いつか買ったポータブルスピーカーで好きな音楽をかけながら、俺は家事に励んでいた。暮らすために必要不可欠なことなので、励むというのもおかしい気がするのだが、俺にとってはその表現が一番的確だ。
少女が再び俺の前に現れてから3日が経つが、今日まであの出来事は夢だったんじゃないかと思うほどに何事もなく時間が流れていた。
仕事の方は当面の間リモートワークということになった。…なんだかよく分からない圧力でも働いたのかもしれない。あの女性は、一体何者なんだろう。少なくとも俺なんかには計り知れない存在だとは理解しているが、その影響力に驚くばかりだ。
食器をすすぎ終えて手を拭くと、時刻は21時半だった。音楽を止めて、リビングのテレビをつける。つい最近あんな事があっても、もう他の事柄についてのニュースしかないのを見ると、時の流れの早さを感じる。
一人の人間にとっての大事件なんて、その集合体からしたら瑣末な出来事なのかもしれない。世間に置いていかれるような感覚というよりは、世間に見過ごされていくような感覚だ。いないものとして、またはいても価値を感じないものとして、誰かの興味の網をすり抜けていく。
テレビを消して、ベッドに寝転がる。
するとしんと静まり返った空間があって、それを感じる度に孤独になっていく。
孤独とはなるものではなく、気付くものなのだと思う。いつか隣で自転車を漕いでいた友達の連絡先を知らないだとか、満たされた日々を送っている人と自分を比べた時になんかに。
「は〜い、元気?」
そんな俺のどうでもいい思考は、突如耳元で響いた声によって吹き飛んでしまう。俺が大袈裟に反応するので、声の主は満足気だ。
「いつもいい反応をするわね、貴方は」
口元に手を当てながら、女性はくすくすと笑った。
「…こんばんは、八雲さん」
俺が座り直して挨拶をすると、女性は少し不満げにした。
「なんか、距離感を感じるのよね。名前で呼びなさい」
そりゃ最近会ったばかりなんだし距離感があって当然だと思うのだが、この人に反論する手間を考えると素直に従っておく方がよさそうだ。
「…紫さん」
俺がそう呼ぶと、紫さんは満足そうに笑う。そういえば、人を名前で呼ぶのは久しぶりな気がする。それほどまでに踏み入られることも、踏み入ってしまうこともなかったから。
「さて、今日の本題だけど」
紫さんは真剣な顔をする。俺も姿勢を正して話を聴く。
「…あの子、どうやらこの近くまで来ていたみたいなのよ。やっぱり貴方を職場に行かせなくて正解だったようね」
…少女は、まだ俺を探しているようだ。
「あの子は、どうして俺なんかに執着するんでしょうか」
俺が聴くと、紫さんは少し考えてから返事をくれる。
「…永い時を生きていると、色々なことがあるものよ。良くも悪くもね」
やっぱり、よく分からない。真実を暈されているような、それでいて、それ以外の言葉では説明がつかないような。そんな微妙な感覚だ。
「まぁ、分からないわよね。貴方達の人生は、私たちにとっては短すぎるもの」
考え込んでしまった俺に、紫さんは柔らかく微笑みかけた。…似たような経験でもあるのだろうか。そう思うものの、深くは考えないことにした。
「…とりあえず、今後も気を付けてね。気を付けろって言ったって、難しいかもしれないけれど」
紫さんはそう言って笑いながら、またどこかへと消えていった。しんとした部屋が帰ってきて、俺は不思議な気分になる。
ついさっきまでここに誰かがいた。そんな余韻ごと持って行ってしまうように、紫さんの去り際は鮮やかだ。それはいつものことなのに、そんなことですら疑問に思ってしまう。
…あの人達と俺は、一体何が違うんだろう。話す言語も、見た目も、ほとんど差異はないはずなのに。何か決定的に違っている部分があって、そのせいで俺と少女は離れ離れにならなくてはいけなかった。
考えるだけ無駄そうなのに、それでもそれをやめられない。思考に依存して、答えを与えたいと思っている。…おかしな癖だ。俺は張り巡らせた思考を投げ捨てるように、天井を見上げる。
部屋の明かりは暖色とも寒色とも言えない微妙な色で、でも確かな光だ。俺が誘い込まれ、少女に手を引かれた、あの頼りない光ではない。
…あの光の正体も、未だに分からないままでいる。分からないことしかない世界で確かに得たものは、俺があの場に相応しくないという事実だけ。それが何故なのかも、本当にそれでいいのかも、全く分からないまま。
このまま何かに流されるようにしながら、紫さんの言う所の短い人生の幕を閉じていくんだろうか。…それなら、もうそれでいいような気もする。
俺に少女は救えないし、少女にも俺は救えない。ただ傷を舐め合いながらお互い堕ちていくだけなら、一緒にいない方がいいんだ。自分を納得させられるような理由は、それしか思い浮かばない。
『誰かを愛して、誰かに愛されたかっただけ』
少女の言った言葉が、掛け値なしに本音なのだとしたら。だからこそ、自分に近しい何かを愛するべきなんじゃないか。そんな人に振り向いてもらう努力をすべきなんじゃないか。…俺なんかでは、役に立てないんじゃないか。
こんなことを考えている限り、俺が少女の隣に立つことはできない気がする。何よりも自分自身が、自信を持って少女を愛せる気がしないから。
こんなことを考え始める時点で、情があるのかもしれない。俺は未練を振り払うように目を瞑って、意識を投げ捨てる努力をした。