いやぁ……左肩が痛くて集中できなかった。
今回の話も追々細かく修正するかもしれません。
皆さんも体の不調には気を付けてくださいね。
西暦2023年10月15日。
浮遊城アインクラッド第四十層、迷宮区タワー二十三階。
それが、この閉ざされた世界における現在の最前線である。
かつて一か月弱もかけて第一層を攻略した頃に比べると、目覚ましい成果だ。
茅場昌彦によるデスゲームの開幕から、あと半月で一年が経つ今も、外部からの干渉はない。
それでも、プレイヤーたちは《攻略組》を筆頭に、理不尽に抗う道を選びつつあった。
最前線を征くプレイヤーの総数は決して多いとは言えない。フロアボス戦での死亡による脱落者こそいないが、敵の強化などで徐々に強まる死への恐怖に屈し、離れる者も少なくないからだ。
しかし、その恐怖を塗り潰すほどの、強い希望の光もこの世界には確かに存在する。
最強ギルド《
最大ギルド《
そして、新進気鋭のギルド《
下層に残り、ゲームクリアの時を待つプレイヤーたちは、この三つを特に期待していた。何故それほどの期待が三つのギルドに向けられているのか。それは、そのどれもが《攻略組》で名を馳せるほどの異名を持つ、トップクラスのプレイヤーがひとり以上所属していることが理由である。
その誰もが、己が活躍を異名と共に轟かせてきた。もはや知らぬ者などほとんどいまい。
今では彼らを、この絶望的だった世界を照らす希望の光として崇めている者さえいるという。
中でも、最近注目度の高いギルドが、結成新しく、規模も最小の《絶世心意》である。
一見すると、構成メンバーがたった二人しかいないという、下手なギルドよりも人数不足と言わざるを得ない状態だが、そこに所属する者たちが全プレイヤーの注目を集める大きな一因だった。
第一層の頃から多くのプレイヤーを助け、得た情報を隠匿せず公開し、今や伝説となりつつある始まりのボス戦において、あの《英雄ディアベル》を救い、ボス討伐を成し遂げた二人組。
あの《攻略組》が誇る二大組織を含む、多くのギルドから勧誘が相次いだという経歴まで持つコンビが、苦悩の末に自分たちで一から立ち上げたとなれば、噂にならないはずがなかった。
当然、件の二人に強い憧れを持つプレイヤーとしては見逃せない情報だ。なにせ、ギルドである。入団したいと思わない者がいない訳ではない。下手をすると、今所属している場所を退団してでも入ろうと考える輩もいないとは限らなかった。
ギルド結成を本格的に知らせる為、《血盟騎士団》の副団長アスナとその補佐ミト、さらには《龍星騎士団》の団長ディアベルの協力を得て、キリトとユウキは《攻略組》全体に通達。ボス攻略を行ないながら、様々な階層でプレイヤーの救援などを続けるこれまで通りの方針を説明する。
その上で、メンバーの勧誘などは要相談中として、今はこのままでやっていくことを明かした。
こうした情報も、攻略済みフロアに伝わり、予想されていた事態は未然に防がれたのだった。
そうしたことがあったのが、既に半年ほど前のことである。
結局ギルドを立ち上げたものの、キリトとユウキは新たに団員を求めることはなかった。
これには様々な事情があったが、最も大きな理由は、勧誘する余裕が意外になかったことだ。
それだけ日々が充実していたとも言えるし、事足りていたというのが実際のところだった。
決して人員が欲しくなかった訳ではないが、人材の育成などに駆られているアスナたちを見ている為、お互いにゆっくりと腰を据える期間を用意できるまでは保留にしようと考えていたのだ。
そうしているうちに、結局半年も経過していたのだが……。
「うーん……」
迷宮区二十三階の通路を歩きながら、キリトはずっと唸っていた。
その隣では、ユウキも難しそうな顔をしている。どうやら悩んでいることは一緒のようだ。
「なぁ、ユウキ」
「なぁに、キリト」
「ギルドの運営って大変だな……」
「だね……」
「今のままだと結局コンビと変わらないからなぁ……」
「ボクたち、お金はたくさんあるのに、まだギルドの場所も決めてないもんね……」
ここ半年の間、ずっと悩んできたこと。そのひとつが、ギルドハウスの選定だった。
この問題は簡単そうに見えて、実はかなり大事な問題である。何しろ、ギルドの建物というのは、規模にもよるが非常に高価なものだ。そう何度もあっちへこっちへ建て替えるものではない。
キリトとユウキは、コンビでありながら、下手なギルドよりもコルを持ち合わせている希少すぎる例ではあるが、それでも二度三度と拠点を更新する余裕はない。
しかし、アスナやミトが所属する《血盟騎士団》のように、常に新しい団員を育てるなどの目的を考慮し、以前の第二十五層《ギルトシュタイン》から、周辺の土地環境に恵まれた第三十九層《ノルフレト》へと新しくギルド本部を移転するといったケースも存在する。
勿論、彼らのようにギルドハウスの更新を行なう例もあるが、《龍星騎士団》のように第一層《はじまりの街》に拠点を据えたまま変える予定がないギルドも存在する。
こちらは、敢えてそこに設立することで、希望の象徴としてプレイヤーたちの心を支えることと、何とかこの世界から脱出する為に抗うべく立ち上がると決めた者を勧誘するケースである。
このように、二人の身近なところでは大きな二つの例が存在しているのだ。
「今後も転々とするのかしないのか、か……難しいな」
「どっちにもメリットとデメリットがあるもんね……」
「だなぁ……そもそも、この先に今より魅力的なフロアが出てこないとも限らないのが……」
「キリトぉ……それを考えると、現状維持が一番になるよぉ……」
ユウキに痛いところを突かれ、思わず「うぐっ」と呻く。
実際、今こうして、あーだこーだ言っても何も始まらないのが現実だ。
そんなことを言い、悩み続けてもう半年も経っている。いい加減進歩を見せなければならない。
「うーん……ユウキはここが良いなって思ったところないのか?」
「んー……ないかなぁ……」
「ないかぁ……」
「ほら、ボクたち、この半年でお家買っちゃったから、他は思いつかないかなぁって」
「それもそうだったなぁ……」
これまでずっと同じ宿の同じ部屋に泊まり続けてきたキリトとユウキは、三か月ほど前、とうとう自分たちだけの、夢のマイホームを買う決心を固め、貯め込んだコルを躊躇なく使っていた。
二人の家は、第二十二層《コラル》の南西エリア、フロア南端の外周部間近にある。
そこは、北岸にある迷宮区以外の全てが針葉樹の美しい森で出来ており、攻略自体が三日もかからなかったことや、これでもかというほどモンスターが湧かないなどのレベリングにもほとんど使えないという不便さも相まって、人気がなく静かにのんびりと暮らすことが出来る場所であった。
そうした好条件の立地を三か月ほど前に発見し、住居にしたこともあってか、それから三か月弱が経った今も、いい加減用意しなければならないギルド本部の場所候補が浮かばなくなっていた。
「今度ゆっくり色んなフロア回ってみるか……?」
「うん、そうしよっか、キリトぉ……」
考え続けて頭が痛いという顔を見せたユウキに、キリトも一度この話題を下げる。
そもそも、ここは最前線の迷宮区だ。少し気を抜き過ぎていると言っても過言ではない。
流石にそろそろこの辺りに出現する、あの獄吏モンスターと遭遇しないとも限らなかった。
ここからは集中して迷宮区攻略に励むとするかとキリトが考えた頃。前方から戦闘音が響いた。
伝わってくる戦闘の衝撃からして敵は中ボスだろうか。それに対し、十人ほどが戦っている。
そのことを二人は咄嗟に判断すると、お互いの顔を見て頷いた。
こちらが手を出さなくても問題がない、或いは邪魔になるようなら後ろで見守ることにしよう。
しかし、援護が必要だった場合は、すぐに駆け付けてサポートに入ろう。
瞬時にその考えを共有し、キリトとユウキは、少しずつ先へと歩みを進めていく。
進んだ先では、予想していた通り、ギルドの少数部隊と中ボスが戦っている最中だった。
それもただのギルドではない。顔見知りの《
副団長補佐《
アスナ同様、単独戦闘力でもトップクラスであり、指揮力でも負けず劣らずのミトが指示を出しているのなら問題はない。キリトとユウキも、彼女らに援護は不要そうだと考えた、その時だ。
「ノーチラス、どうしたの!?」
ミトの声が、二人の意識を引き留めた。急いで戦線へ目を向けると、ひとりのプレイヤーが動いていなかった。体が小刻みに震えているのが見て取れることから、ナーヴギア本体がネットワーク障害に遭っているなどの回線切れという線はなさそうだ。
しかし、それでも動くことが出来ていないところを見ると、麻痺毒などの線も考えられるが、この迷宮区では麻痺毒を使う敵は出現しない。出てくるのは《沈黙》という厭らしいデバフを使う獄吏Mobばかりで、戦況を見たところ、大ダメージなどのスタンを受けている訳ではなかった。
つまり、何らかの要因でノーチラスというプレイヤーが動けない状態にいると考えられた。
それが指し示すのは、前線の部分的崩壊である。
「範囲攻撃! 下段ガード!」
ミトが《
奇怪な笑い声を漏らし、ワーダーチーフは、大ダメージを受けたプレイヤーへと迫る。牢獄フロアであるこの第四十層では、徘徊する獄吏モンスターの中に《ブリィング》という厄介なアルゴリズムが与えられていることで知られている。英語で《弱い者いじめ》を意味するその名の通り、倒れて動けない者や、デバフを受けている者を、通常のヘイト値よりも優先してしつこく狙うのだ。
「サンザ、逃げて!」
ミトたちは先程の一撃をガードしたり、躱したりしたせいで、動きだすのに時間がかかるようだった。その為、妨害しようにも動きが遅れてしまう。退避を命令するも、サンザと呼ばれたプレイヤーは先の一撃で大ダメージを受け、軽いスタン状態にあるようだ。動こうにも動けそうにない。獄吏長が武器を振り上げる。金棒は毒々しいほどの鮮やかな紫色のライトエフェクトを纏う。
そうして、それが振り下ろされ、その命を刈り取ろうとし――
「させるかっ!」
「させないよっ!」
流星が瞬いた。飛び出したのは、キリトとユウキの二人だった。
本来であれば、横取りにならないよう、他プレイヤーの戦闘に介入しないのが常識であり、最前線ともなると、ギルド同士の争いになりかねない為、乱入というのは忌避すべき行為だが、今はそうも言っていられなかった。中ボスのソードスキルを、キリトが通常のダッシュ攻撃で相殺し、生まれた隙めがけて、ユウキが一撃重めのソードスキルを叩き込んでノックバックさせる。
「悪い、ミト! 援護に入るが構わないか!」
「左はボクたちに任せて! 君は回復に集中!」
素早く立ち位置を変更し、ユウキはサンザを後方へと下がらせる。開いてしまった穴を埋めるべく現れた二人のプレイヤーの顔と実力を知らない者はこの場にいなかった。
ミトは大鎌を構え直し、部下たちの状態を確認し直しながら楽しげに笑う。
「それじゃあよろしく、二人とも!」
「おう!」「うん!」
そこからの戦闘は、あっという間だった。僅か五分足らず。それがこの後の戦闘だ。
中ボス《ルースレス・ワーダーチーフ》が繰り出す攻撃は、二人の剣士が迅速で正確な動きと超人的な先読み、それに加えてカウンターまで叩き込むものだから、途中でタンク役までもが攻撃に参加できる余裕が生まれた。まだまだ残っていたはずの二本目のHPバーも、みるみるうちに削られ、強敵だったはずの獄吏長はとうとう無数の硝子片となって、迷宮の薄闇へと爆散した。
中ボスクラスを斃すと鳴る効果音が耳朶を震わせ、リザルト画面が出現すると、B隊C隊の団員たちは盛大な歓声を上げた。仲間たちの無事を確認したミトが、キリトとユウキの元に駆け寄る。
「お疲れさま、二人とも」
「お疲れさま、ミト!」
「乱入して大丈夫だったか?」
「ええ、問題なし。むしろ、お蔭で助かった」
「気にしないでくれ。仲間なんだし」
「そうそう! 困った時はお互い様、だよ!」
ハイタッチを交わし、お互いの健闘を称え合う。三人はもう一緒のパーティーではなく、別々のギルドなのだが、両者を隔てる壁は感じられない。いや、そもそもそんなものはないのだ。第一層の頃から付き合いがあり、アスナも含めて一緒に食事などに出掛ける彼らには当然のことだった。
「二人はボス部屋を探してるところだったの?」
「ああ、気分転換に探してたんだ」
「気分転換?」
「さっきまでボクたちギルドを何処に建てるか相談しながら攻略してたんだよね」
「あー、そういう意味ね……大体解った」
「流石に家をギルドハウスにする訳にはいかないけど、いい加減決めないとなって」
「貴方たち、半年も拠点のこと放置してたものね……」
「「返す言葉がございません……」」
その問題は、親しい者たちほど心配していた。特にミトとアスナの二人は、かなり気にかけてくれている。せっかくギルドを立ち上げたのに、半年間もほとんど進展がなかったのだから当然だ。
「こほん……そういえば、ミトの方も迷宮区攻略をしていたのか?」
「それも含めて、って感じね」
ふむふむと横で頷くユウキを見ながら、ミトは仲間たちの回復が進んでいるかどうかを確認する。皆一様に回復ポーションを飲み終え、減っていたHPに関しても、もう問題はない。デバフも付与されていないし、このまま攻略を継続することも出来るだろう。しかし――
「さっきのプレイヤー、ノーチラスだったか。彼が心配なんだな」
「そう、ここに来るまで問題がなかったはずなんだけどね」
視線の先には、件の人物ノーチラスの姿があった。少し離れたところからでも、口許を悔しそうに歪め、握り締められた両拳が小刻みに震えているように見える気がする。キリトはその姿に何か覚えがあるのか、ユウキとミトの顔を見た後、ついてきてほしいと小さく合図した。
ギルドメンバーたちが待機している中、三人は真っ直ぐノーチラスの元へと歩み寄る。
「少し良いか。俺はキリト。ノーチラスさん、でいいのかな?」
キリトは朽葉色の髪をした少年に声をかける。当人はまさか、あの黒髪の剣士から話しかけられると思っていなかったのか驚いた顔を見せた。
「気になることがあって、ひとつ確認してもいいか」
「確認ってなにを……?」
「大したことじゃない……いや、どうだろうな……状態次第じゃ大事かもしれない。
とにかく、少し質問させてくれ。俺の予想が当たっているなら、君は知っておくべき話になる」
キリトの真剣な面持ちに、ノーチラスは小さく頷く。了承を得たところで口を開いた。
「君は、さっき動こうとしたんだよな?」
「ああ……僕は、前に出ようとしたんだ……」
「出ようとしたけど、
「っ! どうして、それを……!?」
その言葉に、キリトは確信する。ユウキもミトも、その言葉で思い当たった様子だった。
間違いない。よく似た状態を、かつて見たことがある。第二層《ウルバス》でのアレだ。
「ミト」
「解ってる」
「彼を少しの間だけ借りても構わないか?」
「ヒースクリフ団長やアスナにはわたしから伝えておく」
「いったい、なにを……」
「ちょっとだけついてきてほしいんだ。大丈夫、聞いておいて損はない話だから」
事態を呑み込み切れないノーチラスに、キリトとミトはこの後のことを素早く相談し合う。その間、ユウキが彼の前に立つと、落ち着かせるようにそう告げた。
「今日の攻略はここまで。全員、フォーメーションDの二。迷宮区を出るまでは油断しないこと。
ノーチラスはここで解散。わたしたちとは離れて、キリトたちと一時行動を共にするように」
ミトが的確に指示を出し、他の団員たちは彼女に率いられていく。キリトとユウキも、困惑しているノーチラスを連れ、このまま迷宮区を一度後にすることにした。
1
ミトたち《血盟騎士団》メンバーから離れ、《絶世心意》の二人に連れられたノーチラスの姿は、先程までよりも遥か下の第二十二層南端、針葉樹の美しい森の中に囲まれた家の中にあった。
「……まさか、こんなところに住んでるとは……」
第一層の頃から常にフロアボス攻略に参加しながらも、多くのプレイヤーを直接的、間接的に助け、救ってきた最も有名なコンビであるキリトとユウキ。その二人の、世間は知る由もない住居に、こんな形でお邪魔することになるとは、昨日までも僕は夢にも思わなかっただろう。ノーチラスは、開いた窓の外を眺めながらそう思った。輝く湖面と濃緑の木々。その向こうには、果てなく広がる空。普段であれば、頭上百メートルにのしかかる石の蓋があり、その下で暮らしている為、空なんて遠いものだ。それがここまで近い。この開放感は筆舌に尽くしがたいものがある。
「悪くないだろ? そこからの眺め、俺たちも気に入ってるんだよ」
ノーチラスに向き合う形で、黒髪の剣士キリトがソファに座る。迷宮区で纏っていたロングコートや武装は全て解除したのか、すっかり部屋着になっていた。
「楽な格好をしてくれていいぜ? 流石に疲れるだろ?」
「い、いや、僕は……このままで、大丈夫だ」
流石に人様の家で正装を崩す訳にもいかなかった。それだけではない。突然ここまで連れて来られたのだ。大事な話以外にも何か裏があるのではないかと勘繰ってしまう。失礼な対応だったとしても、僕は彼らのことを名前や経歴以外は詳しく知らないのだからと自分に言い聞かせる。
「はい、お茶だよ」
「どうも……」
女剣士ユウキに差し出されたお茶にも目だけ通し、今は飲まない。いくら彼らが《攻略組》で最も信用を集めているプレイヤーたちとはいえ、信じるか信じないかは自分自身の問題だ。
今は、気になることを聞くことが優先。それを聞いて、すぐに本部に帰る。
「(……いや、帰ったところで、さっきのことを責められるだけか……)」
今頃サンザは、こだわりのあったあの
今も恨めしそうに己の足を睨んでいると、キリトは口を開いた。
「先に言っておくと、それは君自身が悪い訳じゃない。
俺の予想が正しければ、君を苦しめているのは、ある症状が原因だ」
「……ある症状……?」
「君はFNC――フルダイブ
超微弱なマイクロウェーブを介し、脳と直接信号のやりとりを行なうフルダイブマシンは、本来であれば、装着者ごとに細かなチューニングをしなければならない代物だ。
しかし、何万台と販売される民生用のナーヴギアは、とてもじゃないが、そんなことをしていられない。代わりにマシン自体に自動調整機能が搭載されており、初回の長く退屈な接続テストやキャリブレーションを超えられば、以降は電源をつけるだけで即ダイブが可能になる仕組みだ。
しかし、何事にも例外というものが存在する。それが、ごくまれに初回接続テストで《不適合》と出てしまう例――フルダイブ不適合、通称FNCである。
大抵は五感のどれかが完全には機能しないとか、脳との通信に微少なラグが出るといった、致命傷とまではいかない障害だが、特に重い場合はダイブそのものが不可能になるというものもある。
キリトたちにも、軽度のFNCを抱えた友人が数人おり、ひとりは、今では《攻略組》の一員として戦えているが、戦闘スタイルを転向するまでは満足に戦えなかったものもいるほどなのだ。
「知っている。でも、あれは確か……」
「ああ、一般的なのは五感などに影響が出る形のものだ。
けど、俺の予想が正しければ、君もその軽度のFNCだという可能性があるんだ」
ノーチラスは絶句する。接続テストの際は特に問題がなかった。FNCかどうかの初期テストは、きちんと《不適合》と出ることもあるというだけで、出ないこともある。
ノーチラスの場合は出なかった。それもそのはずだ。特定条件下に置いてのみ、体が動かなくなる、なんて障害はいくらナーヴギアが精密機械でも検知できるはずがない。
「急に足だけが動かせなくなる、なんて症状があるのか……?」
「人間の脳は複雑だからな……別々の、全く違う命令が出ることもある」
「例えば、火事が起きたビルから避難するのに、飛び降りなきゃいけない場面を考えてみて」
「下に救助マットが敷かれていて、飛び降りれば助かる。飛び降りなければ焼け死ぬ。
その状況下で、すぐに理性が命じるまま飛び降りることが出来る奴はそういない。俺もユウキも、即座にマットのある場所に飛び降りられるかどうかと言われれば怪しいところだ」
「でも、死ぬよりは遥かにマシだろう?」
「ああ、現実世界なら、最終的に意を決してそこから飛び降りることが出来るはずだ。
でも、ここは仮想世界。俺たちが動くには、ナーヴギアに脳の命令をコードに変換して送ってもらう必要がある。でも、そこで理性よりも本能の命令が優先されたらどうだ?」
「アバターが、この体がまったく動かなくなる……」
その問いの意味に、ノーチラスは理解する。それはまさしく自分の体に起きていた状況と一致しているからだった。あの中ボス《ルースレス・ワーダーチーフ》が放った本物としか思えないほどの殺意。プログラムのポリゴンとは思えないほどの現実味が、奥底にある本能を恐怖させたのだ。
「くそっ……!」
自身の足を思いっきり殴りつける。しかし、寸前で、紫色の障壁に阻まれる。いわゆる《圏内》と呼ばれる安全地帯でのみ有効となる
その痛ましい姿を、キリトとユウキは目を逸らさずに見る。その苦痛を、完全に理解することは二人には出来ない。同じ状況に置かれたことのない者には理解し切れるものではないからだ。
《血盟騎士団》に入団することはそう簡単なことではない。彼の姿を今日初めて見たキリトたちが思うに、一年近く下層で努力し続けてきたのだろう。きっと何か大事な目的があるはずだ。
その矢先に、大きな壁が聳えた。それもただの大きな壁ではない。自分の本能という壁なのだ。
「……くそぉっ……!」
しつこく自分の足に拳を振り下ろすが意味を為さない。いくらやっても障壁に阻まれる。自分が許せない。たかだか本能的に恐怖を覚えた程度で止まってしまう自分が許せなかった。
悔しそうに口許を歪ませるノーチラスに、キリトは静かに告げる。
「FNCは重度のものでなければ、何とかして解決することが出来るものだ。俺たちの知人に転向することで解決できた奴もいる。君に合わせた処置を講じれば症状の軽減や克服も出来るだろう」
「ほ、本当か……!?」
ノーチラスが自傷行為を止め、キリトの方を見る。僅かにでも希望を見た、という顔だ。
実際、過去に出会ったネズハの件を解決したのは、彼の提案だった。ユウキも、ミトも、アスナも、その時一緒にいたし、事態が解決したのも目にしている。
こういう時に諦めるよう伝えないところを見るに、解決策があるということなのだろう。
「ただし、次のフロアボス攻略に参加することだけは諦めた方がいい。症状と照らし合わせて対策を考えなくてはいけない以上、時間がかかる問題だ。一朝一夕で片付くことじゃないというのは解っててくれ」
「……ああ、それは……そう、だよな……」
「きっと今頃、ミトとアスナも、ヒースクリフ団長と相談している頃だと思う。君なら攻略メンバーからは一度外されても、症状さえ解決できればいくらでも復帰できると思うんだ」
ユウキの言葉に、ノーチラスがどうしてそう思うんだという目を向ける。それもそうだろう。出会って間もない相手のことなのに、何故そう言い切れるのかと。
それに対し、彼女はすごく不思議そうな顔をして首を傾げた後、堂々と答えた。
「だって、それを抱えてても、この世界をクリアしたい理由があるんでしょ?
それってきっと、大切な人がいるからなんじゃないかなって、ボクは思うんだ!」
「ぶっ!?」
「っ!?」
とんでもない勢いで特大の爆弾を投下するユウキに、キリトが今しがた飲みかけていたお茶を我慢できず誰にも迷惑をかけない方向に噴き出す。ノーチラスもこれでもかと目を白黒させていた。
「ユウキ、おま、お前……! 仮にそう思っても、黙っておけって……」
「あ、えっと、ごめんなさい……」
しょんぼりと頭を下げるユウキに、キリトは「相棒が変なことを言って悪かったな」と謝罪する。すぐに謝られた当人は、驚きのあまり怒りすら湧いていなかったが、その言葉がきっかけなのか、脳裏には大事な人の姿が浮かび上がっていた。二人から顔を瞬時に反らしたものの、頬には朱が混じっている。見抜いてきた彼女の言う通り、立ち上がった理由はその人の為だったからだ。
暫く黙り込んでいたが、ノーチラスはそれを小さく頷くことで認めた。
「……約束したんだ。必ず向こうに帰すって」
「……そうか。君も、その人の為に抗うことにしたのか」
「ああ、だから、こんなところで躓いていられない」
「解った。俺たちでよければFNCの克服に協力するよ、ノーチラスさん」
キリトが手を差し出す。少し考えたのち、ノーチラスはその手を取った。不思議なことに、何故か彼らとならこの程度どうにかできるかもしれないと思った。本能的恐怖で発動してしまうFNC。本来であれば絶望しても仕方のない障害だ。約束が叶えられないと嘆き悲しんで然るべきだというのに、まだ抗える気がした。相談できる相手がいるだけで心が軽くなったような気さえする。
もっと早く、正直に相談してもよかったかもしれないと思えるほどに。
「ノーチラスでいい。キリトさん」
「俺のこともキリトでいい。ノーチラス」
「ボクもユウキでいいよ、ノーチラス!」
「解った。二人とも、どうか僕を助けてほしい」
次回、希望の吟唱Ⅱ