「グレンタウンに着いたら連絡するね。ラプラス、『なみのり』!」
「カツラさんによろしく。それと伯母さま*1にも連絡はするように!」
「あー……うん。善処するよ。それじゃ!」
気まずげに目を泳がせたまま、マコトはグレンタウンに向けてマサラタウンから発ってしまう。
ラプラスの背に乗って「なみのり」で去っていく後ろ姿は普段より小さく見えた。コンプレックスを克服しきれていないのだろう。
表面上は健気に振る舞いながら、心の中で苦悩するマコトに過去の私自身をどうしても重ねてしまうのは悪癖だと自覚している。
……自覚しながらそんな自分に嫌気がさす。不意に溜息を漏らしてしまう私を、ジラーチは慰めてくれた。
「はあ……そうよね。もっとマコトを信じないと」
「ジラ!」
「さっ! 私たちも行きましょうか」
こんな身勝手な感傷に浸り続けるわけにもいかない。水平線の広がる21番水道から視線を切って私は踵を返す。
歩くこと十数分。オーキド研究所まで戻ってくると、またもや研究所の前に人だかりができていた。
私とマコトが離れている間にパジャマ姿から着替えたサトシ君を囲んで、ハナコさんやご近所さんが彼を見送る途中だった。ハナコさんの人望やオーキド博士の名声だけではこうもいかないだろう。
なんだかんだ、シゲル君だけでなくサトシ君にだって多くの人が期待している。これは紛れもなく彼の持つ生来の明るさからに違いなかった。
「着替えにゴム手袋。それから防災用のインスタント食品も……あら、クロエちゃん! 嫌だわ私ったら全然……サトシ! どうして教えてくれなかったのよ」
「ママが着替えを急かしたからじゃないか。助かったよクロエさん。ほら見ろピカチュウ、クロエさんも見送りに来てくれただろ」
「……ピッ!」
「ア、アハハ。お久しぶりですハナコさん。それにピカチュウ、ごめんなさいね。サトシ君とアナタを忘れてたわけじゃないの」
恥ずかし気に紅潮した頬を抑えるハナコさん。
赤面する母親に口答えしつつ、相棒へと得意げな顔をするサトシ君。
私が見送りに来ないと思っていたのか、ツーンと顔を背けていじけるピカチュウ。
混沌とした現場で愛想笑いをしながら、ご近所さんから求められた握手やサインに応える私……人のことを言えないかもしれない。
「うーむ、シゲルの奴が本命とばかり思っておったが、案外サトシも化けるやもしれんな」
「なんだよオーキド博士。俺だってポケモンマスターを目指してるんだ。ちょっとスタートが遅れたけど、すぐにシゲルなんか追い越して見せるさ!」
「元気だけは一丁前なんじゃがなぁ」
呆れながらやってきたオーキド博士に会釈をしつつ、博士のセリフにクスッと笑みがこぼれてしまう。
その言葉の裏に、どれだけの期待が含まれていることやら。でなければ
そんな皮肉めいたやり取りをするオーキド博士とサトシ君の関係が少し眩しく見えた。
「それにしてもクロエちゃん」
「どうかしたんですか?」
「サトシのポケモン、変だと思わない? 最初のポケモンだって聞いたけど……貴女のジラちゃんみたいにボールから出てるなんて。普通、貰ったときはモンスターボールに入ってるでしょう?」
「……言われてみればそうですね。研究所から出てきたときにはボールから出てたんです。しかもわざわざ歩いてきて」
「あらそうだったの? サトシ、もしかしてモンスターボールを忘れてない?」
「ボール? それなら───」
ハナコさんの問いかけに、サトシくんはギョッとして体中のポケットをまさぐった。
慌てようとも無いものは無い。無いったらない。
恐る恐るサトシ君が振り向けば、オーキド博士が困ったように眉尻を下げてモンスターボールを差し出していた。
「全く、お主のせっかちぶりは寝覚めに効くわい。ピカチュウの『でんきショック』を浴びながらすぐに飛び出すとはのう。ほれ」
「ごめんごめん。博士、でも仕方ないよ。なんてったって今日はポケモンマスターとしての第一歩なんだから」
「その一歩目で躓いてるわけじゃがな」
オーキド博士の苦言を苦笑いでやり過ごし、サトシ君は稲妻マークが施されたボールを受け取った。
そして直ぐにピカチュウへとボールを向ける。
「よしピカチュウ! ボールの中に入ってくれ」
「……ピッ!」
しかしピカチュウは相変わらず聞く耳を持たないまま、プイっと顔を背けて太々しく欠伸をかく始末。
僅かに犬歯が見えて、可愛い見た目でも歴としたポケモンだなって……いやまあ、だらしない姿はピチュー時代から退化したかもしれないけれど。
「早く入ってくれよ」
「……ピ」
「ほら」
「ピカ」
「だ~か~ら~!」
「ピッカ!」
「あだっ!?」
サトシ君がボールをトスすれば、ピカチュウはスイッチへ触れずにヘディングやキック、尻尾で器用に打ち返す。
最後には一回転の勢いをつけた尻尾で打ち返し、モンスターボールがサトシ君の顔にクリーンヒット。
イーブイとのバトルの時にその冷静さがあれば、勝利はまだしも返しの一撃で一発KOにはならなかったのではと思った私は悪くないはず。
私の隣ではオーキド博士が天を仰いだ。気持ちは分かる。これではバトルどころかゲットすら危うかった。
信用とか信頼とか、それ以前にポケモンスクールで学ぶ接し方とかその範疇の話になる。サトシくんにとっては寧ろ得意な分野だと思うのだが、こうもウマが合わないのは悪い意味で奇跡的と言ってもいい。
ところが、ピカチュウとサトシ君の事情を知らないご近所さんやハナコさんらは、私たちとは異なる視点をしていた。
「まあ、キャッチボールかしら。もう仲良くなったのね」
……これはこれで、頭が痛くなる。
ハナコさんの天然具合に私とオーキド博士は同時に嘆息してしまった。周りのご近所さんたちも、ハナコさんに絆されて成る程と得心の言ったような顔をしていた。
当のサトシ君も、若干表情を引き攣らせて誤魔化そうとする。
「へ? そ、そうさ。俺とピカチュウは友達なんだ。なっ?」
「サトシ待たんか!?」
「ま、待ってサトシ君────!」
すると何を血迷ったのか、サトシ君はゲラゲラと小馬鹿にして笑い転げるピカチュウを抱き上げた。
私とジラーチ、そしてオーキド博士が慌てて制止しようとするも時すでに遅し。
途端に不機嫌となったピカチュウが頬袋へ蓄電するのを見て、私とジラーチは反射的にサイコパワーでバリアーを形成した。
「チュウウウウウ!」
……果てしなく、先行きが不安になった。
そんな幸先の悪すぎる見送りを終えてから数十分。
本来の目的であるマサラタウンの住人へと、ライターとして聞き込みを行っていた時のこと。
ふと胸騒ぎがして、私とジラーチはゴロゴロと唸り声を上げる空を仰いだ。
暗雲の立ち込むカントー地方では、午後に俄か雨がやってくるとの噂もある。マサラタウンにもシトシトと小雨が降り注いで、波乱を示唆するかのように稲光が蠢いていた。
───嫌な予感がする。
私と一緒にジラーチも心配していた。
この子と私は一心同体、吹き荒れる風に嫌なものを感じているらしい。
けれど
「……ジラ?」
「うん、分かってる。サトシ君はもうポケモントレーナーだから───」
そう私自身に言い聞かせても不安は払拭されなかった
今この場で踏み出さなければ後悔するかもしれないと、漠然とした予感が私を突き動かした。
───嗚呼、もうっ! これじゃナツメのことを言えないじゃない。
サイコパワーの在り方について趣味の合わない友人を思い浮かべながら、私は胸中で愚痴を吐く。
……愚痴を吐きつつも衝動には抗えず、私はズボンの裾口を跳ね返る泥で汚しながら、いつの間にか一番道路へと駆け出していた。
「ジラ! ジラジーラ!」
「あの虹は……!」
身体に打ち付ける大粒の雨に抗いながら、一心不乱に走り続けていると、雨雲の絶え間から澄んだ空が露になっていく。
驟雨は過ぎ去り、ジラーチの指さす先には虹が
その虹の主こそが、私を突き動かした存在だと瞬時に確信する。
(そんな、どうしてアナタが……ホウオウ、どうして『今』なの?)
燦然と辺りを照らす光輝が、雨上がりの一番道路に光をチラつかせる。
ホウオウが翼をはためかせるたびに、ジメっとした一番道路の空気が洗われるようだった。
心を奪われて呆ける私に、ホウオウは一瞥するだけ。
首から提げたシンオウ様のペンダントが鼓動し、熱を帯びていく。
ホウオウと出会うのは初めてなのに、旧懐の念とそれ以上の畏れが血液を通して全身に駆け巡った。
高鳴る動悸が期待なのか、はたまた恐怖なのか。
私自身の理解が追い付かないまま、無意識に体が動き出す。
私は、虹を追った。
ぬかるむ道に足を取られないように、ジラーチを連れてホウオウの導くまま一番道路を駆け抜ける。
晴れ渡った天蓋でキラキラと煌めくのは『せいなるはい』だろうか。
エネルギーの残滓でしかない灰燼すら、神秘的な力を秘めていることに疑いようはない。
「ジラーチ、急ぐわよ!」
「ジラ!」
胸騒ぎは収まっていた。
ホウオウが現れたことは紛れもない吉兆だと直感が告げている。
カミナギの民として。古代シンオウ人の血を継ぐ者として。ポケットモンスターではなく魔獣と呼ばれていた時代を知る者として。
世界各地の伝承や伝説の中でも、造物主に次ぐほど格の高い存在であるからこそ、ホウオウが天空へと虹を掛けることには意味があると知っている。
ある種の期待が、私の中で渦巻いていた。
何も語らない造物主へと
トレーナーとしてではない。
不安そうに心配してくれるジラーチには、後で謝ろう。
しかし、どうしても譲れなかった。
走る。ただ一心に、虹の彼方へと駆けていく。
「あれは……サトシ君?」
虹を追っていると、一番道路で立ち往生するサトシ君の姿があった。
傷だらけの身体は泥にまみれ、つい数時間前に旅立ったとは思えない出で立ちである。
憔悴したピカチュウを抱きかかえるサトシ君は、私と同じように虹の向こうを眺めながら放心していた。その手には、うっすらと光輝を放つ
まさか、とは思わなかった。心の奥底で納得している自分が居ることに私自身が驚いている。
サトシ君から虹へと焦点を戻すと、もうホウオウの姿はどこにも見当たらなかった。
けれど直感は依然として働いたままで、サトシ君がホウオウの羽を手にした事実は、私の追い求める真実の一端を担うのだと訴えてくる。
「クロエさん、俺……」
「何があったかは聞かないけど、まずは『きずぐすり』を使ってあげなさい」
泣きたいような、嬉しいような。言葉で言い表せない複雑な思いを飲み込んでから、サトシ君はバッグから傷薬を取り出してピカチュウを手当てした。
命に別状はない。ピカチュウから感じられる生命力は安定している。あれだけ表面上は嫌っていたサトシ君の腕の中へと身を預けているというのに、精神状態に関しては良好だと言えた。マサラタウンを旅立つ前に人間不信だった時と比べると見違えるほどだ。
(サトシ君、きっと貴方が私の────)
胸中の呟きを言いあぐね、ありきたりな言葉で表現していいのか迷ってしまう。
けれど何色にも染まらない羽を見て、根拠もなく信じてしまいたくなる。
マサラは真っ白、始まりの色。
旅立ちの日にホウオウと出会い、本来は虹色に輝くはずの羽が、無垢な純白のままサトシ君の手に渡る。出来過ぎていると言ってもいい。
因果だとか、時空だとか、そういった類の超常現象ですらない。
ますます
「ジラーチ、貴女も『ねがいごと』でピカチュウを癒してあげて」
コクリと頷いて手当てするジラーチを見届け、私は誰もいなくなった空を再び仰いだ。
清廉な蒼色には橙が滲み、刻一刻と夕焼けが近づいている。
ホウオウがサトシ君へと羽を託したこと。
この世界が物語なら、この瞬間は紛れもなく奇貨として受け止められる。
だから、これは私の身勝手な我儘でしかない。
サトシ君が手にしたホウオウの羽はどんな色に染まるのか。
紡がれていく物語の中に、どうしても
「ねえサトシ君、ピカチュウ。私も少しの間───貴方達と一緒に居てもいい?」
答えは、彼らの笑顔が示していた。
◆◇◆
サトシの門出は、とてもではないが自分から吹聴できるようなものではなかった。
シゲルにバトルで負け、同い年のマコトに叱責され……マサラタウンを旅立ってからも、言うことを聞いてくれないピカチュウに振り回される始末。
ピチューの頃から、少し変わったポケモンであることは知っていた。
意地悪でイタズラ好きで、途轍もなく人間を毛嫌いする一方、同じポケモンに対しては割と面倒見がいい不思議な奴だ。
オーキド研究所で再会した時も、久方ぶりに食らった電撃であの時のピチューが進化したのだとすぐに分かったし、形容しがたい運命的な何かを確かに感じた。
シゲルとイーブイのように、そしてクロエとジラーチのように。
証拠なんてないし、小恥ずかしくて口にはしなかったけど、ピカチュウとならポケモンマスターを目指せると本気で思っていた。
……しかし、現実は厳しかった。
ピカチュウはまともに指示を聞いてくれず、自分一人でゲットすることさえ覚束ない。
結果的に、オニスズメの群れに襲われてピカチュウともども傷だらけになってしまった。
痛かった。恐怖だって感じた。
打ち付ける豪雨も冷たくて、心が沈んでいく感覚に苛まれたのをサトシはよく覚えている。
でも一番辛かったのは、目の前で傷つけられるピカチュウの姿だった。
オニスズメの大群へ飛び込んでいくボロボロのピカチュウを最後に、サトシは気を失ってしまう。
そうしてサトシが意識を取り戻した時には嵐が嘘のように過ぎ去り、青空が広がっていて。
目の前で一緒になって倒れているピカチュウと無事を確認し合い、無性に涙が込み上げてきたのに、何故だか互いに笑い合っていた。
みっともないと思うし、パートナーを傷つけてしまったことを自慢げに語るべきではないかもしれない。
それでも、サトシとピカチュウの本当の始まりはそこからだった。
同じ景色を眺めたこと。名も知らないポケモンが架ける虹を目にしたこと。
旅立ちで躓いたとしても、サトシとピカチュウにとってかけがえのない思い出だから、目に焼き付いた光景を忘れることなんて出来るはずもない。
雨上がりの泥濘に投げ出していた体を起こし、ピカチュウを抱えて立ち上がると、七色に輝くポケモンは居なくなっていた。
だけど夢や幻なんかじゃない。
掌中に握られた真っ白な羽の仄かな温もりが、サトシとピカチュウの見る世界を現実だって肯定してくれる。
頬が綻んだ。噛み締めるように深呼吸をすると、これからどんな出会いが待っているのか、憧憬が滾々と湧き出てやまなかった。
悲しみも、苦しみも、憧れや羨望も。
収斂する感情を言語化できず、サトシは茫然と虹を眺めることしかできないでいた。それは、ピカチュウも同様だった。
そしてホウオウが架ける虹と同等かそれ以上に。
放心しながらも嫉妬と羨望が綯い交ぜになったクロエの相好が、サトシの脳裏に焼き付いて離れることはなかった。