VSS(仮題) 作:ヴィントレス
オリ主有、原作死亡キャラ生存、残酷な描写在り。
一面に広がる冴え冴えとした星光を侍らせ、雲一つない澄み渡る夜空に、月が出ていた。薄ら寒ささえ感じさせる青っ白い月光は、あまねく地表を照らしていた。
月下には、ぽつぽつと穴の開いた黒緑の緞通。望月と満天の星を仰ぐ地上は、鬱蒼と生い茂った草木が支配する深山だった。不自然に開けた個所があるにはあるが、その他に山道らしきものもない、手つかずの深山。
その、さらに下。地表。空からこぼれたあらゆる光を得んと貪欲に腕を広げた緑の巨人たちに遮られ、昼間であっても僅かな明かりさえささない。深夜ともなれば、なおのこと暗く、深い。夜行性の獣ですら、この暗さの前には滅多に出歩かない。
しかし。
この深山には、獣がうろつかぬ理由が、もう一つ。
「どうしたぁ? 腕ばかり斬っても俺は倒せないぞ?」
普段なら。
普段なら、この山は酷く閑散としている。小動物の気配さえなく、虫すらも寄り付かない。しかしながら、深夜になると散発的に騒がしくなることがあった。そしてそれが、獣が寄り付かぬ理由でもあった。
今宵、深山は、特に騒がしかった。
「ひひっ。どうした狐小僧、手も足も出ないか? ああ、足が出せないのは俺もだった。代わりに手ならいくらでも出せるんだがなぁ、くひひひっ」
夜闇の中、嘲笑う影があった。聞いた者の背筋を震わせる、悪意に塗れた声の持ち主が。
禿頭。山葵色の肌。見上げる巨躯は一丈を超え、首元を始めとした全身には葛のごとく纏わりついた無数の腕と、膨れた肉。ぶよぶよとしたそれは時折蠕動し、五指を象ってはまた肉の海へ消えていく。その様は生理的な嫌悪を抱かずにはいられない気味悪さだった。
異形と呼ぶに相応しい、悪夢の中から飛び出してきたようなその姿。これなる怪物がかつて人であったなどと、どうして信じられよう。そう。人、人なのだ。見上げる巨体をもち、ぶくぶくと膨れ上がった醜悪な肉の塊となったこれは、かつて確かに人であったモノなのだ。原初の一たる『それ』に血を流しこまれ、常人の枠を逸脱させられた――同族である人を食って命をつなぎ、老いを知らず、食らえば食らうほどに力を増す異形の存在へとなり果ててしまった、元人間。
これを、『鬼』と呼ぶ。
「ふん」
もう一つ、影。
大人でも恐怖に竦むだろう異形の鬼を前に、堂々と立ちふさがる影が、あった。
ある意味、それは当然のことだ。人に仇為す怪物、それも常人では刃が立たないような異形あるいは異能を備えた連中がいて、それが野放しになっているとしたら、人の世はあっという間に終焉を迎えてしまうだろう。
しかし現実にはそうなってはいない。
鎖された国を開き、外つ国との交わりが始まって四十年余り。ここ日本はこれまでにない発展を遂げている。それ即ち、陰に日向に戦い続け、鬼を征伐して太平の世を守り通さんとした何者かが存在してきたことを示している。
ある者は殺された親族の復讐のため、またある者は古来よりの使命を胸に。只人の身を限界まで、否、限界を超えて鍛え上げ、鬼を、そしてそれらの祖を滅さんと戦い続けた者達が、確かに居るのだ。
――鬼殺隊。数百年にわたり、陰ながら人の世を守り通してきた一流の剣士たちが。
「末期の言はそれでいいか、下郎」
宍色の髪。口元から右頬に掛けての傷痕。身の丈は五尺あまり。亀甲柄の着物の上に白い羽織を羽織っている。頭には、彼の特徴を端的にあしらった白狐の面。年のころは十三、四あたりだろうか。抜身の刀を握り、険しい視線を眼前の鬼へと投げかけている。深い蒼に染まった刀身が、僅か零れ落ちる月光を受けて鈍く輝いていた。
何も知らぬものが見れば、あまりの違和感に眩暈を覚えることだろう。どこからどう見ても、彼は子供だ。鬼を狩るどころか、鬼に狩られる側。鬼に餌食にされる筆頭。護られるべき弱者のはずだ。
だというのに、彼はここにいた。
つまりは、それが答えだった。
――正確には、彼はまだ正規の鬼狩りではない。しかし、刀を構えるその姿には一分の隙もなく、積み重ねた修練の確かな重みを背負っているのが素人目にもはっきりと見て取れた。
「ちっ、威勢のいいガキだ。その威勢のよさがいつまでもつかな?」
怪物が、鬼が、機嫌を損ねたような声を出す。鬼というものは総じて
「さあ、今度はさっきの倍だ!」
鬼の体表が蠕動する。隆起する肉塊。躍動する筋肉。それらはたちどころに腕の形をとって鉄砲玉のように飛び出した。都合三十本、素早くしなって木々の合間を縫うようにして近づく細身なものから、進路のすべてを打ち砕いて進む剛腕まで多種多様な、暴力の奔流だ。掠っただけでも、少年の未成熟な体では致命傷となりえるだろう。
「来い」
明確な死の具現を前にしながらも、狐面の少年に焦りはなかった。目を細め、迫りくる剛腕を真正面から見据えている。
鬼の剛腕が巻き起こす破壊音に紛れて、ヒュウゥゥゥ、と独特の音が場に響いた。
(全集中・水の呼吸――っ!)
それは、呼吸の音だった。人としての在り方を捨て去り、自然の摂理からも抜け出した怪物に只人の身で対峙せんとする者たちが編み出した秘技。それこそが『全集中の呼吸』、地獄のような鍛錬の果てに培われる奥義である。
少年の扱うそれは、いくつかある流派のなかでも『水の呼吸』とよばれるものだ。水のように変幻自在の独特な歩法を軸とする、あらゆる状況を想定した攻防一体の剣技であった。
静かに、しかして力強く、少年が一歩踏み出した。同時、構えられた刀から流水が溢れ出す――様に見える。少なくとも、鬼の目には伸ばした腕を飲み込まんとする湧水の姿がくっきりと映っていた。
「参ノ型 流流舞い!」
水が、流れ出す。
さらさらと流れゆく清流のように、殺到する凶腕を掻い潜り、時にそれを断ち切って。流れゆく清水は留まることを知らず、大人の全力疾走でさえ追いつけない速度で鬼の本体へと迫っていく。
(このガキ、さっきの話をまったく気にしていないのか)
鬼は、ちょっとした昔話を少年に話していた。なんてことのない、自分の戦歴だ。鬼の経験からして、その話をすれば大抵の相手は戦意を喪失するか、あるいは激昂して隙をさらすのが常だった。
だが、少年には何の変化もなかった。少なくとも、そのうわべだけは完璧にとりつくろわれていた。先ほどまでと何一つ変わらぬ技の冴え。いや、むしろさらに冴えわたる剣技が、殴りつけようとする拳を、握りつぶそうとする掌を、打ち据えようとする腕を悉く切り払う。
鬼の背筋を――背筋だった場所を、冷たいものがなでる。それは、久しく感じたことのない感情の発露だ。即ち恐怖。迫りくる死への忌避感。最後にその感覚に浸ったのはいつのことだったか。少なくともここ数十年の間は遠ざかっていたものだった。
「こ、このクソガキがっ。ちょろちょろと小賢しい……!!」
鬼が、伸びきった腕からさらに細かく腕を伸ばす。加えて、ぶくぶくと膨れた胴体からも追加で十本もの腕を撃ち出した。もはや数えるのも億劫となった無数の腕が、少年の進撃を食い止めんと殺到する。
だが止まらない。少年の足を遅らせる障害にすら足りえない。流れゆく川を受け止めることができないように、鬼の腕は少年を捕まえることも留めることもできない。
「玖ノ型 水流飛沫・乱!」
少年が型を変える。弾け飛ぶ水飛沫の幻影を現世に投影するそれは、より素早く、回避に専念した足運びを実現する。地を、木を、時には鬼の腕さえも。僅かな足場一つ一つを瞬間的に踏みしめ、人として信じられないような立体的機動を以て鬼の急所へ肉薄していく。
「な、な、なっ」
恐怖と驚愕の感情を爆発させ、鬼は目玉がこぼれんばかりに目を見開いた。
鬼は、極限を知っていた。鍛えて、鍛えて、鍛えて、それでもまだ足らぬと鍛え叩き上げられ、只人のまま鬼を制するどころか圧倒して見せる最高峰の剣士を。かつて相対した、天狗面の男を。自分のあらゆる行為を先の先まで読み切り、一切の反撃を許すことなく叩きのめした、あの男を。
眼前に迫る少年の、師たる男――鱗滝左近次という男を。
故にこの鬼は、この山で数十年にわたり生き残ってこれたのだ。超越生命たる鬼としての自負、そのすべてを一度粉微塵に砕かれたからこそ。上には上がいる。たとえそれが人間だったとしても。そのはらわたの煮えくり返るような事実を言葉通り骨身に刻みつけられていたから、彼は常に必要以上の警戒心を持ってこの山に登る少年少女たち、そして山に閉じ込められているほかの鬼たちと戦ってきた。
たとえその相手が、この山が初陣となる鬼狩り見習のひよっこ剣士であったとしても。
極限まで飢え、本能に従って肉を喰らうしか頭になくなった、たかだかニ、三人しか人を食えていない若い鬼だったとしても。
全力を尽くし、策を巡らせ、慎重に慎重を重ねて狩り殺した。四十を超える子供たちを喰らい、時には同族の肉をも食い、異形の肉体を手に入れた。恐れ、警戒していた筈の相手は、いつしかただ貪り食うだけの餌に成り下がった。
すべてはいずれ復讐を果たさんがため――何もかもが都合よく進んでいた。残された障害はただ一つ。山のふもとに切れ目なく茂り、一年を通して狂い咲く藤の花。鬼にとって数少ない弱点となる植物だけ。
順調に、事は進んでいたのだ。
だというのに。
(こんな馬鹿なことがあってたまるか!)
鬼は、今までにも鱗滝の弟子に会ったことがあった。誰もかれも、件の天狗面と同じ彫りの白狐面――厄除の面をつけていたから、鬼にはすぐにそうとわかった。しめて十一人。あれほどの強者の弟子なだけあって、他の子どもたちよりは多少腕が立つ者ばかりだったが、鬼はその全員を逃すことなく食い殺してきた。鬼にとって、それは当然のことだった。こんな牢獄じみた場所に追いやった相手の弟子など、生かして返す道理はない。念入りに念入りに、たっぷりといたぶって苛め抜いてから食っていた。
だがこれほどの相手に出会ったのは、鱗滝の弟子ということを抜きにしても初めてのことだった。
この山に入るのは誰もかれもがまだまだ青い、尻に殻がついたような若輩者ばかりだ。それはこの山で生き残れるかどうかが、正規の鬼狩りとして――鬼殺隊の一員として生きていけるかどうかを試す最後の試練だからだ。いうなれば、この山は篩だ。網の目からこぼれた者は、容赦なく死ぬ。食い殺される。
その事実を真の意味で理解している者は、思いのほか少ない。地獄のような鍛錬を積んだとはいえ、大概は互いの存亡を賭けてまでの争いなど経験したことがない者ばかり。しかも大抵が子供たちであることもあって、付けこむ隙はいくらでもある――はずだった。
「おおおっ」
「しまっ――」
この少年。この少年だけだ。鬼が食ってきた子供たちの中で、ここまで圧倒されたのは。確かに、激昂しない相手はいた。絶望しない相手もいた。十分な才がありながら、怒りや恐怖で実力を発揮できないまま倒れた連中なんて数えるまでもない。肉体か、精神か、あるいは双方か。未熟な連中には、必ず隙があるはずだった。
しかし、だ。この少年。怒らず、怯えず、弾けんばかりの才を持ち、十全にその実力を発揮してみせる。たかだか齢十三、四ばかりの小僧が。圧倒的強者であるはずの自らを前に、絶望的事実を知らされながら。
「全集中・水の呼吸 肆ノ型――!」
「く、くそおぉぉおぉっ?!」
鬼が気付いた時には、すでに少年の足が胴の腕にかけられていた。
鬼の体を極大の寒気が貫く。引いた波が打ち寄せるように、波しぶきを纏った鋼が、ただ一つの鬼の急所へ叩き込まれる。
鬼の急所とはどこか。
足を踏み下ろせば地を穿ち、手刀を放れば岩さえ砕く。人を喰らいて力を増し、肉体を異形化させ、奇怪な異能を操る。果てにそこらの武器では傷つけたところで瞬時に再生し、時を経ようと老いることもない。
そんな超越生命たる鬼を一撃の下打ち倒すただ一つの急所とは、どこか。
「打ち潮っ!」
軽やかな弧を描き、蒼銀の刃が迷うことなくそこへ――鬼の首へ叩き込まれる。
そう。強靭な肉体を持つ鬼を人の手で葬る唯一の方法。それは、鬼の首を切り落とすこと。加えていえば、特別な鋼でつくられた刃――日輪刀で首を斬るないし破壊することで、真に鬼の息の根を止めることができるのだ。
そう。
切り落とすことさえできれば。
「――ぁ」
「ひぃっ――ひぃ、へ?」
ぎぃんと、鈍い音が響く。
鬼と少年の視界を、小さな破片が散っていく。
半ばからへし折れた、青い刀身。
少年が振るった日輪刀の刃。
「あ、は」
「ひぃははははあァァ!!」
狂笑。絶叫。鬼が全身を震わせ、歓喜に悶える。同時、僅か残された冷静な思考が、肩口に新たな腕を生成した。
「ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろぉ! もうだれにも、俺の首は、斬れやしないんだ!」
一際太く、節くれだった剛腕。子供の頭ほどもある巨大な拳。絶句した少年の顔面へ、砲弾の如く撃ち出される。
少年は、反応できなかった。型の勢いのままに空中に体を躍らせたから、というのはもちろんある。しかしそれ以上に、日輪刀が折れたという事実が彼の心に虚を植え付けていた。
確信していた。この一撃で葬れると。この山に至るまでの一年間、かの老翁に厳しいという言葉では足りないほど苛烈に鍛えられてきた。その修練は無駄ではなかったと信じていたし、事実、山に入って三十近い数の鬼共をただ一刀の下切り伏せることができていた。師の教えは、確かに自らの血肉となって息づいているのだと痛感した。
だからこそ、愕然とした。自らの技量を以てすれば、如何に異形の肉体を得ていようともその首を断ち切れるはずだと確信していたのに。
日輪刀は、折れた。折ってしまった。
「死ね!!」
喜悦を交えて、鬼の殺意が爆発する。やけにゆったりと感じる時の中で、鬼の脳裏によぎるのは数十年前の出来事だった。
未だ肉体の異形化もままならず、ただ腕力だけを頼りに夜道で人を襲っていた当時出くわした一人の剣士。ただの人間であるはずのその男に、己は再生する端から切り刻まれ、最後には指一本を再生させる体力も無いほどに消耗し、膝をつかされた。挙句、ひっ捕らえられてこのざまだ。
生命体として下位にあるはずのただの人間に、完膚なきまでに圧倒され、討伐されかけた。その事実はこの鬼に、消えることのない恐怖と、耐えがたい屈辱を植え付けた。
鬼は、夢想する。脳裏に思い描くのは、己が切願を果たす光景。
まずは、砕けた狐面を突き付けてやるのだ。丹念に、丁寧に、彫り込んでやっただろうそれ。一人一人の特徴や好みの図柄を彫り込んだそれらの残骸を眼前にぶちまけてやる。それを身に着けていたものがどうなったか、一目でわかるように。ついで、己の正体を明かしてやろう。
(あぁ、楽しみだなぁ)
自らの弟子を屠った鬼が、いつか己の手でとらえた鬼だと理解したとき――自分が手塩にかけて育て上げた子供たちを殺したのが、本当はいったい誰なのかを理解したとき。その、憎たらしい天狗面の下で
(お前はいったい、どんな表情をしているんだろうなぁ、鱗滝?)
「――戯け」
バチィ、と。
青白い燐光が、鬼の目を焼いた。
「……あぁ?」
まばたき一度、鬼が視界を取り戻す。もとより幻像の輝きだ、長く目を焼くような代物でもなかった。そんなことより、鬼の脳裏を占めるものがあった。
伸ばした腕にいつもの感触がない。あの、人間の柔らかな肉と適度な手ごたえを与える頭骨をぐしゃりと砕いた、甘美な感覚が。
「……だれだ」
ぐらぐらと。腹の内から沸き起こる。頭蓋のうちから吹きこぼれる……怒り。怒り、怒り、怒り怒り怒り怒怒怒怒怒――――
「だぁれだぁあああぁぁ! 邪魔をしやがったのはぁ!!」
絶叫が、深夜の山に轟いた。空気を震わす大音声は、人が傍に居れば確実に耳をつぶしただろう。いや、それどころかその怒気と併せて、気の弱い人間であれば心の臓すら止めてしまうに違いない。人を超えた異形の逆上は、ただそれだけで人を殺しうるのだというありがたくもない事実を証明した瞬間だった。
「出てこい! 出てこおぉい!! くそが、くそが、くそくそくそおぉァァああ!!」
激情の赴くままに、奇声を上げながらやたらめったら腕をぶちかまし、地団太を踏む。そのたびに大人が一抱えするほどもある木々が弾け、へし折られる。地面には深々と足跡が刻まれ、鬼がいる場所だけが次第にくぼんでいく。
ぐりんぐりんと、眼を動かすことも忘れない。肉体と同じように肥大しきった眼球は、それ自体が意思を持つかのようにして左右各々が別々に動き回り、狐面の少年との間に割って入ったであろう不埒ものを探しておぞましく蠢いていた。
そして
「何をしているのだ、お前は」
べきべきと、周囲の木々が引き裂かれる中。偶然にも被害を免れていた一画に、彼らはいた。視覚と同時、聴覚でもその存在を捉える。木が倒れ、地が穿たれる轟音の中でも、鬼の研ぎ澄まされた聴覚には
「見つけた」
「見いィぃつぅけえぇぇたぁぁァ!!」
山葵色の津波が押し寄せた。腕、腕、腕。大蛇の如くのたうつ無数の巨腕が、そこめがけて殺到する。握りつぶすでも、打ち砕くでもなく、ただただその圧倒的物量で押しつぶすといわんばかりの勢いで。
「喧しいことだ」
ズバァン、と。
耳を聾する轟音が一度響く。同時、バチリと雷光めいた幻が閃いた。
ただそれだけで、その場にいた少年たちは姿を消していた。
「――そら、しゃんとしろ。前を向け。お前はまだ、生きている」
再び聞こえた声に、ぎろりと、鬼の目が回る。その時には、乱入してきたと思しき少年が、狐面の彼をゆっくりと地面へ下ろすところだった。先ほどまでいた場所からは、かなり離れた場所だった。
伸ばしきった無数の腕を引き戻し、肉の海にうずめながら鬼はゆっくりとそちらへ体を向けなおす。時間の経過で多少頭が冷えたのもあるが、さすがに二度も取り逃せば多少は警戒もせねばならないと判断したがゆえだった。
じっとりと、粘着質な視線を向ける鬼。無論、頭の中ではこの乱入してきた小僧をどうやって殺してやろうかとそればかりを考えている。できうる限り痛めつけ、泣きわめかせ、最後は惨たらしく四肢を引き裂いてやろう――そんな風に様子を窺っている鬼を一瞥し、新たに表れた少年は狐面の少年へと視線を戻した。
対して、ぼうとした様子でその少年を見上げていた狐面の彼は、きらりと光るものに目を留めた。
それは、一房の髪の毛。黒髪の中から顔をのぞかせたそれが月光を受けて照っているのだった。
まるで、黒雲から降り来る一筋の雷のようだな、なんて場違いな思考に逃げていた頭に低く冷めた声が染み入っていく。
「繰り返す。お前は、まだ、生きている」
はっとして、彼は周囲を見渡した。荒れ切った様子の森、眼前の見知らぬ顔。呆けていた間の記憶が怒涛の勢いで流れ、無様をさらした事実に頬へ熱が走った。
「あ、ああ……ああ。うん。そのようだ、な。すまない、助かっ――」
「戯け、まだ鬼は生きているぞ。礼ならすべて終わらせた後、奴を殺してからにしろ」
「うっ、そうだな。君の言う通りだ」
厳しい言葉に、狐面の彼は僅かにたじろいだ。とはいえ相手の言う通りだと気を取り直し、思わず続けそうになった感謝の言葉を飲み下して、
「はは、ははは。誰が、誰を殺すって? お前はさっきの光景を見ていないようだなぁ?」
「……っ」
鬼の言葉に、目を伏せた。
その視線の先には、刀身を半ばから失った一振りの刀があった。
「見ていたとも。貴様の首を斬ろうとして、見事なまでにぽっきりとへし折れたな」
「ひひひっ、ならわかるよなぁ。そいつに俺の首は斬れない。いいや、その小僧に斬れないということは、だ。この山に入ってくるガキどもの誰にも、俺の首は斬れやしないってことだ!」
「ほう。随分と、こいつをかっているのだな」
「……ああ。胸糞悪いが、そいつは俺が相手にしたガキどもの中で一番強かったからな。この山に叩き込まれて三十九年、その間で一番だ。嘘じゃあないとも。でも! そんな奴でも俺の首を斬れなかった! くひひっ、ひははははっ! もう誰にも、俺の首は斬れやしない!! ひゃはははははは!」
箍が外れたように笑い続ける鬼に、狐面の少年は唇を噛んで耐えることしかできない。鬼の告げる言葉はすべてが事実――少なくとも、狐面の彼にとっては事実であったのだから、反論が一つもできなかった。
それを横目に、一条の銀髪をもつ彼はひどく冷静な様子で、冷や水を浴びせるように鬼へ言葉を投げた。
「ふん。あんな鈍をへし折った程度で、随分といい気になっているな」
「……なんだと」
途端、鬼の機嫌が急降下した。数瞬前まで激昂していたのだから、当然ながらその沸点は限りなく低い。低く短いその声は殺意を通り越して憎悪をすら孕んでいるのがよくわかる。あたりに満ちる殺気はいや増し、そのあまりの濃密さに空気が粘度を増したようにすら感じさせた。
そして、怒ったのは鬼だけではなかった。
狐面の彼も、己の得物を鈍と断じられてそんな場合ではないと思いつつも怒りに駆られて言葉を吐いた。
「待て! 鱗滝さんが、元柱が貸与してくださった日輪刀だぞ! 鈍なわけがあるか! 折れてしまったのは、偏に俺が未熟だったからだ!」
その言葉に銀髪の彼は驚いたような表情を浮かべ、次いでため息とともに小さく肩を落とす。かなり呆れている様子であった。
「その話は後だ。俺の刀を貸してやる。お前は水の呼吸の使い手だから、多少使い勝手が悪いかもしれんが、アレの首を落とす程度はできるだろう」
「いや、しかしっ」
「ふざけるな小僧! 刀を変えた程度で俺の首が斬れるようになるはずがあるか! もういい、二人まとめてなぶり殺してやるっ!!」
「……ほう」
「――二度も俺を見失った貴様が、嬲り殺す、だと?」
ズドォン! と。
唐突に打ち鳴らされたそれは、さながら大砲か何かのような音だった。
あるいは、
「これ、は――」
眼前に雷が落ちれば。
これほどの轟音と、閃光を受けるのやもしれない。
「な、なん――」
月光とはまた違う、青白い閃光。
避ける素振すら取れず、鬼の視界はそれに飲み込まれ――
「参ノ型――聚蚊成雷」
「ぎ、ぎぃやぁぁあぁっ?!」
「……っ」
――ぱっ、と、血色のしぶきが派手に吹き上がった。遅れて、鬼の悲鳴。
瞬き一瞬、鬼の全身いたるところに切創が刻まれ、主だった腕は軒並み切り落とされていた。そして、その時すでに銀髪の彼はもと居た場所へ戻り、静かに日輪刀を鞘に納めているところだった。
狐面の彼は、その光景に目を奪われた。幻の雷光を纏い、地を蹴り砕きながら刀を振るうその姿。一年余をひたすら鍛錬に費やした身であってもなお残像でしかとらえられなかったその様は、まさしく雷神の如く。
韋駄天の歩法、雷光閃くが如き剣術。
ひとたび動けば雷鳴さながらの轟音を残し、まばたき一つの間に鬼を斬る。
全集中の呼吸、五大流派が一つ。
「……これが、雷の呼吸か」
「止めはまかせるぞ」
「えっ」
ほうと感嘆のため息を漏らすと同時、銀髪の彼は思いもよらぬ言葉を投げた。同時、ずいと押し付けられたのは彼の日輪刀だ。
胸元に押し付けられたそれに鼻白みながら、狐面の彼は問いかけようとする。それを遮るようにして、銀髪の彼は言った。
「あれは、お前が斬るべき敵だ。違うか」
「……聞いて、いたのか」
「まあな」
――思い返すのは戦闘前の事。自慢げに語られた、鬼の戦績。
十一人。
鬼に食われた、鱗滝の弟子たち。つまり己の、兄弟子、姉弟子。見当違いな怨恨の餌食となった先達。
つまり彼は、こういっているのだ。
『仇を討て』と。
「だが、俺には――」
「安心しろ。この刀なら斬れる。絶対に。…………男なら、為すべき時に、為さねばならぬことを、為せ。だから――」
「――だから。お前が、斬るんだ」
銀髪の彼の、まっすぐな視線。事を成しえるのだと本気で信じている瞳。
それを受けて、狐面の彼は
「――――ああ。分かった」
日輪刀を受け取り、静かに引き抜く。月光を受けて、樹形雷紋がきらりと輝いた。
ゆっくりと息を整え、全集中の呼吸に切り替える。そして、心を落ち着ける。それまで抱いていた不安も、恐怖も、怒りすらも鎮めた、凪いだ湖面の如き心象に努める。
みるみるうちに呼吸の精度は上がり、全身に力がみなぎっていく。
「う、ぐ……ぎぃ……は! はは! ま、まさか、貴様もこれほどの腕だったとはな。だがな、馬鹿が! 貴様ならともかく、そっちの狐小僧じゃあ俺の首は斬れない! どんな御託を並べようと、斬れないもんは、斬れないのさ!」
傷口を再生させた鬼が喚いた。全身をのたうたせ、憎悪と怒りを存分に込めた叫びと共にありったけの腕を垂れ流す。
それを、狐面の彼は
「まずはお前だ狐小僧! もう一度刀をへし折って、腹をぶち抜いて、頭を握りつぶしてやる!! そっちの小僧もだ!! さっきの一撃で俺の首を斬らなかったことをあの世で後悔するがいい!!」
「……男なら」
「男なら!!」
真正面から、迎え撃った。
くるりと、流麗に一回転。併せて、かつてないほどに高められた剣気が、咆哮する竜の幻像を結んだ。とぐろを巻いたが如きその姿が、狐面の少年の動きに合わせて眼前に迫りくる山葵色の肉の海へとかぶりつくように迫っていく。
「全集中!! 水の呼吸・拾ノ型!!」
「生生流転!!」
「……へ?」
竜が、豪快に肉の海を食い破る。
驚くなかれ、ただその一太刀で肉の波濤のおおよそが両断せしめられた。あまりの光景に、斬られた鬼の方ですら呆けた様子で、痛みに悲鳴を上げることも忘れている。おおおお、と鬨の声を上げた狐面の少年は、そんな鬼の様子を一顧だにすることなく、くるりくるりと身を回転させながら押し寄せ続ける腕をバッサリと叩き斬り、鬼本体へと加速しながら迫った。
「なっ……あぁっ?! あ、有り得ん!」
馬鹿な馬鹿なと呻く、鬼。その様子は先刻追い詰められた時の姿と相違なく。迫りくる死の具現を遠ざけんと必死で肉を再生させ、これでもかと腕をぶちかます。大丈夫だ、と。俺の首は堅いんだ、と。必死に脳内で言い聞かせながら、薄まることのない悪寒に背筋を震わせながら迫りくる敵を粉砕せんと全霊を尽くす。
「く、来るなっ、来るなぁァァ!!」
もはや恨みだなんだは鬼の脳裏から消し飛んでいた。如何にして生き残るか。如何にすればこの恐怖の具現たる男を殺せるか。ただそれだけを考える。
考えて、考えて、考えて、考えて考えて考えて考えて――
「終わりだッ!!」
「ひ、がっ!?」
――龍の咢が、幾重にも腕を巻き付けた鬼を呑み込み。
鬼の太い太い首が、星輝く夜空に弧を描いて飛んだ。
錆兎くんや真菰ちゃん、カナエさん、煉獄さんなどなど色々と亡くなってしまう方々が多すぎて、俺はつらい、耐えられない!ったので衝動的に書き上げた作品です。
以下反転で簡易あらすじ、設定。
主人公は雷の呼吸の使い手。例によってお辛い過去もち。具体的には自分の失態(というほどでもないが)で、故郷の村が壊滅。壊滅させたのは鬼にされた幼馴染。鬼は逃走し、その鬼を斬るために鬼殺の剣士を志す。義勇や錆兎たちと同じ年の最終選抜に参加し、なんやかやあった後、最終的には色々原作キャラを助けつつ某上弦の弐あたりと相討ちか殺される予定でしたがそこまで書き連ねる気力が足りませんでした。