前
少女を目の前にして、あまりにも後先を考えない行動だったのかもしれないと悔いる。それで事態が好転する訳じゃないのに、ただ中毒みたいに自分を責めていく。上手くいかない理由を見つけて、落ち込みながら舞い上がる。
訳の分からない感情に、とりあえずそれらしい説明を付けているうちに、少女の方から話し始める。
「でももう、そんなことどうでもよくなっちゃった」
少女の目からはやがて光が消え、俺にとっては馴染み深い、いつもの表情になる。
「ここで会えたんだから、それでいいよね。帰ろう?私達の世界に」
少女は俺に手を差し伸べる。俺はすぐにその手を取れなかった。人生に及ぼす影響が大きい選択肢だと思った。躊躇う俺の手を、少女は強制的に掴む。
「…どうせ、逃げ場なんてないんだよ。お兄さんにも、私にも」
諦めの滲んだ声。俺はそれに共感できてしまうから、付き従う以外ないような気がしてくる。
少女の手は、俺と同じようにべったりと血で濡れていた。
「一つだけ聞いてもいいかな」
俺が言うと、少女は小首を傾げて俺の言葉を待った。
「…なんで、あんな危ないことしたの?」
少女は少しだけ考える仕草をして、それから答える。
「あれが、お兄さんを取り戻すには一番だと思ったから?」
疑問形。後先を考えないように見える少女からすれば、不自然ではない言動なはずなのに、何故かモヤモヤする。
「なんでそんなに俺にこだわるの?」
少女は悪戯っぽく笑う。
「一つだけって言ったでしょ?ほら、行くよ」
右手…というか右腕に、強い力がかかる。あぁ、このまま連れていかれてしまう。それは悪いことじゃないはずなのに、踏み留まろうとする気持ちがある。
「…ちょっと待って」
振り向いた少女の目は、やはり爛々と輝いていた。…この子は、一体何を隠しているんだ?不気味さは加速していく。
「俺が帰らないって言ったら、どうする?」
背筋が冷えるのを感じながら、俺はそう質問する。
「…なんで?」
少女の声が低くなって、目は輝きを増す。…俺は、もしかしたら関わっちゃいけないモノに手を出してしまったんじゃないだろうか。今更ながらに、そんな後悔をする。
「今の生活に満足していて、そちらに行くよりここにいる方が幸せだったらっていう、もしもの話だよ」
情けなく保険をかける。少女の目の輝きは元に戻って、それからすぐに答える。
「…全部を否定してあげる。今感じてることが、考えてることが、全部一時の気の迷いだって、ちゃんと教えてあげる」
…やっぱり、おかしい。こんなに余裕のない子じゃなかったはずだ。俺に声をかけたのも気まぐれで、俺を連れ去ったのも気まぐれだったと信じられるのに。今はそんな余裕も全くないように見える。
それが何故なのか、そして何故そうまでして俺ごときにこだわるのか、ひとつも分からない。
ただ夢の中とリンクする表情だけが、俺の脳裏には焼き付いていた。
「もしかして、だけど。逃げようとしてる?」
俺の右手を掴む華奢な手からは、その見た目からは想像もできないほどの力が加えられている。
体温が急激に下がる感覚があって、顔が引き攣る。ダメだと分かっている方に手を伸ばしそうになる。
それでも手を伸ばす理由があるとするならば。それは今この瞬間、この子は俺の事を求めてくれているということだ。今まで得たことのない感情が心を支配している。
「…ねぇ、答えてよ」
極度の緊張で喉はからからに乾いていて、言葉は出そうになかった。…ただ、何か言わなくちゃと思うばかり。
言葉に詰まりただ見つめる少女の目に映る俺は、揺らいでいて頼りない。
「…俺、は」
口を開く。永遠にも感じられる数秒間を経てやっと絞り出せた声は、やはり掠れていた。
あの女性に言われたことや、今日までの人生で思ったことが、頭の中を渦巻いている。それはまるで走馬灯のようで、今ここが大きな分岐点になることを示唆しているみたいだった。
「俺は……」
そこまで言ったところで、突如現れた白い手に頬を撫でられる。
「駄目よ。こちらには来させない」
…聞き覚えのない声だ。やがてどこか分からない空間から、続きの言葉が聞こえた。
「…残念だけど、貴方は来るべきじゃない」
俺はその白い手に…よく分からないどこかに、引きずり込まれていく。
振り返ると、少女が必死に俺を呼んでいた。抵抗できないまま遠のいていく景色は、やがてぴったりと縫い合わせられるように見えなくなった。
…次に光を感じたのは、よく見慣れた景色だった。ここで死ぬと思っている空間。天井も壁紙も、家具の配置も。そこはまさしく俺の部屋だった。
「ふぅ、ここも安心とは言えないけど」
知らない女性が俺の隣に座っている。
「初めまして。私は八雲紫。あの世界の…管理者?みたいなもの。まぁ、肩書きはどうでもいいけれど」
まるでこれが日常であるかのように、女性は微笑みを湛えながら話す。
「それにしても、面倒なのに目を付けられちゃったわね」
面倒どころではない気がするが、普通でないのは確かだ。
「あの、何でここに…?」
俺が聞くと、女性は面倒くさそうに呟いた。
「幻想郷の治安維持…まぁ、仕事の一つよ。折角暇だったのに」
ため息をひとつ付いて、それから俺に向き直る。
「何でも受け入れる…とは言ってもね、やっぱり災いの芽は摘んだ方がいいから。ほら、貴方も聞いたんでしょう?あの子のことは」
…聞いた、と言っても、自己紹介程度の情報しか知らない。ただあの子は人じゃなくて妖怪だということを知っているくらいで。
「なるべく自由にはさせてあげたい…というか、してもらっていた方が私としても楽なんだけど。あの子の不安定さは今に始まったことじゃないし」
何だか適当な人…のように見えるが、何か考えはあるんだろうと納得するに足るオーラのようなものがある。
「今まで何回か見過ごしてきたけど、その度に不安定になっていってるみたいだから。何か問題を起こされる前に手を打っておこうというわけ」
女性はベッドに寝転んで、それからまた話始める。
「貴方だって、何かに巻き込まれるのは嫌でしょう?」
…まぁ、平穏である以上に求めるものはない。
「それにしても、何であそこまで人間にこだわるのかしらね。妖怪相手だって、あの子の求めるものは得られるでしょうに」
女性は足をバタバタさせながら呟く。それは俺が一番聞きたい。そんなちょっとした不満が頭をよぎった瞬間に、女性は突然立ち上がる。
「ま、そういうわけで、今後貴方にはあの子を避けて生きてもらうことになるわ」
どういう訳なのかは分からないが、特段驚きはしなかった。今日は逃げられたが、今後も俺を見つける度に電車を止められては敵わない。
「私と私の従者もサポートするし、多分大丈夫だとは思うから。とにかく今は協力していただけるかしら」
俺が頷くと、女性は礼を言いながら消えていった。…あの人といい少女といい、どういう理屈で移動しているんだろう。人間の科学力では証明できない何かを用いられる度に、脳が処理容量を超えそうになる。
ベッドに横たわると、急に体から力が抜けた。…そりゃそうだろうなぁと思う。俺どころかおそらく殆どの人間が経験することのない恐怖や体験を、今日だけで幾つこなしたのだろう。
それでも変わらず、頭に浮かぶのは少女の顔だった。あの子は今もまだ、あそこにいるんだろうか。すぐに帰ってしまうのも、まだあそこにいるのも、両方想像ができる。それくらいに俺は少女のことを知らないし、理解ができないと思っているのに。少女は俺に何を求めて、あそこまで執着するんだろう。
…あの時止められなかったら、俺は何を言ったんだろう。よく考えたはずなのに、何を言ったか想像もできない。どれにしろ、助けがなかったら無事ではなかっただろうけど。
あぁ、もう頭が回らない。今日は疲れてしまったし、明日のことは明日の自分に決めてもらおう。目を瞑り、責任と意識を丸投げした。