目が覚める。ここはどうやら自分の家で、俺はベッドに寝転んでいた。
ということは、無事に帰ってこれたということだ。ズキズキと痛む頭を抱えて、乾き切った喉を潤すべく、ベッドから立ち上がる。
ふと、テーブルの上に無造作に置かれたタバコの横に、見慣れないライターがあるのを発見した。変わった形をしていて、どうやって擦るのかもわからない。こんなライター、いつ買ったんだろう。…昨日の記憶がほとんどないので、これは悪酔いの産物だろう。多分、変な露店で結構な額を出して買ったんじゃないかと思われる。
こんな物を買うくらいだったら、お酒は控えた方が良さそうだな。…まぁ、お酒が入っていなくとも、こういう物を買ってしまう時はあるだろうけど。
コップに注いだ水を一気に飲み干す。体温が下がるのを感じる。俺はまた、ベッドに倒れ込んだ。
見慣れた、見慣れきった天井をぼんやりと眺めていると、時間の流れなんかを感じることができる。…昨日はどうやって帰ったんだっけ。
コンビニの前で座り込んで、空を眺めていたことまでは覚えている。だけど、その先が思い出せない。何か、衝撃的なことがあったような気がするんだけど。
…まぁどのみち、思い出せないことは考え込んでも思い出せない。俺は思考を投げ捨てることにした。そもそも、まともな思考ができる状態ではないのだ。
形容しがたいいくつかの思考が同時に襲いかかってきて、そのどれを選び取ることもできずに、全てに見ないふりをする。そうやって、この苦痛に耐えている。
そうしている内に眠りについてしまうことや、全てがどうでもよくなってしまうことに期待をして。それが俺の、二日酔いの時のルーティーンになっていた。
時計の音だけが響く部屋に寂しさを感じて、テレビをつける。どうでもいい旅番組が流れている。俺は笑いも悲しみもほとんどないそれをBGMに、目を閉じてみる。
当たり前に視界は真っ暗になる。何も見えない分、テレビの音がよく聞こえる。文章を咀嚼しようとしていないから、風のように通り過ぎていくだけだけど。
こうしていれば、見ないふりではなく確実に見なくて済む。見たいものも見たくないものも関係なく、全てを見ないでいられる。…後ろ向きが過ぎる思考だが、それも悪くない気がした。
辛いことも、楽しいこともない真っ暗な世界で、何かに怯えることもなく、何かを強いられることもなく生きる。それはきっと、素敵なことなんだろう。
そこまで考えた所で、ふと思い出した。閉じた瞳のような入れ物のこと。そしてその持ち主の、不思議な少女のこと。
そういえばこのライターはあの子に貰ったものだ。昨日は付けられたのに、今日はどうして付け方がわからないんだろう。
「…あの子は誰だったんだろう」
俺の記憶では、ばいばい、と言って消えてしまったのだが。そんなはずはないので、きっとまだ完全には思い出していないんだろう。
不思議な子だったなぁ。多分、しばらく経てば忘れてしまうけど。
忘れたくないことも、忘れたいことも。同じように少しずつ攫われていく。ずっと大事に握りしめていたはずの宝物も、いつか無価値に思えてくる。
忘れてしまうと分かっているから、忘れないように努力することはできない。いつかは忘れてしまう景色だから、今を大切に思えない。
「おはよう、お兄さん」
突然声がして、俺は驚きのあまりベッドから転げ落ちる。そんな俺を見て、声の主はけらけらと笑う。
それは間違いなく、昨日会った子だった。大きめの帽子を被った、不思議な少女。
聞きたいことは沢山あった。なぜここが分かったのか。どこからここに入ってきたのか。そもそも、なんで俺に会いに来たのか。
そのどれも言葉にはならず、俺はぱくぱくと口を動かした。
「挨拶されたら、ちゃんと返さなきゃダメでしょ?」
少女はそんな俺の仕草を気にも留めず、俺の手を取った。引っ張られて、やっと立ち上がる。
「その前に、人の部屋に勝手に入ったらダメだろ」
そう返すのがやっとだった。少女は悪びれもせず、またけらけらと笑った。
何なんだ、この子は。俺の知っているどんな人間も、昨日あっただけの人間の家に勝手に上がり込まない。
ましてや、玄関も窓も開いていないはずの部屋に入る方法を知っている人間もいない。
俺の脳みそは有り得ない仮説を立て始める。俺はそれを否定するために、玄関に向かう。鍵は閉まっている。
「…どこから入ってきた?」
俺は震える声でそう聞いた。
「昨日から、ずっといたけど?」
さも当然、と言った感じで、少女はそう言った。例えば酔って部屋に招いてしまったとしても、今の今まで全く気付かなかったなんてことがあるだろうか。それでも、ずっといたと考える方が、辻褄は合うような気がする。
「お兄さん、私が見えなくなったのに平然と帰るから、こっちがびっくりしちゃった」
昨日は酔っていたから無かったことにできたものの、一晩寝て冷静になってしまった頭では、この状況を飲み下すことはできそうになかった。段々と背筋が凍るのを感じる。
「…君は、一体何なんだ?」
漠然とした、答えにはたどり着けそうにない、それでも一番心の中の声に近い疑問文を投げかける。少女は少し考える素振りをして、それから答えた。
「私にも、よく分からないよ。そんなの」
今までに見た事のない、悲しみに充ちた笑顔だった。俺はそれ以上何も言えなくなる。何か言ってしまうのが、間違っているような。なけなしの情みたいなものが、喉まで込み上げていた台詞をゆっくりと溶かした。
「逆に聞くけど、お兄さんって何なの?」
少女は俺に問いかける。
「…どこにだっている、普通の青年?」
俺の答えに、少女は満足したように頷く。それから口角を上げて、口を開く。
「それは、誰かがそう保証してくれるからだよね?戸籍とか、親がつけてくれた名前とか、色んなものが。それが全て無くなって、自分で自分が何者なのか考えなきゃいけなくなったとしたら、お兄さんって何なんだと思う?」
俺は言葉に詰まる。確かに俺がここに存在するのは両親が俺の生活を保証し続けてくれていたおかげで、国が俺の身分を保証し続けてくれているおかげで、周りの人間が俺の存在を保証し続けてくれていたおかげだ。…それが無くなったら。
「…何なんだろう」
少女はまた、陰りのある表情に戻る。
「ね?何も分からないでしょ。私と同じ」
吸い込まれそうに深い瞳が、まっすぐ俺を見つめている。その目に映る俺は、不安や恐怖に包まれて、今にも崩れてしまいそうに見える。
「私はね、お兄さん。私みたいに見える人が好きなんだ」
なーんにもない、からっぽな人が。少女はそう言って、にっこりと笑った。俺はただ、目の前で起きている現実が処理できずに、ぼーっとそれを眺めていた。