。

なにか重大なミスを犯してしまったのだろうか。

なにか悪いことでもしたのだろうか。

 

携帯電話を掴んだその瞬間。

 

脳裏に一人の女性の顔がフラッシュバックする。

若干赤みがかった茶髪のショートボブ。

ほんの少し垂れ目がちな視線に、魅力的な泣きぼくろ。

____樋口円香。

 

どこか慌てた様子で画面を裏返したとき。

先程まで耳をつんざくように鳴っていた音が、机だけでなく空気でさえもビリビリと震わせていたようだった振動音が、事切れた。

 

画面に映るのは。

兄、一色陽向からのおびただしい量の不在着信履歴と一つの留守電だった。

 

少し指先を震わせながら留守電のマークをタップする。

 

すると再生されたのは。

 

『今日、仕事が終わったのなら俺の診察室に来い』

 

という短く端的な言葉だった。

 

___________________________________

 

車を降り、呼び出された診察室へと向かう。

その面持ちは神妙で緊張に包まれている。

前へと歩みを進める足は重たく、今にも歩みを止めたい気持ちになる。

 

それは、もうこれから何が起きるか分かっているから。

過去に『正しい』と思い、下したその選択を否定されることが。

今の俺を、否定されることが。

その相手が他人ならば何も気に留めることなどない。

自分の生き方に指図される言われなど無いから。

 

しかし、それが親族、さらに兄だとしたならばそれはどうだろう。

正直、兄という生き物は人生において目標であり、天敵である。

当然翼の人間性(こと)など熟知しているはずで今回呼び出した、ということは翼のウィークポイントを間違いなく突いてくるはずなのだ。

それがとてつもなく翼にとっては怖くてたまらない。

 

そんなことを考えながら歩いているとものの数分で兄の診察室へと着いてしまった。

 

「ふぅ……」

 

深く、深く深呼吸をしてドアをノックする。

コンコンコン、という渇いた音がその時は嫌に長く響いているような気がした。

 

そして、「どうぞ」という兄の声を聴いてドアを開ける。

 

ドアを開け、視界に写った兄は酷くやつれているような気がした。

少し斑色のようになった髪の毛に無作法に伸ばされた髭、そして、手には狼煙のように上へ上へと煙が上がる煙草が握られていた。

 

そしてその様子の彼は煙草を吸い、呟く。

 

「ほう、来たのか」

「ははっ、あれだけ電話をされれば流石に来るよ」

「流石に……ねぇ…」

 

人を嘲笑うかのようなカカッという渇いた笑いと共に、煙が陽向の口から溢れ出す。

そして、おもむろに彼は灰皿に煙草を押し付け、立ち上がる。

凝った様子の首を左右に振り、前へと歩き出した。

 

一発目だ、と。

瞬間的に思い、翼は目を閉じる。

 

そして、次の瞬間にはおでこにピンッ!という甲高く鋭い衝撃が走った。

 

「そこまで落ちぶれちゃいねぇよ、おら、行くぞ」

 

そう言い残すとスタスタと歩き去る陽向の後ろを翼はついて歩く。

どこへ行くのか、と聞いても陽向は答えず前だけを見据える。

 

その態度は黙って俺について来い、と言わんばかりだった。

 

歩いて行き着いたところは、会社の車。

つまり翼が乗って来た車だった。

なんとも拍子抜けというか、なんというか……。

間抜けな表情のまま固まった翼に陽向が、ん、と手を前に出す。

 

「な、なに?」

「おい、マジで仕事のし過ぎでおかしくなってんのか?鍵だよ、車の」

「いや、これ社用車」

「良いから出せ」

「……」

 

若干の苛立ちを込めながら兄に向かって鍵を下投げで渡す。

彼はサンキュ、と言いながらその鍵を使って車に乗り込んだ。

それに合わせて翼も車に乗る。

 

「さて、どこに行くか」

「え?」

 

ハンドルを握り、そんなことを呟いた運転手に対して、極めて素頓狂な声が喉から漏れ出た。

その反応にニヤッと笑い返した兄の顔はまるで少年のようだった。

そしておもむろにドライブに入れると、車を発進させた。

 

「まぁ、いっか」

 

そんなことを言って。

___________________________________

 

あれからも何度か相談は受けていた。

ただ、こちらとしてももうお手上げと言ったような状況で……。

思考を回せど、最早良い案は出てこない。

 

彼は消えてしまった、と言ってしまえばこの人は下がってくれるだろうか。

 

考えるが、そんなことはしない。

それではあまりにも報われない。

まだなにか出来るだろう。

まだなにか、あと一つ。

 

電話の先で女性がぼそっと呟く。

 

その一言を男は聞き逃さなかった。

それだ、と呟き立ち上がると。

電話をかける。

一色翼へと。

弟へと。

しかし、何度かけどもかけども繋がらない電話に若干の焦りを込めて。

ショートメッセージを送る。

 

『今日、仕事が終わったのなら俺の診察室に来い』

 

と。

男は……一色陽向はコンビニで煙草を買うことにした。

勢いを殺すわけには行かない。

 

禁煙は、終わりだ。

___________________________________

 

車は走り出した。

行く宛もなくとにかく前へ前へと。

 

そのまるで青く晴れた空が似合いの様子とは裏腹に、翼の内心は疑問で一杯だった。

それが流石に言葉となって飛び出した。

 

「そろそろ、流石に何が目的か聞いても?」

「目的?兄弟水入らずのドライブじゃダメかよ」

 

ごもっともすぎる回答に翼は思わず口を噤む。

ただ、今日呼び出した理由はそれだけじゃないのもわかっているため、安易に納得したりはしない。

 

「い、いやまぁダメじゃないけど……流石に唐突すぎる」

「まぁまぁあんま考えすぎんなって、仕事で疲れてんだろ?景色見ときゃ時間なんか過ぎていくさ」

「誤魔化すのと理由を話すのは全然違う」

 

その言葉を聞いてから少しして、それもそうだな、と言いたげな表情を浮かべ陽向は口を開く。

 

「……まぁ勿論、今回呼び出したのはドライブだけが理由じゃない、ただその話をするなら、ドライブ中が最適だと思った」

 

それだけだ、と彼は誤魔化す様子なく言った。

ならば、と翼は質問を続ける。

 

「じゃあその話っていうのは」

「だから急くなって、童貞か?」

「どっ……」

 

そこで、はっとする。

俺は、“もう一人”の俺は、一度でも円香と身体を重ねた経験があるのだろうか。

少なくとも、俺の中には円香以外でそのような関係まで到達した相手は思い当たらなかった。

 

もし、過去の自分がそこまで行っていたなら。

 

そう考える所まで行って、横から飛んできた笑い声に思考を止められた。

 

「今、羨ましく思ったろ?」

「う、うるさいな」

 

まるで思考を読まれたかのような感じがして少々苛立ちながら答えた翼に対して、悪い悪い、と微笑しながら兄は続ける。

 

「たださ、こういう話は診察室(あそこ)じゃできないだろ?」

 

確かに、と思う。

医者としての立場がある兄はそのしがらみから離れる必要があったのだ、と理解し、今の彼が素の一色陽向であることを再認識した。

 

陽向はおもむろに語り出す。

自分の全てをさらけ出す様に。

 

「兄ちゃんな、禁煙やめたんだ、なんでだと思う?」

 

翼は陽向がヘビースモーカーとは行かないまでもまぁまぁの本数を1日に吸っていたことを知っている。

しかし禁煙についての理由については全くもって知らなかった。

 

首を傾げるとその情報を補足するように陽向は話し始めた。

 

「前の恋に固執することを辞めたんだ、いわば吹っ切れたってやつだな」

「前の恋?」

 

そう聞き返した弟に対して、まぁ聞き流してはくれないよな、と言わんばかりにバツの悪そうな表情を浮かべ、話を続けた。

 

「研修医のときな、担当した患者に一目惚れして、入れ込んで……先に逝かれて、自分の自惚れを知ったっつー面白みもない昔話……そんなの聞きたくもないだろ?」

「その表情でそれじゃ、聞いてくれるなって言ってるようなもんだろ」

「それがわかってるのなら良し、聞いてくれるな……さて、そこでな約束をしたんだ……『私が良くなるまで禁煙』ってな」

 

先程のあらすじによると、その約束の相手は。

 

「ひでぇ約束だよな……全く、自分の命の灯火が消えそうなのを感じてさ、青少年の心を弄んだんだ」

 

そこまで話して渇いた笑いをこぼし、兄は言う。

 

「そして、その約束にずっと縛られて生きてきたって訳よ、一途だよなぁ」

 

そんなふうに自分を嘲笑する陽向のことを、翼は笑えないでいた。

この人を笑ってはいけない、と兄とは真反対の神妙な面持ちで話を聞く。

 

んで、とまだ陽向は話を続ける。

 

「今日もさ相談を受けてたわけ、誰とは言わないけど」

「円香……?」

「言わないって、まぁ勝手に解釈してもらって構わないけどさ」

 

そして何やらペラペラと喋り始めた陽向の話を他所に、どこか引っかかる点があるのを感じる。

 

今の話の脈絡で何故急に円香の話が出てきたのか。

何故俺にそんな話をする必要があるのか。

何故過去の悲劇を、笑えるのか。

何故前の恋から吹っ切れることが出来たのか。

 

次々と疑問が乱立する、しかし、その全ての疑問は長考をすることなく結論へと達した

 

まさか。

そんなことは。

 

兄さんが。

 

「俺、樋口さんのこと好きになっちまったんだよな((円香を好きになるなんてことは))

 

思考が到達したのと同時に、その言葉は鼓膜に直撃した。

 

「なっ……」

 

動揺が抑えきれず、思わず声が漏れた。

 

今度はその反応を見ても、笑わなかった。

その表情は、真面目なときのそれだった。

 

しかし、恋人である弟の前でこの兄は一体何を……。

 

Project originality.

 

突然その単語が頭の中でフラッシュバックする。

そして、そのフラッシュバックは今の俺が詰んでいること知らせに来た。

 

あの企画書を彼女へ提示した瞬間。

俺と円香は“別れたも同然の関係”へと変化してしまっていた。

 

静かに俺と円香を結びつけていたネクタイが綻び、解けていくのを感じる。

しかし、何故か解けていっているのに呼吸には首を絞めた時のような息苦しさと痛みが伴う。

 

苦しい呼吸をなんとか続け、考える。

 

もし。

もし、この息苦しさと痛みをあの企画書を渡した瞬間に彼女も感じていたとしたら。

 

『ミスタースワンプマン』

 

その言葉を思い出し、なるほど、と思う。

確かに日々の何気ない仕事の一部としてこのような痛みを与えた俺は、人の痛みを理解していない“偽物”である。

それはもう泥人形(スワンプマン)と何ら遜色ないだろう。

 

全て自分が蒔いた種なのだ、諦めるべきだ。

 

そう思ったとき。

声がした。

 

諦めるな。

 

と。

耳からではなく、頭に直接“俺”の声が響く。

 

諦めたくないはずだ。

彼女に一度も好きだ、と伝えることのないままに今のお前は諦めることなど出来ない。

 

と。

 

“今度は俺から『告白(好きだ)』って言わせてくれ”

 

過去に彼女に言ったその言葉。

それは記憶が戻ったら、という前提で言った言葉だ。

だからこそ、今の俺には言う権利がない、とそう思っていた。

 

ただ心の内には常にその好きだという気持ちがあって。

あったからこそ記憶の戻らないことが後ろめたくなって、円香にそんな姿を見せたくなくて、結果的に手放すこととなってしまった。

 

そして仕事に逃避した。

 

そんなことをした俺が、彼女に今どう思われているか、それを知るのはとても怖い。

でも、チャンスがなくなる前に彼女が遠くに行ってしまうのはもっと怖い。

 

諦めたくない。

 

とにかく今は振られても良い、罵倒されても良い。

ただ、ただひたすらに自分の気持ちを伝えたい。

結果はどうでも良い、ただ今のように未練がましく生きたくは無い。

 

諦めたくない。

諦めない。

 

気がつくと口が言葉を紡いでいた。

 

「あと一週間時間をく」

「一週間〜?」

 

口から飛び出たその言葉に更に覆い被さるように兄の声が重なる。

 

「だ〜めだな、俺は明日にでも告白する、今日はその宣戦布告なんだからな」

 

カカカッ、と愉快そうに笑う兄の挑発に乗せられるように勢い良く翼は言う。

 

「そんなの、今日しかないじゃないか!」

「今日行けよ」

 

静謐。

前を向きながら言ったはずのその言葉はフロントガラスに反射することなく、真っ直ぐ翼を突き刺した。

その冷ややかさはまさに「今決めないならもうチャンスは与えない」と語っていた。

 

思考を回す。

なんとか時間を引き伸ばすことは出来ないか、兄を止めることは出来ないか。

 

出来るわけ無い。

恋は情動的な感情だ。

そう自覚した瞬間に言葉として吐き出したくなる、そんな感情。

兄は今その最中に居るのだ。

止められるわけがない。

 

なら本当に、今日しかない。

それにかくいう俺自身もこのわだかまりを抱えたまま、一週間も待てるわけがない。

 

ふぅ、と軽く、しかし、確かに決意を込めて息を吐き、言う。

 

「……わかった、今から連絡する」

「英断だな」

 

挑発的な態度に戻った兄の顔は見ずに携帯を取り出し、電源をつける。

 

目に入るはロック画面にポツンと残る白いバナー。

見慣れたそれはチェインの通知だった。

そこにはこう書いてあった。

 

『事務所で待ってます。』

 

差出人は。

円香だった。

 

程なくして兄は事務所へ向け、舵を切った。

その横顔を見て、翼はまんまと乗せられた、と思う。

その顔は……たまらなく嬉しそうな顔をしていたから。




ラストスパート、頑張ります。
なので最後までご愛読いただけると幸いです。
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