前
…今思えば、もう一ヶ月前の出来事なのか。新生活もようやく落ち着いてきて、少しだけ過去を振り返る時間ができた。結局俺は、少女に黙ってあの世界に別れを告げた。女性は、俺のそんな気持ちを汲んでくれたようだった。
あの人達はどうしているんだろう。元気にやっていて欲しい。他人にこんなことを思えるようになっただけでも、一歩成長したような気がする。
こんなことを思い出したのも、きっと全部、あの夢のせいなんだろうと思う。今日見た、不思議な夢のせい。
夢の中で、俺はよく知らない場所にただ一人座り込んでいた。そこは満ちた月が綺麗に見えるのに、星は全く見えない空が広がっていた。…例えるなら、絵本の中のような。その月は静かに、俺を見下ろしているようだった。
月を見上げる俺に、男性が話しかけてきた。その男性は見たことのある表情で、俺にこう聞いてきた。
『君はあの子のトモダチ?』
急に声を掛けられた驚きで言葉が出ない俺に、男性は同じ言葉を続ける。
あの子、というのが誰かも分からないので、俺は首を振る。不思議そうな顔をして、男性は俺の目の前を通り過ぎていく。
続けて、今度は女性が話しかけてきた。さっきの男性と同じ表情で、全く同じ言葉を投げ掛けられる。
『君はあの子のトモダチ?』
俺はまた首を振る。不思議そうな顔をして、女性も俺の目の前を通り過ぎていった。
『君はあの子のトモダチ?』
様々な年齢、容姿の人物が、俺にそう聞いてくる。俺は疑問に思う。皆が言うあの子って誰なんだろう。そう質問してみても、返ってくるのは同じ言葉だけ。…頭がおかしくなりそうで、俺はその場から離れる。
『君はあの子のトモダチ?』
どこに行っても、どんな人と会っても、皆口にする言葉は同じだった。…誰もが、同じ方向に歩いていく。辺りを見渡してみて、ようやく気付く。俺が見た事もないほどの数の人々が、一点に集まっていく。
その真ん中にいるのは、誰なんだろう。ここからじゃ遠すぎて、人の波しか見ることができない。俺はただ、この異様な景色から目を逸らしたくて、月を見上げる。
その瞬間、声がした。
『ねぇ、あなたは私の────』
…その夢の中の人々の表情は、よくよく思い返してみれば、あの子と全く同じだった。どこか達観していて、どこか諦めていて、どこか見下している…のに、何かを期待している目。
俺はまだ、あの夢のような日々から抜け出せていないのだろうか。幾日にも満たないあの経験が、それでも俺の人生の中に大きく横たわっている。
不思議な少女のこと。不思議な世界のこと。この先の人生でとても経験できそうにない、あんな非日常のこと。
何度思い出しても、やはり不思議という言葉で片付いてしまう。理解の範疇を超えていることを言い表す言葉は、俺にはなかった。
「何だったんだろうなぁ、あの日々は」
呟いてみても、答えがあるわけではない。新しい部屋のベランダで、月を見上げる。綺麗な三日月だ。街灯の明るさに怯えるように遠慮気味に、それでもそう生まれた自分を誇るように堂々と、空に浮かんでいる。
…こういう何もない日が積み重なっていくことが、全ての原因だったりするんだろうなぁ。一歩踏み出す方向性すら分からないのを理由に、間違っていると思いながら留まり続けていることが、俺があの日々に囚われている理由の大部分だと思う。
何かが…想像もできないような何かが、自分の身や世界に起きることを想像する。隕石が降るとか、戦争が起こるとか、そんな大それたものではないにしろ。ただあんな風に、訳の分からない物事に巻き込まれたりするような。毎日が楽しくなる何かを、俺はずっと待っている。
あの夢の中だって、本当はもっと幸せな世界なのかもしれない。俺の常識からずれているだけで、真意はもっと別の所にあったのかもしれない。
これだってきっと、都合のいい解釈だ。現実から逃れるための手段で、明日も生きる為の方法。この世界はつまらないと断じてしまえば、どれだけでもつまらなくなるから。
…こんなことを考えながら、また突然、少女が現れるのを待っているのかもしれない。いつでも腰を抜かして驚くのを、笑われたいと思っているのかもしれない。
だけど、それは失ったからこそ強く思うことだ。意味のない記号みたいなもの。
どれだけ待ってもあの日、俺の前に現れた少女は、もういないんだ。
煙草の火を消して、ベランダから立ち去る。暖房はついていなくても、部屋の空気は少し暖かくて、俺はやっぱりこの部屋で暮らしているんだと感じる。呼吸をして、睡眠をとって、飯を食べて。ここが俺の世界のほとんどで、ここが俺の終点のように感じる。
ベッドに寝転がって、目を瞑る。できればあの夢の続きが見たかった。あの夢で最後に聴こえた声が、新しい可能性なのかもしれないから。
声の主が誰だか分からないからこその可能性。望んだような世界じゃなくても、それでもいい。
ただこの退屈から俺を救って欲しいと思いながら、意識を夢の世界へ放り投げた。