香織は狭く生暖かい暗闇の中にいた。何者かに殴られた後に意識は暗転し、気付けば四方八方から心音と共に身体を圧迫する肉の箱に閉じ込められていた。香織はその中で胎児のようにうずくまりながら、自分の置かれた状況に恐怖していた。
(暗いよ……怖いよ……助けて、コンダクター)
助けを求めようとしても、「身体が変」という曖昧な言葉しか口から出す事が出来ない。そのような恐怖から逃れる為か、自分をエーリエルに置き換えてみたりした。
エーリエルとは、シェイクスピアの戯曲『テンペスト』に登場する風の精霊だ。エーリエルは罪人として島流しにされた魔女シコラクスに召使にされていた。しかし、穢らわしい仕事が出来ず、魔女の怒りを買い、裂かれた松の木に閉じ込められてしまった。裂け目に挟まれ十二年、島にやってきたプロスペローに助け出されるまで苦しみ続けた。
肉の牢と樹木の裂け目では苦痛の度合いは前者の方がマシかも知れぬ、しかし香織の恐怖と不安はエーリエルに勝るとも劣らない物だった。そんな中、自分を救うプロスペローを待ち望む香織に一筋の光が照らす。
香織は居ても立っても居られず、その光に手を伸ばした。ようやく出られる、コンダクターに会う事ができる、その一心で外に出た香織が見た物は、旧い自分の身体を抱きかかえるハジメと、血塗れの自分自身。
不安から早まる動悸は心音か胎動か。人間や昇格者では起こり得ない現象、有り得べからざる未知に、香織は恐怖し、悲鳴を上げた。そしてそのまま、意識を失った。
「ここは……」
香織の眼に映ったのは木と鉄で作られた部屋。暗闇を照らすのは常夜灯のようなランプだった。そして、その部屋の中で、厳密には香織が眠っていたベッドの隣にある椅子に座るハジメの姿を捕らえた。
「目が覚めたみたいですね」
「……っ!」
眠っているかのように目を閉じていたハジメの口から言葉が発せられ、驚く香織。眠っているならその間に逃げてしまおうと考えた香織だが、その案は水泡に帰した。
「ここは機械生命体の村です。村長のパスカルさんは快く受け入れて下さいました。あ、あの後シアさんは回収しましたよ、ユエが」
「そう……なんだ。それは良かった。じゃあ、私はもう行くね」
「行くって何処へ?」
香織は言葉に詰まった。こんな異常を抱えた自分が何処へ行くというのか。クラスメイトの元へ戻るか、いや、光輝は現実を見ないし、クラスメイト達からは迫害されるだろう。自分が一部の女子からよく思われていない事は自覚している。なにより、親友である雫にこれ以上のストレスを与えたくなかった。雫があの光景を見たら、今度こそ廃人になってしまうかもしれない。
でも、そう言うしかなかった。ハジメの元から離れるには。
「今、深夜ですよ。借金も無いのに夜逃げとは、笑えない冗談だ」
香織は自分の迂闊さを呪った。ショックで気を失っている暇など無かった。脇目も振らずに走り去ってしまうべきだった。
「そもそも逃がす気はありませんよ、香織」
香織は名を呼ばれて、怯えたように肩を震わせる。その場から動くことが出来ずに、ベッドに乗り上げ自分に近づいてくるハジメを離そうとする。
「いや……いやっ……来ないで……来ないで……っ」
もし、ハジメに自分が異形だと拒絶されたら二度と立ち直れない。ハジメを『コンダクター』と呼び、依存とも呼べる愛を向ける香織は、彼に悍ましい再生を見られたことすら苦痛だ。その上ハッキリ拒絶されてしまえば、死ぬに死ねないこの身体でどうやって生きろというのか。
何も知らない第三者からすれば利己的と評するかもしれないが、ティーンエイジャーの少女からすればごく普通の恐怖といえるだろう。ましてやあの後である。
だがハジメは近づくのを止めず、香織の目と鼻の先まで辿り着いた。どんな罵詈雑言を吐かれるかと身構える香織。手は掛けられていた毛布を握りしめ、目は強く閉じられている。
「……!」
しかし、ハジメの行動は香織の予想していた物とは違った。唇には柔らかい感触、目を開けばハジメの顔が目の前にあった。ハジメは香織にキスをしていた。
香織は驚き、咄嗟に離れようとするが、ハジメに抱きしめられているために身動きが取れない。時間にすれば1分にも満たない、永遠にも似た一瞬の時間が終わると、ハジメは香織を抱きしめながら耳元で囁く。
「香織と離れるなんて、それこそ嫌ですよ。例え貴女が発する音波でバラバラに引き裂かれたって、離してなるものですか」
その言葉に香織の堰き止めていた感情が溢れる。
「私だって……! 私だって、大好きだよ! コンダクターと、ハジメくんと離れたくなんて無い! でも、あんな……悍ましい姿を見せて、嫌われたらって……拒絶されたらって思うと、怖くて……!」
香織は涙を流しながら己の不安を吐き出す。人は未知の物を恐れる。自分ですら理解できずに恐怖する物を、他人が恐れないはずがない。少なくとも香織はそう思っていた。しかし、ハジメは指を当てて香織の言葉を止める。
「それは過去の貴女を冒涜する言葉だ。パニシングに侵された僕に、生き残るために人を殺めた僕に、愛を告白した貴女を貶す言葉だ」
「……!」
「貴女が〝セイレーン〟となった時も、花から貴女が出てきたときも、貴女への愛情が薄れた事は無かった。僕の心は、何処までも狂気的な貴女への思慕で溢れている。貴女はどうだ? 僕が機械と化し、人間から遠ざかる中、何を思っていたのですか?」
香織の答えは決まっている。彼女にとって、その問いへの解など一つしかない。
「……聞かないでよ。ずっと愛してる。君が怪物になったって愛してる。君がこの世の全ての人から忘れられたって、私は覚えてる……!」
香織はハジメのためならば、塩辛い海に沈み水底の泥の上を這いまわる事も、身を切るような北風を乗り回すことも、霜で凍てついた大地の中に潜り込むことも厭わない。松の木の裂け目から救われたエーリエルは、プロスペローに尽くす。身体も心も、全てコンダクターに捧げる。それが香織の答えだ。
一頻りお互いの愛と哀を貪った後、香織はハジメに寄りかかった。そして素直な恐怖を口にする。
「私、一体何になっちゃったんだろう。人間じゃないし、普通の昇格者でもない。本当に、怪物になっちゃったのかな」
腕の中で震える香織に、ハジメは仮説を話す。
「詳しくは分かりませんが、香織は『花』の分体がとり憑いている特殊な状態です。身体が著しく損傷した場合の防衛機能ではないかというのが、ターミナル達の仮説ですね」
香織が出てきた旧い身体の方は、香織が気絶している間に赤い粒子となって新しい身体に溶け込むように消えてしまった。『花』については依然として謎が多い。今回の事も、今まで知らなかった未知の性質が顕になっただけなのかもしれない。
「そうなんだ……」
「でも、貴女はやはり香織ですよ。今までの事も覚えているようですし、何より僕の魂がそう言っている。全くもって非論理的ですがね」
「ふふ、数学者さんにしては乱暴だね」
「たまにはいいでしょう。この命題は自明だ」
二人は抱き合ったままベッドに横たわる。起き上がっている時よりも、二人の距離は近づいているように感じた。
「どうしても不安なら、人間や昇格者以外の物に例えてみましょうか。例えば、夏の日などに」
「ふーん?」
「貴女は素敵で穏やかだ。荒々しい風は月の可憐な蕾を揺らし、夏の仮初の命は短すぎる。太陽は時に暑く照り付け、黄金の顔が暗く翳る時がある。美しい物は皆いつかは衰える。偶然か、自然の成り行きによって刈り取られる。だが、貴女の永遠の夏は色褪せない。貴女に宿る美しさは消える事は無い。死神に死の影を彷徨っているとは言わせない。永遠の詩にうたわれて時と合体するならば、人が息をし、目が見える限り、この詩が生き、貴女に命を与え続ける限り」
ハジメの言葉に香織は微笑む。
「シェイクスピアのソネットだね」
「ええ、貴女が僕に勧めた詩の一つだ。今思えば含みの多い内容ですね。『美しい物は皆いつかは衰える』とか、死神のくだりとか……よく理解しているなあ、僕を」
「君って案外ロマンチストなんだね。悪いけど、君や周りが思っているほど、私は君の事を理解してないよ。深く理解できればいいとは思っているけど」
ハジメは詩的な演奏者である恋人の現実的な見解に苦笑する。『夢見がち』などと評される事もある香織だが、中々にリアリストな面も持ち合わせているのだ。
「でも、貴女については夏の方が鮮明に思い出すのは本当です。二人で夏祭りに行った時、浴衣姿ではしゃぐ貴女に、僕は心臓発作を起こしそうだった。小型爆弾でも仕込まれてるんじゃないかというくらいに、爆発寸前だった。その夜の花火大会で、打ち上げ花火を背にして笑う貴女は、紛れもなく爆弾魔でした」
「嬉しい評価だね。あの頃の私は、君の複雑怪奇な心を爆破したいと思っていたもの。本当はキスだってしたかったけれど、病に侵された君はそれを拒んだ。私の心はショートして、ずっと火花を散らしていたのに。だから私は、君にテロを仕掛ける事にしたの。やっぱり恋と芸術は爆発に限るね」
二人はベッドで語り合う。ただ情事で愛し合うよりも、満たされている気がしていた。
「……脱線し過ぎましたね。最初はなんの話だったか」
「いいじゃん。この銀河鉄道は私達二人しかいない。第三宇宙速度で、ベテルギウスまで行こうよ。君が憧れていた夜鷹にも会えるかもしれないよ」
指揮者と主席演奏者、爆弾魔とテロリストの二人の語らいの当初にあった恐怖は、お互いの心から消えていた。
私の作品の恋愛って基本難解なんだよな。あんまり簡単に片付けたくないという私の心理が働いているのかもしれない。
最近作者がシェイクスピアの『テンペスト』を買ったのもあって、香織の言う事が更に難解になるよ、やったね(頭痛)
とりあえずこの二人は自分達が思ってる以上に頭のネジが外れている事に早く気付いた方がいい。
オルクスの隠れ家の作りかけのメイドロボの目が瞬く。まるで何かを伝えようとするかのように
-
修理して連れていく
-
見なかったことにして放置する