車内では悲鳴が上がり、人々はバタバタとその場から離れていく。
俺だけが一歩も動けないまま、その様を視界の端に捉えていた。
血塗れの少女は窓ガラスに張り付いたまま、もぞもぞと動いている。人ではない何かのように、ガラスの地面を這い回っている。
俺はただ目の前で起こった事象を捉え続けることしかできなかった。突然殴られたみたいに、頭の中は文章にならない疑問で埋まってしまうから。
俺の口から出た言葉は、一つだけだった。
「なんで…」
体中の力が抜けて、膝から崩れ落ちる。痛みはまるでなかった。絶望でも歓喜でもない強い感情がその言葉と共にせりあがってきて、俺は訳の分からない涙を流した。
少女はいつも通り、笑っていた。初めて見た時と同じように、口の端だけで。
人間の体では曲がらない方向に、殆どの関節を曲げながら。それでも俺の方だけを一点に見据えて、笑っていた。
やがて俺は、どこからかやってきた駅員さんに抱えられるようにして車両を移った。
いつの間にか、涙は止まっていた。
俺の連れていかれた車両は、少女の様子を撮影しようとしている人達が大勢いた。
止めたかったが、体が動かなかった。全身に力が入らないまま、ただ座らされた座席で、その様子を眺めていた。
その人達は、別に楽しそうではなかったし、怒ってもいないように見えた。
ただ珍しいものを見たという目で、少女を連写した。
好奇心、という奴だ。強い興味ではない、かといって執着でもない何かが、この人達を突き動かしている。
やがて駅員さんに止められて、シャッター音は止んだ。
その人達が席に着いてからも、俺はただ眺めていた。
友達と今その場で起こっている光景について話をする学生や、見に行こうとする子供を止める母親や、時計を一瞥してため息を着くサラリーマン。
全員が全員、少女自身ではなく、この状況について何かを考えていた。当たり前なのに、それにすごく違和感を覚えた。
きっとその目で見られることが、一番辛かったはずなのに。それでもその方法で俺を探しに来たのは、一体なんでなんだろう。
いつの間にか思考はまともになっていた。…思考自体はまともじゃないかもしれないけれど、どちらにせよ、何かを考えることはできるようになっていた。
こちらの車両まで少女が追いかけてくることはなかった。後から来た警察官、もしくは消防士の誰かに引き剥がされるまで、俺がいた車両に張り付いて、一点を見つめていた。
次の駅で強制的に降ろされたので、俺は上司に電話をかけた。
「すみません、先程メールでもお伝えした通りトラブルがありまして…」
そう伝えると、上司は心配そうに今日はもう休みなさいと言ってきた。どうやらこの様子は生中継されていて、俺が少女を見て膝から崩れ落ちたのも見られていたらしい。
「…明日は必ず行きます」
それだけ言って電話を切る。俺は一刻も早く外に出たくて、走って改札口に向かう。
周りの人は、今から出勤するものだと思ったのか、俺に道を開けてくれた。そんな心遣いが、今はもう辛い。
とにかく一人になりたい時ですら、誰かの助けを得てしまう。逃れられない苦痛だ。俺はただ、誰かにとって何でもない、路上の石ころになりたいだけなのに。
それを叶えるには、一人で野垂れ死んでしまう以外に方法はなくて。だけど、それだけは何でか選べなくて。早く死にたい自分が背中を突き飛ばしても、生に縋る自分が手をついてしまって。
また明日以降も生きる言い訳を重ねて、ただ歳だけを取っていくんだろうと思う。
改札を通り抜けるまでの間、そんなどうにもならないことを考えた。…不思議と、皆がこんな気持ちを抱えているとは思えなくて。それが、この世界で俺が孤立していると思うには充分な理由だった。
全て自己完結だ。誰かの声を聞いた訳でもないし、聞きたいとも思えないから。風もないのに、朝の空気は尖っていた。
そういえば、少女はどこへ連れていかれたんだろう。あの子のことだし、どこかへ消え去ってまたニュースになっていたりするんだろうか。
スマホを開くと、SNSは今日の事件についての呟きで持ち切りだった。流石に良心が痛むのか、少女の写真はなかった。
ニュースサイトを見ても、やはり今日の事件を取り上げていた。当然ながら、少女についての情報はなかった。素性の分からない誰かが、電車に飛び込んだことが書かれているだけだった。
俺は今電車で辿った道を、線路沿いに戻ってみることにした。この辺りは閑静な住宅街で、聞いた話によると土地代も相当高いらしい。都心へのアクセスも抜群で、買い物にも困らなくて、その上喧騒はない。そんな街だそうだ。
ここに住むことを目標にしている人達もいたりするのかな。俺には関係のないことだけど。
肝心の事件現場は、すぐに分かった。黄色いバリケードテープが車道まで張り巡らされていて、沢山の野次馬がその周りを囲んでいる。
あの場所で少女は轢かれたんだろうな。ブルーシートを見つめながら、そう思った。
何を思って、少女は電車を止めたんだろう。俺を探しに来たとして、それはこんな事件を起こす必要のあるものだったとは思えない。
また、少女の様子が脳裏を過る。
あの時、やはり少女は「見つけた」と言ったのだろうか。分からないというほかないのに、それでも考えてしまう。
声を掛ければよかっただろうか。さよなら、また会えたらいいね、そう伝えてあげれば、こんなことにはならなかったんだろうか。
…でも、少女に声を掛けていたら。俺はこの世界にいただろうか。帰ってきても好きになれないこの世界に。
いっそ何も考えない人だったモノに成り代わってしまって、それの何が不都合なんだろう。…俺自身がそう思うから、女性は一刻も早く俺を帰したかったんだろうけど。
ふと、ぬるりとした感触があって、俺は右手を見る。…赤黒く、べったりとした液体が、手全体に付着していた。
声にならない悲鳴を上げる。いつの間にか周りには誰もいなくなっていて、どこか分からない真っ暗な場所に、俺は一人で立っていた。
「見つけた」
真後ろで声がして、俺は飛び上がるようにして驚いた。
目の前にいたのは、正真正銘、少女だった。初めて見る笑顔だ。光沢のある眼で、口角を吊り上げて、少女は笑っていた。…さっき見た時と同じように、血塗れで。
「なん、で…」
俺が言うと、少女はさらに口角を吊り上げる。
「聞きたいのはこっちだよ、お兄さん」
血塗れの手で、顔に触れられる。
「なんで、何も言わずにいなくなったの?」
…精算の時間、なんだろうか。
俺は飲み下しづらい唾液を飲み込んで、口を開いた。