「それにしても、何でかあの子はこの辺りには出没しないわね」
紫さんは退屈そうに部屋の戸棚を漁っている。…あれ、俺のお金で買ってるお菓子なんだけどな。そう言いたい気持ちを抑え、話に耳を傾ける。
「そろそろ来てもいい頃だと思わない?」
まぁ確かに、来てもおかしくないとは思う。実際俺の使っている路線がバレている以上、少女がここに気付くのも時間の問題だろうと覚悟を決めていた。そうなった場合の避難場所なんかの話も聞いたし、準備をしていない訳でもない。
「…あるいは、気付いても近寄らないのかもね」
紫さんは意味ありげに呟く。…が、それにあまり意味がないとわかっているので、深く考えることなく、俺のお菓子を持ってどこかへと消えていくのを見送った。
実際、深い意味のある発言なんて、その義務が発生しない限りはしたくないものだろう。意味のない会話をして、意味もなく笑って、意味もなく楽しいと感じる。その当たり障りのなさを気の置けない、なんて表現して、冗談のセンスが近い人間を面白いと思う。…本当の所なんて、本当は誰にも分かりはしないもんだ。
なんとなくパソコンを立ち上げて、なんとなく動画サイトを閲覧する。こんなものでも生活の支えになったりするのだから、ないよりマシだ。
…ないよりマシ、か。実際、少女が俺に執着する理由も、本当はそんなものなんじゃないかと思う。いないよりいるほうがいい。それだけで充分、依存する理由なんだろうと思う。俺にはわからないだけで、そうやって生きている人間だって沢山いるはずなのだ。
自分にとって相手だけで、相手にとっても自分だけで。それは美しい関係性だと思うが、実際の所、人は人を好きになれるようにできている。毎日顔を見合わせなきゃいけないだけの関係性が友達付き合いに繋がったり、同じ学校に通っている人を好きになったり。運命の相手だから近くにいたんだと言うよりは、知っている人間からしか選ぶことができないものだと思う。
あの時あの場所で出会ってしまった時点で、この未来は確定したのかもしれない。そう思えば思うほど、それが不運であり幸運であったと、微妙な感情を抱いてしまう。
何百年孤独でいても、結局人の選び方は変わらない。妖怪でも人間でも、そんな部分に差異はない。そう思うとより少女が人間らしく感じてしまって、自然に口角が上がるのを感じる。
「気にしなくたって、あの子はあの子らしく、人らしく生きているのになぁ」
できることなら少女に届くようにと声に出してみる。…しんと静まり返った部屋があるだけで、返答はもちろんない。俺はパソコンを閉じて、ベッドに入る。
また、夢を見た。今度は俺以外誰もいない世界の夢。それが夢だと気付くのに時間がかかるくらいの、精巧な俺の暮らす世界。いつも通り歩いていると、蹲った子供を見つけた。
その子は泣いていて、俺はどうしていいかわからなかった。声をかけ、手を差し伸べても、顔も上げてはくれない。
その子はあの少女なんだと、なんとなくわかった。少女そのものというよりも、少女のなりたかったものなんだろうと思った。弱くて、情けなくて、人に縋らないと生きられない命。それが、少女の望んだものなんだろう。
俺はその子の頭を撫でる。顔を上げたその子は、よく見知った目をしていた。
「…やっぱり、君は人間らしいなって思うよ」
俺の言葉に、少女は苦笑する。随分と大人びた、くたびれたような表情だ。
色々なことを笑顔で飲み込むしかなかった人の、染み付いてしまった表情。
少女は頭の上に乗った俺の手を持ち上げて、自分の頬へと手繰り寄せた。
「ずっと、このままいられたらいいのに」
身の回りの問題も解決しないまま、何の変化もないまま。この世界にいられたら、それはどれだけ幸せなことだろうか。文字通り、夢みたいなこの場所で、ずっとこうしていられたらいいと、俺も思う。
進展や進歩を望まない俺達にとって、何も変わらないこの空間は、何物にも代え難い幸福だと分かっている。…だからこそ、これが続くわけじゃないことも。
「…お兄さんは、自分が思うよりずっと前を向いて、ちゃんと何かを選び取りながら生きてるよ」
少女の目からは、涙が一筋零れ落ちた。
「それこそ、私なんかとは比べ物にならないくらい。…よく考えたら人間にとって、立ち止まっていられるような猶予なんてないんだよね」
なんでこんな事にも気付かなかったんだろう、と呟く少女の声は震えていた。
それは…少女にとって、直視しづらい現実だったのだろうと思う。あまりにも長く、永く横たわる時間の流れの中で、少女は恨むことではなく、それに憧れることで、人と共存しようとした。
それでも、少女は人ではなかった。
人らしく生きても、少女の見た目と相応の振る舞いをしても。その差は埋まることはないどころか、広がっていく一方だったのだろうと思う。
「…ずっと、時間が止まってしまえばいいのに」
俺の口からは、今まで思っても言えなかった言葉が漏れ出していた。そうしてそれに、少女は静かに頷いて答えた。
この夜が、ずっと明けなければいいと思う。明けない夜の中で、静かに朽ちていきたいと思う。進み続ける生命の流れから逸脱して、この時間を繰り返して。
瞬きひとつに一喜一憂しないこの夜に、ずっと2人きりで。
そう思う度、明けない夜を希う自分自身の後ろ向きな思想に、いつまでも大人になれない責任を求めてしまう。
「私はお兄さんから、あの場所まで奪っちゃいけないと思ってた」
少女は話を逸らすように、ぽつりぽつりと語り始めた。
「あそこにいたくないと思うのなら、連れ去ってしまってもいいと思った。…でも、そうじゃないんでしょ?」
夢の中の風景は変わって、ここは少女と出会った場所。
「…ここからは逃げ出したいと思っていたのに、あそこにはいたいと思えたのは、なんで?」
深く考えてもみなかった。
懐かしい風景を目の前にして、ここには戻りたくない理由。俺に、そんな理由はないように思う。
だけどあそこにいたいと思う理由は、あの場所に執着する理由は、何となく思い浮かんだ。
「さぁ、なんでだろうね」
…それは俺もまた、立ち止まりたくないからなんだ。
進み続けて、変わり続ける環境に身を置いていたいから。しがらみのない場所だというわけではない、妥協で選んだ土地でさえも、進み続けていることに変わりはないから。
俺はまだ、この人生に満足しているわけじゃないから。
少女にとっては短すぎる、人間としての時間を、ちゃんと過ごしていたいから。
この夜も思い出になっていく。そして、時間が経てば忘れてしまうんだろう。それこそが、明けない夜なんてないことの証明で、進み続けなければいけない理由だ。
「花が咲いて、葉をつけて、それもまた枯れて」
見上げれば、もう花は散ってしまった桜がある。
「…それでもまた来年、花が咲くんだ」
少女は同じ桜の木を見上げる。…何を考えているかは、わからない。
「そっか。…そうだよね」
人では辿り着けない永遠や永劫に、少女は足を伸ばしていく。同じ歩調で歩いていても、俺にはいつか止まらなければいけない時が来る。
だから…明けない夜は、望むべくもないんだ。
「…じゃあ、ここでお別れだね」
俺が頷くと、少女は立ち上がった。俺の肩にすら達しない背丈で、この子は幾つもの何かを背負ってきた。それを肩代わりすることはできなくても、ここで出会えて、そして別れたことが、この子にとっていい経験になればいいと、心から思った。
「さようなら、お兄さん。…もしまた出会ってしまっても、変わらないでいてね」
保証できないな、と言うと、少女は嬉しそうに笑った。…もう、急に目の前から消えることにも、驚くことはなくなっていた。
一人取り残されたよく見知った世界で、この夜が明けるのを願った。