ふたつの偶然が紡ぐ物語   作:天狼レイン

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 睡眠薬を飲んでも寝られなかったので根性で最新話を執筆しました。
 相変わらずここは書くことが多くて大変ですね。
 今回の話は、キリトの在り方を強く決定するもののひとつです。
 なので気合を入れて書きました。書いたのですが……
 なんだこのイケメン。お前、そんな感じならモテるぞ、クライン。
 これはキリトたちも負けていられませんね、と書きながら思いました。


追記
 原作ではベータは最大6層までしか登れなかったことになっています。
 しかし、プログレッシブや映画などでは10層まで上がったことになっており、齟齬が生じるので、この作品では10層まで登ったことにします。




1.ゲーム・スタート

 

 

 

 

 

 

 ログアウトボタンの消失を知ったのは、クラインと別れを告げた直後。

 きっかけは、ゲームからログアウトしようとした彼が放った一言だった。

 

「ボタンがないって……そんな訳ないだろ、もう一回よく見てみろって」

 

 そんな荒唐無稽な話はあるはずがない。呆れた声でキリトはそう告げる。

 長身の曲刀使いは、悪趣味なバンダナの下にある目を剥いて顔を手元に近付けた。

 何もそんなことまでしなくても見つかるだろうと思いはしたが、彼の反応は良くない。

 その反応の悪さに、隣にいるユウキも確認を始める。

 そうして、僅かな時間ののち、今度は二人の声が続け様に上がった。

 

「やっぱ何処にもねぇよ。おめぇも見てみろって、キリト」

 

「だから、んな訳ないって……」

 

「キリト、ログアウトボタンってメニュータブの一番下だよね?」

 

「ん? ああ、そうだけど……」

 

「なかったよ、キリト。ボクも見つからない」

 

 その言葉を引いて、キリトはクラインの見落としではないと即座に理解した。

 ユウキは覚えが良い子だ。咄嗟に忘れていたことを思い出せるくらい記憶力が良い。

 その彼女が見つからない。あったはずの場所すら確認してきたのだ。

 キリトは手慣れた操作で、すぐに自分の目でも確認を入れることにした。

 右手の人差し指と中指を真っ直ぐ揃えて掲げ、真下に振る。

 ゲームの《メインメニュー・ウインドウ》を呼び出すアクション。たちまち、鈴を鳴らすような効果音と共に、紫色に発光する半透明の矩形が姿を現す。

 まだ空白の多い装備フィギュアが浮かび上がり、左にはメニュータブがぎっしりと並ぶ。

 そのまま、メニュータブの一番下まで目を通し、ぴたりと動きを止める。

 無かった。

 クラインとユウキの言葉通り、そこにはベータテストの時はあった――いや、今日の午後一時にログインした時にはあったはずのログアウトボタンが、綺麗に消滅していた。

 空白箇所をまじまじと数秒間眺める。メニューの何処かに移動した訳ではなさそうだった。

 

「……ねぇだろ?」

 

「ああ、なくなってるな」

 

「…………」

 

 ユウキの顔が険しくなる。

 一方で、曲刀使いはニマっと頬を吊り上げ、逞しい顎を撫でた。

 

「ま、今日はゲームの正式サービス初日だかんな。こんなバグも出るだろ。今頃GMコールが殺到して、運営は半泣きだろなぁ。対処する側を想像するだけで身震いしてきやがったぜ」

 

 のんびりした口調でそう言うクラインだが、彼はあることを忘れていた。

 それを覚えていたキリトは、やや意地悪い声音でツッコミを入れる。

 

「そんな余裕かましてていいのか? さっき、五時半にピザの配達頼んであるって言ってなかったか?」

 

「うおっ、そうだった!」

 

 目を丸くして飛び上がるその姿に、つい口元を緩めてしまう。

 けれど、その笑みは長くは続かなかった。隣にいるユウキの表情が気になったのだ。

 

「どうしたんだ、ユウキ」

 

「ねえ、キリト」

 

「なんだ?」

 

「今の事態ってさ、()()()()()()?」

 

「バグかどうかってそれは……っ!?」

 

 血の気が引いた。これがバグではなかった時の可能性がいくつか想定できたのだ。

 これが狙って起こされた場合、俺たちはどうなるのだろうと考えてしまった。

 ログアウトボタンがない以上、自発的にログアウトする手段をキリトは知らなかった。

 そうなると、あとは《ナーヴギア》の電源を切るか、或いは頭から外すしかない。

 しかし、現在キリトたちは現実の体を動かすことはできない。命令は全て《ナーヴギア》によって吸われている。インタラプトして、アバターを動かす信号にする為に。

 あのヘッドギアが起動している間は、どんなことをしようと、現実には何も起こらない。

 よって、自力では何もできないのだ。

 

「ってことは、そろそろ帰ってきてるだろうスグが外してくれるのを待つしかないってことか……?」

 

「うん、そうなるね」

 

「…………」

 

 向こうではクラインがひたすらログアウトできないか、色々と試しているのが見える。

 見ている限り進展はないようだ。それを見せられる度に、キリトは嫌な予感を募らせた。

 この状況であれば、もう運営サイドがサーバーを停止してでもログアウトさせるのが普通だ。

 既にこの事態にキリトたちが気付いて十五分は経過している。GMコールだって送っている。

 それなのに、運営のアナウンスひとつないのだ。

 

 SAOの開発運営元は《アーガス》という会社だ。彼らはユーザー重視な姿勢で名を売ってきた。その信用があるからこそ、初めてリリースするネットゲームでも、テレビで報道されるような争奪戦が起きたのだ。特にSAOはVRMMOというジャンルの先駆けでもある。

 

「下手すればジャンルすら規制されかねない問題だ。それに、アーガスらしくない……」

 

「まるで、想定外の事態が起きてる、みたいだよね……」

 

「おいおい、二人ともどうし……」

 

 一頻り試して諦めて戻ってきたクラインが、二人の真剣な顔を見て言葉を途切れさせる。

 キリトとユウキの様子が変だということに気付いたのだ。

 

「クライン。落ち着いて聞いてくれるか……」

 

「な、なんだよキリトよぉ……ユウキちゃんもそんな顔してどうしたんだよ」

 

「ボク、嫌な予感がするんだ、クラインさん」

 

「嫌な予感って……バグが直るか、《アーガス》が……」

 

「その《アーガス》が対応遅れをしているのがおかしいってことだ」

 

「っ!? ……そうだよな、《アーガス》って言やぁ、ユーザー重視の……」

 

「ああ、だから、もしかすると、この事態は――」

 

 キリトが言葉を続けようとした時、時刻が五時半を回った。

 直後、この世界はその有り様を、永久に変えることになる。

 

 

 

 

 

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 突然、リンゴーン、リンゴーンと鐘の音のような、或いは警告音を思わせるサウンドが鳴った。

 キリトたちのいる場所は《はじまりの街》からかなり遠い。それでも聞こえるほどの音だ。

 何事か、と嫌な予感を共有していた三人がお互いを向いてから周囲を警戒する。

 周囲に何かが起きている訳ではなかった。警戒を僅かに解く、その瞬間だ。

 三人の体を、鮮やかなブルーの光の柱が包んだのだ。青い膜の向こうで、先程までの景色がどんどん薄れていく。この現象に、キリトは覚えがあった。

 ベータテスト中に何度も経験した、場所移動用アイテムによる《転移(テレポート)》だ。

 しかし、キリトたちは誰もそのアイテムを握ってすらいなかった。コマンドだって唱えていない。運営側の強制移動だとしても、アナウンスも無しなのは異常だった。

 青の輝きが薄れると同時に、景色は元に戻った。

 だが、そこはもう夕暮れの草原などではない。

 

 広大な石畳に、周囲を囲む街路樹。瀟洒な中世風の街並み。

 そして、正面遠くに聳える、黒光りする巨大な宮殿《黒鉄宮》の姿。

 間違いない。ここは、ゲームのスタート地点である《はじまりの街》、その中央広場だった。

 

 咄嗟に周囲を確認する。そこには、ユウキの姿があった。勿論、クラインの姿も。

 どうやら、さっきの《転移》で離ればなれになった訳では無かった。

 ユウキに独り寂しい思いをさせずに済んだことを安堵する。

 周囲には、色とりどりの装備、髪色が見えた。その全てがプレイヤーであった。

 どう見ても数千――いや、一万人近くいる。全員がここに強制テレポートされたのだ。

 数秒間、事態を呑み込むのに人々は押し黙り、きょろきょろと周囲を確認していた。

 やがて、ざわざわと声がそこかしらで発生し、徐々にそのボリュームを上げていく。

 ざわめきが次第に苛立ちの色合いを増すのも、そう遠い話ではなかった。

 喚き声も散発し始める。そこで、キリトはユウキの手を握った。

 

「ユウキ」

 

「うん、大丈夫だよ、キリト。ボクは怖くないから」

 

 ユウキは、落ち着いていた。そのことにキリトは心配いらなかったかと安心する。

 その直後のことだった。周囲の声を押しのけ、誰かが叫んだ。

 

「あっ……上を見ろ!」

 

 キリトとユウキ、それにクラインは、反射的に視線を上げた。

 そして、異様なものを目にする。

 少なくとも先程の夕焼けの影響を受けたものではないかとを理解した。

 

 百メートル上空、第二層の底を、真紅の市松模様が染め上げていく。

 先程まで薄紫に染まっていた底部は何処へやら。別物へと化していた。

 

 よく見ると、その市松模様は二つの英文が交互にパターン表示されたものでしかなかった。

 真っ赤なフォントで綴られた単語は【Warning】。

 もう一つは【System Announcement】とあった。

 つまりこれは、運営からのアナウンスで間違いない。一斉に安堵するプレイヤー達。

 だが、キリトとユウキ、クラインの三人だけは嫌な予感が消えることはなかった。

 ただただ異様すぎた。警戒していた彼らの安心を搔き消す何かがそこにあったのだ。

 

 それに応えるかのように、続けて起きた現象は全プレイヤーの予想を大きく裏切るものだった。

 空を埋め尽くす真紅のパターン、その中央部分がまるで巨大な血液の雫のようにどろりと垂れ下がったのだ。高い粘度を感じさせる動きでゆっくりと滴り、だが落下し切ることなく、赤い一滴は空中でその姿を変化させた。

 

 出現したのは、体長二十メートルはあろうかという、真紅のフード付きローブを纏った巨大な人の姿だった。

 

 しかし、それが人の姿だと感じたのは最初だけで、途中から不気味なものでしかないことに気がついた。フードの中には顔がなく、長い袖の中にも肉体らしきものがない。空疎な間隙があるだけだ。

 

 キリトには、いや、恐らくベータテスターには見覚えがあった。

 しかし、記憶の中のそれとは何かが違う。違和感がある。

 大きなアバターは両袖をそれぞれゆっくりと掲げて――――

 

 

 

 

 

『プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ』 

 

 

 

 

 

 その一言は、あまりにも場違いなものであった。

 現在プレイヤー達はログアウトに関する情報を求めている。

 漸く登場したGM(ゲームマスター)にはその説明責任があるはずなのに、出てきて告げたのは自分がそれだと言わんばかりのセリフ。あまりにも意味がわからない。

 それは他プレイヤー達どころか、三人を困惑させるには充分だった。

 しかし、続けて放たれた言葉に、誰もが驚愕することとなる。

 

 

 

 

 

『私の名前は茅場(かやば)晶彦(あきひこ)

 今やこの世界をコントロールできる唯一の人間だ』

 

 

 

 

 

「茅場……晶彦!?」

 

 

 

 その名前をキリトはよく知っていた。知らないはずはなかった。

 ナーヴギアの基礎設計者。

 SAOの開発ディレクター。

 アーガスを急成長させた天才ゲームデザイナー。

 天才量子物理学者。

 ひとりのコアゲーマーとして憧れていた存在だった。

 彼はメディアへの露出を極力避けている。その為、インタビューは数少ない。

 それでも、彼の紹介記事や、そのインタビューが載った雑誌記事を欠かさず購入した。

 名前ひとつで、その容姿を思い浮かべることが出来るほどにまで記事を暗記すらしていた。

 その彼は表に出てきた。裏方に徹する人物だ。そんな男が、こうして出てこないといけないということは、それほど事態は急を要するのか、或いは洒落にならない事態に発展しているのか。

 自分なりに茅場昌彦を理解しようとしていたキリトはそのように考えていた。

 しかし、空疎なフードの下から続けて発せられた言葉は、その解釈を粉微塵にするものだった。

 

 

 

 

 

『プレイヤー諸君は、すでにメインメニューからログアウトボタンが消滅していることに気付いていると思う。

 しかしゲームの不具合ではない。

 繰り返す。これは不具合ではなく、《ソードアート・オンライン》本来の仕様である』

 

 

 

 

 

 

 続けて告げられた一言が、キリトにこの現状における、ある程度の理解を及ばせた。

 不具合ではなく、仕様。その一言でユウキの嫌な予感が当たってしまったことを理解した。

 隣では、割れた声でクラインが何かを囁いていたが、キリトには気にする余裕がなかった。

 どよめきが走る中で、茅場晶彦はさらにアナウンスを続ける。

 

『諸君は今後、この城の頂を極めるまで、ゲームから自発的にログアウトすることはできない』

 

 この城の頂――おおよそ城と言えるものを、キリトはこの場所において知らなかった。

 しかし、頂と呼べるものなら一つだけ気がついた。

 全百層、それがこの《ソードアート・オンライン》の世界だ。

 頂はその全百層の百層目を示す言葉だとすれば――――

 

「まさか……」

 

「その、まさかだと思うよ、キリト」

 

 嫌な汗を流しながら、ユウキが幼馴染の考えを肯定する。

 その声は僅かに震えていた。ユウキも同様の考えに及んでいたのだろう。

 だからこそ、次に飛び出す言葉を耳にする心の準備は出来ていた。

 キリトと同じ趣味を有しているからこそ、この後の展開に覚えがあったからだ。

 

『……また、外部の人間の手による、ナーヴギアの停止あるいは解除も有り得ない。もしそれが試みられた場合――――』

 

 僅かな間を以て、その言葉は冷酷に告げられた。

 

『――ナーヴギアの信号素子が発する高出力マイクロウェーブが、諸君の脳を破壊し、生命活動を停止させる』

 

 プレイヤーのほぼ全てが、たっぷり数秒間、呆けた顔を見合わせ続けることになった。

 キリトとユウキは、察していたからこそ上げそうになった声を何とか堪える。

 分かってはいたが、それでも中々に理解しがたい気持ちが脳を突き抜けた。

 脳を破壊する。それがつまり、何を指し示すのか――それは単純なこと。

 殺す。ナーヴギアの電源を落としても、ロックを解除して外そうとしても。

 そのような試みを起こした時、着装しているユーザーを殺すと言ったのだ。

 

「はは……何言ってんだアイツ、おかしいんじゃねぇのか。んなことできる訳がねえ。

 ナーヴギアは……ただのゲーム機じゃねえか。脳を破壊するなんて……んな真似ができる訳ねえだろ……そうだろ、キリト……」

 

 クラインの縋るような声。後半は最早掠れてさえいた。食い入るように凝視される。

 それに、キリトは同意の頷きを返すことはできなかった。

 誰よりも早く、事態を理解し、ナーヴギアの仕組みを理解していたキリトの頭は冴えていた。

 ナーヴギアは、ヘルメット内部に埋め込まれた無数の信号素子から、微弱な電磁波を発生させ、脳細胞そのもの疑似的感覚信号を与える仕組みだ。まさに最先端テクノロジーと言える。

 しかし、原理的にはそれと全く同じ電子製品がもう四十年も前から登場していた。

 それは、日本の家庭では使われていて、主流なものとなった電子レンジというものだ。

 充分な出力さえ確保できれば、ナーヴギアにはユーザーの脳細胞中の水分を高速振動させ、摩擦熱によって蒸し焼きにすることが出来る。その充分な出力をもたらす電力は――

 

「可能だ」

 

 あるのだ。ギアの重量。その三割はバッテリセルだ。

 キリトの言葉にクラインが目を剥いた。

 

「おいおい……じゃあ、瞬間停電があった時なんかどうすんだよ!」

 

 クラインの叫びが聞こえていたかのように、茅場昌彦はアナウンスを再開する。

 

『より具体的には、十分間の外部電源切断、二時間のネットワーク回線切断、ナーヴギア本体のロック解除または分解または破壊の試み――以上のいずれかの条件によって脳破壊シークエンスが実行される。

 この条件は、すでに外部世界では当局およびマスコミを通して告知されている。

 ちなみに現時点で、プレイヤーの家族友人等が警告を無視してナーヴギアの強制除装を試みた例が少なからずあり、その結果』

 

 一呼吸入る、その間。茅場 晶彦が意図的に作り出した間ならば、彼は心底嫌な奴だと宣言できる。恐怖と絶望を深く掻き立てる、このちょうどいい間を知っていたのなら、余計に。

 まるで、出来の良い劇作家のように、奴は誰もが聞きたくない言葉を紡いでみせた。

 

『――残念ながら、すでに二百十三名のプレイヤーが、アインクラッド及び現実世界からも永久退場している』

 

 何処かで細い悲鳴が上がった。殆どのプレイヤーは、まだ受け入れられないという反応で、ぽかんと放心したり、薄い笑いを浮かべていた。隣にいるクラインも似たような反応をしている。

 聞こえた悲鳴に、手を握っていたユウキの力が強くなった。それにキリトは気付いた。咄嗟に、ユウキを抱き寄せる。落ち着かせようと試み、少しでも怖くないようにと。

 ざわつく周囲の声を遮るように、再びアナウンスは再開される。

 

『諸君が、向こう側に置いてきた肉体の心配をする必要はない。

 現在、あらゆるテレビ、ラジオ、ネットメディアはこの状況を、多数の死者が出ていることも含め、繰り返し報道している。諸君のナーヴギアが強引に除装される危険はすでに低くなっていると言ってもよかろう。

 今後、諸君の現実の体は、ナーヴギアを装着したまま二時間の回線切断猶予時間のうちに病院その他の施設へと搬送され、厳重な介護態勢のもとに置かれるはずだ。

 諸君には、安心して……ゲーム攻略に励んでほしい』

 

 最早、これはゲームなどではなかった。思わず、キリトは叫びたくなるが、ユウキの存在を強く感じている以上、彼女の恐怖を必要以上に煽りたくなどなかった。

 けれど、どれほど気を遣っても、茅場昌彦には関係ない。

 次の言葉は、最も鋭利な刃物のように、深く、深く、押し込んでくるようだった。

 

『しかし、充分に留意してもらいたい。

 諸君にとって、《ソードアート・オンライン》は、すでにただのゲームではない。

 もう一つの現実とも言うべき存在だ。

 ……今後、ゲームにおいて、あらゆる蘇生手段は機能しない。ヒットポイントがゼロになった瞬間、諸君のアバターは永久に消滅し、同時に諸君らの脳は、ナーヴギアによって破壊される』

 

 これまでを上回るほどに、ユウキの体が震えた。本能から来る反射だったのだろう。

 彼女の表情は恐怖に歪んではいなかった。それでも、殺すと言われて震えないはずがない。

 実際、キリトも震えた。それが事実だと理解できたからこその震えだった。

 だからこそ、彼が出来ることはたったひとつ。

 

「大丈夫だ、ユウキ。俺がいる。俺が一緒に、いるからな」

 

 その言葉に、ユウキの体から余計な強張りが減ったように感じた。

 こちらを見る彼女の目は、感謝しているように見える。

 それから、すぐ二人の視線は、真っ直ぐあの巨大なアバターに向けられた。

 説明は再開される。

 

『諸君がこのゲームから解放される条件は、たった一つ。

 先に述べた通り、アインクラッド最上部、第百層まで辿り着き、そこに待つ最終ボスを倒してゲームをクリアすればよい。その瞬間、生き残ったプレイヤー全員が安全にログアウトされることを保証しよう』

 

 塔を極めるまで。それが、彼から提示された唯一の生存方法だった。

 ベータテストの時、二か月で十層までしか登れなかったこの城を、百層まで登れと言われた。

 何度も死にながら、何とかあの時登った十層よりも、遥か先まで登らなければならない。

 最前線を走り続けていたキリトは、そのことを強く悟った。

 すぐ隣で、そのことをクラインが言及する。

 今度は一度も死なずに登らなければならない。果たしてどれくらいかかるのだろうか。

 

 多くのプレイヤーはきっと《本物の危機》なのか《オープニングイベントの過剰な演出》なのか未だに判断しかねているようだった。茅場の言葉が、あまりにも恐るべきものであるが故に、逆に現実感を遠のけてしまっているからだ。

 現実を認識できていたキリトとユウキだけは、今の自分の状況を把握できていた。

 HP(ヒットポイント)がゼロになれば死ぬが、誰かが攻略しなければ出られない。

 誰かがこの浮遊城アインクラッドの頂に立つまで、誰もログアウトできないのだ。

 正直に言って、夢であってほしかった。難易度が洒落になっていない。そう思った。

 けれど、これは現実だ。忘れるな。これは現実なんだと自分に言い聞かせる。

 理解が及んでいる二人以外の全てに、茅場はそれを理解させようと行動を移した。

 

『それでは、最後に、諸君にとってこの世界が唯一の現実であるという証拠を見せよう。

 諸君のアイテムストレージに、私からのプレゼントが用意してある。確認してくれ給え』

 

 プレイヤー全員が、糸に操られた人形のように、右手の指二本を揃え真下に向けて振る。キリトとユウキも同じように振り、プレゼントとやらを確認しようと動く。

 広場いっぱいに鳴り響く電子的な鈴の音のサウンドエフェクト。

 出現したメインメニューから、アイテム欄のタブを叩く。

 表示された所持品リストの一番上に、彼からのプレゼントはあった。

 

 

 

 アイテム名は――《手鏡》。

 

 

 

 皆一同にそれをタップし、浮き上がった小ウィンドウからオブジェクト化のボタンを選択。効果音と共に小さな四角い鏡が出現した。

 恐る恐る皆が手に取るが、何も起こらない。覗き込む者もいくらかいたが、同様だ。

 

 彼らが一同に安堵した――その瞬間、白い光が一人一人を包んでいく。

 それらはほんの二、三秒で消える。続けて元のままの光景が広がるはずだった。

 彼らが見たのは、変貌した各々の顔だった。

 少なくとも、自らのアバターの顔とは細かいところも含めて違っていた。

 周囲の顔ぶれが変化したことで、キリトは胸の中に抱いたユウキを見る。

 

「……和人、だよね。向こう(現実世界)の」

 

「……ああ、そうみたいだ」

 

 ユウキの顔が現実のものと何も変わらなくなっていた。僅かな変更点も、もうない。

 寸分違わず、そこにあるのは桐ケ谷木綿季のものだった。

 となれば、当然自分の顔がどうなっているのかなど察しがつく。いつものあの顔なのだろう。

 クラインの方を見る。彼も現実世界のものに変わってしまったはずだ。

 そう思い、振り向いて、そこにあった顔に驚く。

 

 切れ長だった目元は、ぎょろりとした金壺眼へ。細く整った鼻梁は長い鷲鼻に。

 頬と顎には、むさ苦しい無精髭が浮いていて、野武士か山賊のようだった。

 あまりの変貌ぶりに、思わずキリトとユウキは口を揃えて言ってしまう。

 

「お前……誰?」

 

「えっと、どなたですか……?」

 

 それに対し、クラインは別の意味で驚いた様子を見せた。

 

「キリトとユウキちゃんか!? ちょっとしか変わってねえな!?」

 

 向こうからすれば、あまり変わっていないのか、見分けがついていた。

 頷くと、安心した様子を見せるが、再び、どうしてこんなことをしたんだという顔になる。

 それに対して、キリトとユウキは答えを教えるかのように口を開いた。

 

「現実を理解させる為だろうな」

 

「自分の顔がここにある。体も現実のものと同じにして、誤認させないようにしたんだ」

 

「体格なんてどうやってそんなもん……」

 

「キャリブレーションだよ」

 

 ユウキが答える。キリトは若干忘れかかっていたが、やはり覚えていたようだ。

 その答えにクラインが理解した。彼は買ったばかりだ。やらされたことを忘れるはずがない。

 

「でも……でもよぉ、二人とも」

 

 がりがりと頭を掻き、バンダナの下のぎょろりとした両目を開かせ、野武士面の彼は叫んだ。

 

「なんでだ!? そもそも、なんでこんなことを……!?」

 

「……答えはすぐに来るさ。茅場昌彦なら、きっと教えるよ」

 

 茅場はキリトの予想を裏切らなかった。数秒後に、返答が厳かに為される。

 

『諸君らは今、なぜ、と思っていることだろう。

 なぜ私は――SAO及びナーヴギア開発者の茅場 晶彦はこんなことをした?

 これは大規模なテロなのか? あるいは身代金目的の誘拐事件なのか? と』

 

 否、そうではないだろう。キリトはそう思った。彼はその程度の人物ではない。

 その確信があった。憧れたからこそ、そうではないと断ずることが出来た。

 

『私の目的は、そのどちらでもない。

 それどころか、今の私は、すでに一切の目的も、理由も持たない。

 何故なら……この状況こそが、私にとっての()()()()だからだ。

 この世界を創り出し、鑑賞するためにのみ、私はナーヴギアを、SAOを造った。

 そして今、全ては達成せしめられた』

 

 何かへの憧れを感じ取れるような声音で、茅場は滔々と告げた。

 最終目標。この状況を作り出すことが最後の目的だったと彼は言った。

 つまり、もう交渉の余地はない。現実で対応しようとしている者たちを嘲笑うかのようだった。

 そうして、彼はこの言葉で全てを締め括る。

 

『……以上で《ソードアート・オンライン》正式サービスのチュートリアルを終了する。

 最後に忠告しておこう。これは、ゲームであっても遊びではない。

 プレイヤー諸君の――健闘を祈る』

 

 アバターはあっという間に消滅した。

 静まり返る広場。不穏な光景や市松模様のように並んだメッセージも消滅し、ログイン時と同じ、穏やかなBGMが鳴り響く。ゲームは本来の姿を取り戻していた。

 幾つかの致命的なルールの変更だけを除けば、元通りだった。

 

 ただし、取り返しのつかないほどに戻らないものがあった。

 それは、この世界に存在するプレイヤー達の心情だった。

 直後、広大な広場は多重の音声と共にびりびりと震動した。

 

 

 

「嘘だろ……なんだよこれ、嘘だろ!」

 

 

 

「ふざけるなよ! 出せ! ここから出せよ!」

 

 

 

「こんなの困る! このあと約束があるのよ!」

 

 

 

「嫌ああ! 帰して! 帰してよおおお!」

 

 

 

 悲鳴。怒号。絶叫。罵声。懇願。そして――咆哮。

 ゲームプレイヤーから処刑台前の囚人へ。

 

 街から出れば、死がすぐそこにすら転がっている。

 これは実に現実味がある。モンスターや武器がこんなに近くになければ、それこそ現実と何ら変わらない。ここがもう一つの現実という言葉はなるほど的を射ている。

 もう、ここは現実なのだ。そのことに気付かされたプレイヤーは発狂し始める。

 その仲で、キリトはゆっくりと息を吸い、吐いた。そうして口を開く。

 

「ユウキ。それにクライン。話がある。一緒に来てくれるか?」

 

「うん、行くよ。クラインさんは?」

 

「お、おう……」

 

 混乱しているクラインだったが、返事だけは出来るようだった。

 彼らを伴い、キリトはすぐに人の輪を抜ける。

 広場から放射状に広がる幾つもの街路の一本に入り、停まっている馬車の陰に飛び込む。

 

「いいか、二人とも。よく聞いてくれ」

 

 二人が頷く。

 

「俺はすぐにこの街を出て、次の村へ向かう。二人とも、一緒に来られるか?」

 

 その言葉に、クラインだけが理解を遅らせた。

 当然だろう。その言葉だけで理解できるほど、状況を呑み込めている方がおかしいのだ。

 だからこそ、キリトは言葉を続けた。

 

「茅場の言うことが全部本当なら、これからのこの世界を生き残っていく為には、ひたすら自分を強化しなきゃならない。二人も承知だと思うが、MMORPGはリソースの奪い合いだ。システムが供給する限られた金とアイテムと経験値を、より多く獲得した奴だけが強くなれる。

 ……この《はじまりの街》周辺のフィールドは、同じことを考えた連中に狩り尽くされて、すぐに枯渇する。モンスターの再出現を待ち構えるだけになるだろう。

 だから、今のうちに次の村へ拠点を移した方が良い。

 俺は危険なポイントを全部知っている。レベル1の今でも安全に辿り着けるんだ」

 

 ベータテスト経験者としての言葉を吐き切る。

 この確信は間違っていないだろう。キリトは生粋のゲーマーだ。

 勿論、ユウキもクラインも同じ。故に、その言葉の意味が理解できた。

 出来たからこそ、クラインは表情を歪める。

 

「でも……でもよ。前に言ったろ。オレ、他のゲームでダチだった奴らと一緒に、徹夜で並んでソフトを買ったんだ。そいつらももうログインして、さっきの広場にいるはずなんだ。置いて……いけねえ」

 

「っ!」

 

 その言葉に、キリトは「しまった」という顔になる。

 クラインは、陽気で人好きのする、面倒見の良い奴だ。友達を見捨てることなど出来ない。

 恐らく、友達全員を連れていきたいと思っているはずだ。

 しかし――

 

「ユウキとクラインはもう初心者じゃない……だから、自力で身を守ることだって出来る。……けど、その人たちはまだ経験不足だ。俺たちで守っていかないといけない……」

 

 あと何人までなら三人で守り切れる? 瞬間的にキリトは考える。

 安全マージンを考えるなら、ひとりでもうひとりを守るのが一番だ。

 ちょっと無理をしても二人までだろうが、それもかなり危険な橋になる。

 そう考えると、限界は四人までだ。それ以上を上回れば誰も守れなくなる可能性だってあった。

 表情が険しくなる。どうすることが最善なのか、断ずることが出来ずにいる。

 どうすればいいんだ、と思考が堂々巡りを始めた。

 そこに、クラインの声が響いた。

 

「キリト、おめぇはユウキちゃん連れて次の村に行け」

 

「……は?」

 

「……クライン、さん……?」

 

 その言葉に二人が目を丸くした。何を言っているんだという目になる。

 しかし、クラインは覚悟を決めた様子で続けた。

 

「おめぇがするべきことは家族を守ることのはずだろ。だったら、俺たちは置いていけ。

 お前ェらの足を引っ張る訳にゃいかねえ。大丈夫だ、オレは前やってたゲームでギルドのアタマ張ってたんだ。少しずつ進むくらいならダチを守り切ってみせらぁ」

 

「…………」

 

 二人が押し黙る。有難い提案ではあった。

 けれど、それはクラインたちを見捨てるのと同じ。

 自分たちだけ助かろうとしているようなもので――

 

「――お前を見捨てることなんて出来るはずが」

 

「ちげぇよ、キリト。おめぇが先に行ってユウキちゃんを、他の奴も守んだろ」

 

 その言葉に、キリトどころかユウキも目を見開く。

 

「先に行って伝言を残してくれりゃあ、オレだってどうにかしてみせら。

 ベータテストの時と、何か違ってても、お前ェらなら対処できんだろ。

 だったら、先に行って安全な方法見つけてくれよ。それだけの話、だろ?」

 

 クラインの言葉は、染み入るように胸の奥にすとんと届いた。

 罪悪感が薄れていく。物は言い様だと思う心もあったが、合理的なのも事実。

 要するに、彼が言いたいのはひとつだ。

 

「偵察よろしく、ってことか」

 

「おうよ。それなら問題ねえだろ?」

 

「そうだね。それならボクたちでも出来るかな」

 

「おめぇらなら簡単なことじゃねえか。出来ねえなんて情けねえこと言わねえだろうな?」

 

「当たり前だ。それくらい俺とユウキなら朝飯前に決まってる」

 

 ユウキが力強く頷く。それを見て、クラインが安心した様子を見せた。

 

「だったら頼むわ。これで貸し借り無しだぜ、キリト」

 

「だな。貸し借り無しだ、クライン」

 

 レクチャーのことだろう。あの時の恩を返したと、クラインはそう言うのだ。

 恩だなんて思ってもいなかったが、そう言われたなら、そう思っておくべきか。

 キリトはクラインに拳を突き出した。

 

「だったら、俺たちは先に行って偵察してくる」

 

「ボクたちに任せて」

 

「おう、頼んだ」

 

 突き出された拳に、クラインが拳を合わせる。

 

「必ず全員で来いよクライン。()()()()()()()()からな」

 

「っ……! おうよ!!!」

 

 力強くクラインが頷く。その表情は、何処か泣きそうだった。

 しかし、何とか笑ってみせると、元気よく彼は別れを告げる。

 

「じゃあな、キリト、ユウキちゃん。必ず追いついてやるからな!」

 

「おう、待っててやるよ、クライン」

 

「待ってるからね、クラインさん!」

 

 元気よく三人で挨拶をしたのち、クラインは広場へと走り出した。

 その背を見送ると、キリトとユウキは顔を見合わせる。

 

「行くぞ、ユウキ。夜になる前に、ホルンカ村まで辿り着く。全速力で行くからな」

 

「うんっ! 置いて行かれないようについていくからね!」

 

「見失ったりするなよ? 迷子探しは勘弁だぞ」

 

「むー、失礼だなぁキリトは。心配しなくても平気だよ。キリトの背中はボクが守るから」

 

「なら、ユウキの背中は任せろ。絶対に、帰るぞ!」

 

 こくりとユウキが頷いたのを見て、キリトは走り出した。

 目指すはホルンカ村。あそこに今の自分たちに必要なものがある。

 《アニールブレード》。片手直剣を選んだ二人には必須級の武器だ。

 見た目こそイマイチだが、その強さは第三層まで使える折り紙つき。

 道中でそのことをユウキに説明しながら、キリトは最前線を征く。

 クラインとの約束を、ユウキの命を守る為に――――

 

 

 

 

 







 次回は《はじまりの日》を書くか
 劇場版《星なき夜のアリア》の一部を書くかで迷っています。
 恐らく後者になるかもしれません。
 あと、ミトを書くことにしました。頑張って書かせてもらおうと思います。

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