前
終電を逃した。
友人との飲み会の末、酔い潰れて眠ってしまった俺は、どうやら置いていかれてしまったらしい。
辺りの景色は、まるでこの世界のものではないみたいにぐるぐる回っている。
酷い倦怠感で一人暮らしのアパートに帰る気にもなれないので、まずは状況を整理しようと思った。
明かりのついていない駅舎。その前の、24時間営業のコンビニの駐輪場の隅っこに、俺は座り込んでいた。
何をやっているんだろうなぁ。
一人になるとどうしても焦り、考え込む。
生きている理由とか、何をしなきゃいけないのか、とか。
そんなことは今考えるべきじゃないのに、優先度の低いはずの疑問を、必死になって思考する。
しかし何度悩んでも答えは出ない。未来は今の空模様のように真っ暗で、そこに明かりを灯す事は、今の俺には出来ないことのような気がする。
溜息をひとつついて立ち上がる。取り敢えずは薬を飲もう。コンビニで買ってきた水で酔い止めを流し込む。こんなこともあろうかと、事前に購入しておいたのが功を奏した。
少し楽になったような気がするが、それも気のせいだろう。きっとすぐに世界は回り出すし、夜の街のネオンがうざったくて、また空を見上げる。
空き缶を背負ったホームレスと、階段に座り込む風俗嬢と、寝転びだすサラリーマン。この世の闇みたいなものが、全部詰め込まれているようなこの場所。
電池の切れてしまった携帯を、ポケットに仕舞い込む。ここにいても何も解決しないので、アパートへのひたすらに長い帰り道を歩いてみる事にした。
下を向きながら歩く。たまに照らす外灯以外に大した光のない世界。月が綺麗ですね、なんて言葉も言えないほどの曇天だ。…そもそも、言うべき相手もいないんだけど。
まだ冷たい春の夜風が体を貫くので、俺は体を覆うように腕を回す。それでも空気の読めないそいつは、勢いを増して吹き付ける。
どうしようもないのに、募る苛立ち。
馬鹿らしい。もう何周もしてきた季節なんかに思考を奪われていることが。でも同時に、そんなことを考えているうちは、何となく絶望していないような気がして。
何だか今を生きているみたいで、嫌いにはなれない感覚だった。随分後ろ向きなポジティブだ。
俺は近くにあった公園のベンチに座り込む。肩掛けのバッグから煙草を取り出して、火を付ける…のだが、風のせいでなかなか付かない。
何度も何度も、ヤスリ部分を擦る。それでも火は付かない。
俺が煙草を諦めようとした時、目の前からライターが差し出された。
「たまたま持ってたから、あげるね」
少女の声俺は顔を上げる。
そこには珍しい服を着た少女がいた。
丈の長い緑色のスカート。淡い黄色の、袖口の広い上着。
そして何よりも、コードのようなもので繋がる暗い色をした何か。
ポーチか何かだろうか。それにしては重力を無視しすぎているように思う。
デザインも、本物の瞳が閉じられているようなもので、少々気味が悪い。
俺はありがとうと言って、ライターを受け取って擦る。
付いた火は、やはりすぐに消えてしまう。
何度も、何度もヤスリ部分を擦る。
その間、少女はじっとそれを眺めていた。
ようやく煙草に火を付けて、待ち侘びた煙を深く吸い込む。
脳まで響くような、重みのある味がする。溜め込んで、吐き出す。
「おいしいの、それ」
作り物みたいな笑顔で、少女は問う。人形みたいな容姿をしていることも相まって、やはり少々不気味だった。ウェーブのかかった短めの髪は、明るい緑色をしている。その髪を包む、大きな黒い帽子。
「まぁ、うん。おいしいよ」
答える。どう美味しいのかなんてあまり分からないが、取り敢えず美味しいのだ。
「そっか」
そんな短い会話があって、また無言に戻る。じりじりと燃えていく煙草をぼーっと眺める。
少女も同じように、でも俺と違って興味津々に、煙草を眺める。
「…家、帰らないのか?」
二口目を吸って吐いて、俺は問う。
「気が向いたら帰る。お兄さんは?」
端的に返され、問われる。
「これ吸い終わったら帰るよ」
そう答えると、少女は隣に座り込んだ。
「じゃ、それまで待ってるね」
なんで?と思ったが聞きはせず、また煙を吸い込む。
それを見つめる少女の瞳には、光はない。でも闇だというわけではなく、ただただ無。貼り付けられた笑顔と、明るいトーンの声。
この子は一体、何なのだろうか。
もしかしたらネグレクトだったりするのだろうか。
だとしたら、あまり関わりたくない気もする。面倒だし、家庭にとやかく言う義務はないだろうし。
ただ、警察に通報くらいはした方がいいのだろうか。微妙な所だ。気が向いたら帰るとも言ってたし、家がこの辺なら、送るくらいはしよう。たばこの火を消す。
「家、近いなら送ってやるよ。どこだ?」
少女はきょとんとした顔をしている。
「遠いよ、私の家」
家出か…?それとも、閉め出されたとか?どれにしろ、この時間じゃ危ない。やはり警察に通報した方が良さそうだ。
「…お兄さんは、帰るんでしょ?ばいばい」
少女の言葉が終わるか終わらないかくらい。そんな短い時間で、少女は俺の視界から消えた。
「えっ」
思わず声が出る。
何度目を擦っても、目の前に少女はおらず。
ただ脳裏に映るのは、去り際見せた寂しそうな顔で。
それでもこれは夢なんだ。そう割り切って、暗い夜道を淡々と帰る。
彼女は何者なんだ?
考えれば考えるだけ、謎は深まる。
少女のような容姿。…の割に落ち着いた、まるで全ての悲しみを見てきたみたいな瞳。
そして、去り方。
はた、と足が止まる。
まさか俺は、見てはいけないものを見てしまったんだろうか。
この辺で有名な妖怪とか?はたまた、この地に封印された地縛霊!?
…なんて、下らないことを考えてみる。
そんなわけはないよな。きっと、本当にそんなものを見た事がある人だって、そんなわけないって思って、無かったことにして生きていくんだろう。
兎にも角にも、帰るのが先決だ。ふらふらとまた歩き始める。
消えてしまった家の灯り。悲しげに照らす街灯。まだ明るいコンビニ。俺は蛾のように、明るい方へ明るい方へと歩いていく。
月もないような夜がただ、俺の将来みたいだった。