長い眠りから覚めたら病室だった。優花は自分が横たわるベッドと周囲の医療器具を見てそう思った。地球の病室とは違う雰囲気の場所と、妙に現代的な点滴装置などの医療器具がちぐはぐな印象を与える。
意識が徐々に覚醒し、人の気配を感じた優花が横を見ると、もはや想いを隠し切れなくなった想い人が自分と同じベッドに横たわっていた。
「南雲……?」
「すみませんね……できれば僕自身が歓迎の準備をしたかったのですが、生憎と起き上がれない身でして」
優花は思い出した。意識を失う直前に見たハジメの姿を。自分のナイフで滅多刺しにされ、戦輪の下で倒れていた想い人の姿を。そして、ハジメを殺しかけてもなお、離れたくないと思ってしまう自分の心にも嫌になっていた。
「ごめんなさい……私は貴方を殺しかけた……」
違う。ハジメを殺したいほど憎んでいるのは本当だ。優花の胸に緋文字『A』を刻みつけた男を、許せはしない。だが、それは優花の抑えきれない愛情故だ。殺意と愛情の間で、触れられない傷に愛を見出して。ぐちゃぐちゃにしたくなる。そう思ったら優花の目から涙が出た。生きる事に貫かれて、その心地よさに哭いてしまう。
そんな優花の様子を見たハジメは己の罪を懺悔する。
「……あれは僕が受けるべき罰です。僕の血迷った行動が、貴女を堕天使へと変えてしまった。貴女を壊したのは僕だ」
優花の目からは涙が止まらなかった。ああ、どこまでも酷い人だと、機械になってしまった身体で泣き続ける。
「謝らないでよ……アンタの事、嫌いになれないじゃない……こんなところで優しくされたら、ますます好きになっちゃうじゃない……!」
もう抑える事などできない。赤熱する『A』の緋文字に身を任せ、優花は泣きながら愛を叫び続けた。
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優花に此処に来た経緯を聞いたところ、大まかに言えば、パニシング症候群に罹って天使となり、ハジメ達のいる場所に飛んできたという事だった。
「私、アンタの苦しみを欠片も分かって無かったわ。この病気って拷問みたいね……血管が沸騰するような熱に、鉄分が赤熱するかのような痛み、気付けば爪が剥がれ落ちる……アンタはこんな病気にずっと耐え続けてきた」
「………」
優花は何も答えないハジメを横目で一瞥し、笑みを零して話を続ける。
「焦熱地獄のような苦しみの中、私は身体が羽のように軽くなった。嘗てない痛みと鳥のように飛び立てる軽さを両方経験する。こんなこと、この先も有るかどうか。アンタも経験したかどうかも分からない。羨ましいかしら?」
「いいえ全く」
「芸術家とは思えない言葉ね。まあいいわ。それで私は飛び立った。理由なんて聞かないでよ? 人類が何故二足歩行なのかとか、それと同じくらいの難題だわ。豹がキリマンジャロの山頂で死んでた理由なんて誰も説明できないもの」
おそらくヘミングウェイの短編である『キリマンジャロの雪』が元だろうと当たりを付けるハジメ。アフリカで狩猟をしていた小説家のハリー・ストリートが脚の壊疽で瀕死の状態にある中で、人生を後悔しながら死にゆく物語。
たしかハジメはこの小説家に謎の対抗意識を抱き、何かを残そうと躍起になった。そしてその過程で一人の少女を傷つけた。当てつけるかのように語られた文学作品に、些かの居心地の悪さを感じるハジメ。
一方、優花は大して気にした風でもなく話を続ける。
「それで飛び立った私の前に、告死天使が現れた」
「サリエルか、それともイズライールですか?」
「残念、どっちでもないわ。無表情のくせに勿体ぶった口調で〝神の使徒〟って名乗ってた。皮肉な事だけど、地球の神や天使に似てるんじゃないかしら。嘘だらけの聖典を作っては尤もらしく説教を垂れる〝神〟のようだわ」
ハジメは思わず噴き出した。優花の感想はハジメがオスカー・オルクスの話を聞いた時に思った物と全く同じだったからだ。ターミナルから聞いた、エヒトが作ったとされる使徒。無数にいるらしいそれらの内の一体と優花は遭遇したようである。
被造物は造物主を愛するように創られるというが、神は果たして……神の使徒とは存外と憐れな存在なのかも知れない。地球人は物を考える脳髄によって神を否定した。昇格者の思考に神が耐えられるかどうか、ハジメからすれば見物である。
「そいつをどうしたのか……私はあまり覚えてない。『遊麟』って技で羽を弾いて、『貪狼』で喰ったエネルギーを放ったのは覚えてる。後はアンタが作ってくれた戦輪……イエスタデイで削り続けて、返り血に塗れて笑ってた」
『遊麟』は触れた物を斥力で弾き飛ばす技。『貪狼』はハジメ達を苦しめた、敵からエネルギーを吸収する技であると説明を受けた。そして、優花の自覚する範囲では、猟奇殺人鬼のように血に染まって笑っていたらしい。その心情は窺い知れぬ。暴発した破壊衝動か、勝利の美酒の幻覚か、はたまた生き残った安心か。
「そして、衝動の導かれるままに、私はアンタの所に来た。心は右に、理性は左に、気付いたらピアノを弾いている夢を見て、傷ついたアンタと一緒の部屋に寝ていた」
ハジメは過去の過ちがここまで尾を引くとは思っていなかった。理性化された軌跡が、合理化された罪が、癌となって優花を蝕んでいた。彼女は二度殺されたようなものだ。一度目はハジメに魂を、二度目はパニシングに人間の身体を殺された。
闘いの損傷で動かない身体を投げやりに寝かせながら、ハジメは出来る限り露見せぬように溜息を吐く。優花の現状ではなく、自分自身の軽薄さに対して。
そんなハジメの様子を見た優花は挑発するように話し出した。
「アンタの考えている事、当ててあげましょうか? どうせ、あの時自分が確りと私を拒絶していればここまで私が壊れる事は無かっただろう、とか考えてたんでしょ」
優花の視界の端で、ハジメの目が驚愕により見開かれたのが見えた。そのまま優花を見るハジメに、優花は多少の優越感を抱いていた。何せ、幻夢の権化のような
「悪いけど、私はアンタが思ってるほど単純じゃないの。確かにあのままあそこで確りフラれてたら、未練を残さずに私は離れられる……それが模範解答なのでしょうね。でも、私は同時に唯一の理解者を失う事になるわ」
「……現状、理解できていませんけども」
「ええ、私とアンタは所詮他人。家族でもない奴に私の全てが理解できるなんて考えてない。でも、私の安らぎはアンタと過ごしている時で、最も望んでいる答えを導き出したのはアンタよ」
ハジメの過失はそんな刹那的な行動ではないと優花は語る。両者ともに病床にあるにも関わらず、ハジメは優花に威容を見出していた。
「あのコーヒーを飲みながら、アンタが片手間で質問に答えていた日から、私の胸には緋色に赤熱する『A』の文字が押し付けられていた。でも、タールの海で座礁した私にとっては、それが生の実感だった」
優花の声が澱む。それこそ、タールが喉に絡んだように、煙草に含まれる発がん性の粒子状の成分でも憑りついたかのような声色だ。
「これでも私、オーバードーズしそうなくらいには悩んでたのよ? 睡眠薬なんて薬局をハシゴすれば手に入るし、法にも触れない。なら何故その方法を取らなかったのか。一つ目は単純に怖かったから。下手すれば死んじゃうし、決定的に私が壊れてしまいそうだったから。二つ目は……もう言うまでもないわね。アンタという存在に出会ってしまったから。私が違う形で壊されたからよ」
ハジメはあまりの理不尽に声も出ない。優花の言葉が真実だとすれば、絵の納品にウィステリアを訪れたあの日から、ハジメの退路は断たれていたという事なのだから。
「理不尽……とでも言いたそうね。ええ、私も自覚してるわ。とても理不尽で、不条理な事を言っているって。でも、もう止まれない」
ハジメは身体に力が入らない事に気が付いた。恐怖などという曖昧なものでは無い、もっと実際的な感覚。まるで、動かすためのエネルギーを吸い取られたかのような。
「ついでに、私はアンタにもう一つの理不尽を押し付けるわ。もう気付いているかしら、アンタの身体が不自然に不自由な事に」
優花はそう言うとベッドから起き上がった。未だ起き上がれないはずだと思っていたハジメはその事に驚く。
「さっき話したでしょ? 『貪狼』って技。アンタからエネルギーを吸い取った……いえ、奪い喰らったと表現するのが正しいかしら」
幽鬼のような動きで近づく優花に、ハジメはセイレーン戦以来の、絶望に塗れた引き攣った表情を浮かべる。それを見た優花は、むしろ面白い物を見たと言わんばかりの表情を浮かべる。そして、そのままハジメの首を掴んだ。
「―――っ!」
「アンタってそんな顔するのね。今日は良い日だわ。私を誑かした悪魔を出し抜いてやった。嘘だらけの聖典も、最終定理の証明も要らない。手も触れずに私の春を散らしたアンタに今度は私が復讐する番よ」
ハジメは声を出そうとするが、首を絞める力が強すぎて不可能だ。炎を踏み、血に塗れた道筋で涙を流す互いを赦す声を止める事が出来ない。優花は首を絞めたくらいでは死なない事が分かっているのか、愛しいハジメの安否を心配する様子は無い。
優花がハジメにまたがる。官能的な気配すら感じさせるその動きを、肋骨の上に天使の槍の切っ先を突き付けられた気分で見上げるハジメ。今となっては意味も無いが、ハジメは過去の自分を再度呪う。入院生活故に名も知らなかったレストランに絵を納品したのが運の尽きだった。
「助けを呼ぼうとしても、抵抗しても無駄よ。もう碌に力も入らないでしょうし、首を絞めている以上声も出せない……ここからは、大人の時間ね」
蕩けるような声でそう言った優花は、人間だったころの癖で酸素を求めるように開かれたハジメの口に、己の唇を重ねて舌を入れた。
声が出せない中での、いやに冷たい舌が口内を這い回る感触は、紛れもなく死の味だった。
なんか恋愛もののスリラー作品みたいになった。前半と後半でガラリと性格が変わった優花ですが、ハジメも理解していない一面に驚いていました。病床で襲われるとは思っていなかったのでしょうね。そして回想で倒されてしまう神の使徒。
備忘録
貪狼:任意の対象からエネルギーや魔力を吸い取る技。それが何の力であっても喰らってしまう悪食。
オルクスの隠れ家の作りかけのメイドロボの目が瞬く。まるで何かを伝えようとするかのように
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修理して連れていく
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見なかったことにして放置する