明けない夜を希う。   作:write0108

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「あ、でもね、ちゃんと名前はあるよ。誰が付けたのかもよくわからないけど、私が私だって証明してくれる名前が」

 

俺が立ち尽くしているのを気にも留めずに、少女は言葉を発し続ける。…何故かそれが、焦りのようなものなんじゃないかと考えた。

 

「古明地こいし。それが私の名前。ちゃんと覚えてたら、また会えるかもね?」

 

そう言って、少女はまた消えた。もう一度見る光景は、やはり現実感がなくて。昨日のように酔いのない今の頭では、まるで処理しきれなかった。

目の前で起こったが故に投げ出すこともできない、だけど飲み下すこともできない現実に出会ってしまった。

 

俺は逃げ出すように外に出る。事件現場を目撃してしまったかのような足取りで。

どうしてか逃れられないあの瞳から、あの吸い込まれそうな程に何もない瞳から、どうにか目を逸らしたくて。

 

いつもよりも早足で、歩き慣れたアスファルトを踏み締める。やはりここは現実で、夢の中ではない。当たり前に理解していることを確認してみたりする。

 

考えないようにすればするほど、少女のことで頭はいっぱいになる。

最後に聞いた名前や、その去り方のことを考える。

 

忘れていなかったらまた会えるとは、どういう意味なんだろう。

またどこからともなく現れて、どこかへ消えていくんだろうか。少女が立っていたはずの場所には、特に痕跡になるようなものが落ちているわけでもなかった。

 

…あの子は、どうしてあんな目をしているんだろう。

一見とても明るく見えるあの少女の瞳は、忘れられないほどに脳裏に焼き付いている。

 

大きさも形も、まるで違うのに。俺と少女の瞳は、とてもよく似ていると思った。少女が私みたいに見える、と言ったのも、きっとこの目のことだろう。

 

「空っぽ、ねぇ」

 

似合いすぎた表現だな。そう思って、少し笑う。

いつの間にか、足取りはいつも通りになっていた。

 

少女の貼り付けたような笑顔や、どこからともなく現れては消える在り方に対する恐怖心は、完全に消えたわけではない。

だけど、その目から感じる温度の無さや、期待を押さえつけるような悲痛さに、なぜだか親近感が湧いた。

 

もちろん、怖くなくなったわけじゃない。それでもなんとなく、本当になんとなく、救いを待っているように見えてしまって。

 

助けの求め方や、関係性の築き方を。誰に習う訳でもない人間が殆どなのに、それが全くできない人間がいる。距離感を間違えたり、喉まで上ってきてしまった言葉を飲み下したりして、それに後悔して。そういうことを、何度も繰り返してしまう。

 

俺には、少女がそういうタイプの人であるように見えた。色んなことを考えているのに、考えていないみたいに取り繕っている…そんな人間の、空っぽな笑顔だったから。

 

「古明地、こいし…か」

 

俺は忘れないように名前を呼んだ。聞いた事のないような響きなのに、どこか懐かしさを感じさせる字面。不思議な魅力がある、素敵な名前だと思った。

 

「なぁに?」

 

また急に現れた少女に、俺は驚いて尻餅をついた。初めて会った時と全く同じ動きで、少女はけらけらと笑った。歩くことや、箸を使うことみたいに、コンディションに関係なく、いつでもできる仕草のように。

 

染み付かせたような、そんな動作に、貼り付けたような笑顔。…本当の部分は、何パーセントくらいなんだろうか。そんなことを考えていると、少女は手を差し伸べてきた。

 

俺はその手を掴んで立ち上がる。柔らかくて、暖かい手だった。

やっぱり、子供みたいな容姿だ。急に目線が高くなったので、よりそう思う。

 

なのに、なぜ少女はこんなにも哀しい目をしているんだろう。冷めた目をして、口角だけが上がった少女の表情は、何度見ても胸が痛くなる。自分に重ねているからなのだろうか。そんなものよりもっと、深い所に刺さってしまっている杭を、無遠慮に弄られているような。そんな痛みだと思うんだけど。

 

…まぁ、考えても仕方がない。分からないものは分からない。俺は考えることをやめて、少女に礼を言う。

 

「私が転ばせたのに。変なの」

 

少女は初めて、笑顔以外の表情をした。俺はそれが面白くて笑う。

心外だと言うように、少女はそっぽを向いてしまう。

 

俺はごめんごめんと謝りながら、何となく周りに目を配る。いつの間にか帰路についていることに気が付いて、少し逸れた道を選ぶ。

 

…なぜだか、そうしたかった。家に帰りたくないと思ったのはいつ以来だろう。活発的で、見方によってはまともに思える感情。湧き上がるというよりは、降って湧いたような気持ち。

 

なぜ俺は、あんなにも恐れていた少女と一緒にいるんだろう。言葉にはしづらいが、不思議と嫌ではない、そんな暖かな疑問に包まれる。…時に、自分でもなぜこんなところに?と思う場所で発見した失せ物のように、心は不具合を起こす。

 

しかし、その疑問もやがて他の感情に書き換えられる。

 

明らかに知らない場所に出て、俺は足を止める。少女は楽しそうに、俺の先を歩き始める。

 

「昨日、送ってくれるって言ってたよね?」

 

少女の目には、珍しく光が灯っていた。それが灯篭のような、朧げな外的な光によるものだと気付くのに、そう時間はかからなかった。

 

気づけば俺は、日の光の差さない場所にいた。誘蛾灯のような確かな光ではない、火元がどこかも分からない、朧げな輝きに誘われるように、奥深くへと落ちていくように、不確かな足取りで歩いていく少女を追いかけることしかできなかった。

 

「…ここが、私の住む街。というよりは、私が見れる世界の全て、なのかな?」

 

相変わらず、少女は笑う。儚げで、寂しげな笑顔で。俺はやはり、その笑顔を怖いとも、繋ぎ止めておきたいとも思う。

 

「お兄さんは、こっちの方が幸せに暮らせると思うなぁ」

 

俺はただ願っていた。今度は少女が消えないことを。この世界に、俺だけを取り残してしまわないことを。…帰りたいとは、思わなかった。目の前のものに縋って生きること。俺が選び取ってきた選択肢を、こんな時に自覚させられる。

 

声も出なくなってしまった俺の手を取って、少女は深く深く進んでいく。訳の分からない光景はより妖しさを増して、全方位を囲い込む。

 

「…ねぇ、私と一緒にさ」

 

純粋無垢な…それでいて、希望のない淡白な響きの声だ。それは握る手の温かさにも、歩き進めていく歩幅にも、目線の高さにも、どれにも似つかわしくない。

 

「いつか終わるまで、ここにいようよ」


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