完
目が覚めると辺りは明るくて、当たり前に朝が来たんだと分かった。
ベッドの上には俺以外誰もいないし、恐らく今後、あんなことに巻き込まれることもないんだと思う。
静まり返った部屋は、ベランダで囀る雀の声が聞こえるほどだ。今までも聞こえていた気がしないでもないけど。
それにしても気持ちのいい朝だ。空は晴れ渡って、雲一つない…とは言えないが、それなりの晴天だ。
久しぶりに散歩でもしようと思って、準備をする。何度も繰り返してきた日常の動作。時計を見ると、時刻は7時半。日付は土曜日だった。
在宅勤務が多くなると、日付の感覚がなくなってしまう。今ではこのデジタル時計やスマホだけが、俺に日付を意識させるものになってしまっている。歯を磨いて口をゆすぐ間、そんなくだらないことを考えた。
適当な服に着替え、履きなれた靴を履く。玄関のドアを開ける。…今までも何度も見てきた景色なのに、いつもより輝いて見えるのはなぜなんだろう。何を見るか、よりも、どんな気持ちで見るか、の方が大事だということなのかもしれない。
数ヶ月経ってやっと見慣れてきた景色のはずなのに、やけに居心地のいい空間に感じる。それにも特に、理由なんてないんだろう。住めば都。説明できる言葉があるとすればそれだけだ。
短時間の散歩を済ませて部屋に戻ると、人の気配があった。どうせあの人だろうと思って、靴を脱ぎながらおざなりに挨拶をする。
「おはようございます。今日は早いんですね」
おはよう、とご機嫌な声がして、俺は慌てて部屋に戻る。
「来ちゃった」
えへへ、と笑うのは、間違いなく少女だった。状況が理解できず、言葉が出ない。
「せっかく長く生きられるんだし、色んなものに抗ってみることにしたの」
少女の表情は急に大人びて、何かの決意を固めたように見える。
「とりあえず、私とお兄さんが一緒に生きられない、っていう運命に抗ってみようと思うの!」
…何を言っているのか理解できない、というよりあまり理解したくもないが、どうやらそういうことらしい。
少女の中で、やはり諦めきれないということなのだろう。
少しは前向きに捉えられるようになったのだろうから、結果としては…まぁ、及第点なんじゃないだろうか。
俺は少女の頭を撫でる。
「頑張ろうな、色々と」
少女は満足気に頷いた。…いつもなら大体このくらいでいなくなってしまうのに、今日の少女はそうではなかった。俺のしている作業を眺めて、時たま悪戯なんかをしながら、俺の部屋に居続けている。
「…帰らないの?」
俺が聞くと、少女は笑って答える。
「お兄さんと一緒に生きる、って言ったでしょ?」
俺は苦笑して、パソコンを閉じる。いつの間にか、時刻は昼下がりだった。
「お腹空いてない?何か作るよ」
少女がなんでもいいというので、冷蔵庫にあったものを取りあえず炒めて中華ペーストで味をつけるという、雑かつ美味しいことが決まっている料理を出す。…もはや料理とも言えないんじゃないだろうか。
少女と俺はご飯を食べながら、色々なことを話した。少女の覚えている限りの小さな頃の記憶とか、俺の昔の話とか。
こうやって、お互いを理解する時間を設けられるのは、俺達にとってはいい事だと思った。何も知らないまま、ただ似ているという理由だけで一緒にいようとした頃に比べれば。
ご飯を食べ終わり、午後の作業に取り掛かる。終わる頃には少女はベッドで俺の蔵書を読んでいた。…いつの間にか、辺りは暗くなり始めている。
「…これ、続きないの?」
差し出された本は、4年も前に読むのをやめてしまったものだった。俺は多分何巻かは出てるんじゃないかなぁ、と返して、その本の詳細を調べる。…俺が読むのをやめてすぐ、それは打ち切りになってしまっていた。
「ほとんどないみたいだよ、続き」
俺がそう言うと、少女は本を棚に戻して、背表紙を少し撫でた。
無言の時間が流れる。…それは特に気まずくもない、なんとなく心地のいい時間だった。
…打ち切り、か。俺はあの本を読まなくなった時のことを思い出す。
あれは確か、仕事が突然忙しくなった時。つい発売日を逃してしまった瞬間に、なんだかどうでもよくなってしまったんだった。
もしあの時、発売日にあの本を買えていたら。それがとても面白くて、感想ハガキなんかを書く気になっていたら。俺一人の力なんかじゃどうにもならないかもしれないけど、でも少しは違ったりしたんだろうか。
もしも。
人生にはそんな可能性が溢れていて、俺はその上に立って生きている。何かを選び取ったり、選び取らないままなのに選ばされていたりしながら。その選択肢の分岐で、幸せだとか満足だとか、不幸だとか不満だとかが決まっている。
じゃあ今、この瞬間はどうだろう。俺の選択は、どうだったんだろう。そういうことを考え始めると、普段は止まらなくなってしまう。…だけどまぁ、なんとなく。
こんな風に、何でもない日常を少女と過ごしていけるのは、過ごしていこうと足掻くことができるのは、幸せなんじゃないだろうか。
まだ終着点ではないにしろ、これから先苦悩することになるにしろ。少なくとも、そこに向かっていこうと思えるくらいには。
夜は明けてしまう。けれど、日が沈めばまたやってくる。そんなことを繰り返しながら、日々を積み重ねていく。その中で少しずつ、前に進んでいけばいい。
「なぁ、こいし」
名前を呼ぶと、少女は嬉しそうにこちらを向いた。意識的に名前を呼んだのは、これが2度目のような気がした。…それほどに、共に過ごす想定なんかをしていなかったのだと思う。
「…明けない夜はない、よな」
少女はこくりと頷いた。
「明けない夜なんてないよ」
俺はその返答に満足して、立ち上がる。
「買い物行かなきゃ」
俺と少女は、揃って玄関のドアを開ける。外はもう真っ暗だった。街灯の光を頼りに、俺達は真っ直ぐに歩いていく。
夜の空気。昼よりは幾分か温度の落ちた、少しだけ棘のある風。遠くを見ても、空と地面の境界が分からない暗さ。そういうものを、俺は愛おしいと思う。
明けていく夜の中で、こんな日々が…こんな夜が続けばいいと思いながら過ごす行為を、やがて日常と呼ぶんだろうな。暗い道の先にある目的地を目指しながら、いつもより強く一歩を踏み出した。
ありがとうございました。