優花は首筋に殺意を感じていた。一筋の冷たい感触を与える鉄とも鉛でもない細い金属の刃。それが音も気配もなく突き付けられていた。おかしい、この部屋には自分とハジメ以外にはいない事は確認済みだ。まさかハジメが? いや、彼の肢体は優花の前に力なく投げ出されている。では誰が……
「悪い事をするなら、扉の鍵は二度と開かないようにしておかなくちゃ」
素面で恐ろしい事を話す声は優花にとってあまりにも聞き覚えがあり過ぎた。恋敵であり親友、そして、目の前の男の最愛の人。
「香織……?」
「貴女の境遇には同情して余りあるけど、今はこれ以上は見過ごせないかな」
優花は香織の天職を思い出していた。『演奏者』。能力は音、もしくは振動への干渉。足音もドアを開く音もさせず、視界がハジメに限定された優花に近づくなど香織にとっては朝飯前だろう。優花は『音がしない』という事の脅威を今更ながらに認識した。視認でもしない限りその存在を知覚する事が出来ない。まるで幽霊のようだ。
「ありがとう。でも、もう少し早く助けてほしかったですね……」
「ごめんね。でも今様子を見に来たんだもの」
ハジメが力の入らない状態で言葉を発すると、香織は優花に突き付けた細剣を少し上にずらしてそれに答える。無音の殺意が優花を襲う。細剣の刃が首を噛む蛇となり、香織という名の指揮者が両手を振れば痛みと出血の交響曲を奏でるだろう。
「とりあえず、優花ちゃんと私でお話ししようか。きっとコンダクターがいない方が落ち着いて話せるだろうし」
優花は大人しく従った。元より反抗する気も無かったが。
優花と香織はティーセットが置かれたテーブルを挟んで座っていた。傍らではミュオソティスが本物のメイドのようにカップに紅茶を注ぎ、それが終わると少し離れた所に控えていた。
「とりあえず事情聴取といこうかな? 優花ちゃん。君は私のコンダクターに何をしようとしていたの?」
コンダクターという人物がハジメを指す事は優花にも分かった。そして、先程は背後からの奇襲であったため分からなかったが、香織の右眼に花が咲いているのが優花から見える。
「貴女が見た通りよ。彼の首を絞めながら唇を重ねていた。狂人と言うなら言えばいいわ。でも、私はハジメに対する愛情と殺意を抑えられなかった」
普通に考えて、優花の言動は支離滅裂であると言っていい。明確に愛していながら同時に殺意を抱くというのは言葉として矛盾しており、常人の感覚では理解しがたい。しかし、香織は特に口を挟むことなく紅茶を飲んでいる。
「笑っちゃうわよね。私は彼を愛する身で、彼を殺そうとした……いまや立派な危険因子よ。殺すなら殺せばいい」
優花の自虐とも慟哭とも言える独白。香織はハジメと優花が眠る病室を『盗聴』して得た情報から話すべきことを吟味する。やがてカップを置いて優花を見据えた。
「まず、必要以上に罪悪感に苛まれる必要は無いよ。私もコンダクターの事は殺しかけてるから」
香織はベヒモス戦後、セイレーンと化した後の出来事を話した。優花にとって衝撃的であり、そして希望の見える話であった。今のハジメの仲間となっている者達は殆どが最低一度は彼と殺し合っている。それを彼は受け入れていた。
尋常であるならば敵同士となっていてもおかしくはない出来事の数々。己の生命に無頓着なハジメでなければとうに決壊しているだろう。仮に敵同士となっても(内心はどうあれ)必要な事をするだろうが。
「結構波乱万丈な人生を歩んでいるわね……」
「そう。だから、貴重な戦力は逃したくないし、それに……」
「それに?」
「個人的にも、優花ちゃんは殺したくないよ」
「……えらく感情的に考えるのね。南雲を保護したいなら愚策よ、それは」
「貴女も私も、この件に関しては徹頭徹尾感情で動いてる。だったら感情的に考えた方が早いと判断したまで。合理的な判断だよ」
合理的に判断した結果が感情による決断とは微妙に矛盾している気がするが、それは考えるだけ無駄だろう。絞殺未遂の理由を考察することも同義だ。
「……最後通告よ、香織。私は南雲ハジメを愛している。そして同時に
「殺意というより食欲じゃないかな。それもかなり暴力的な。でも、所々に理性が垣間見えるね。コンダクターには煽情的に映るんじゃないかな」
優花は香織から聞いたハジメの自殺未遂を思い出した。本人も死ぬつもりは無かったそうだが、その後に聞いた話ではハジメは死に惹かれているという。恋敵が香織だけでなく
「恋敵と言えば、優花ちゃんはユエの事にはあまり反応しなかったね」
「正確にはどう反応して良いやら分からないというところね。確かに恋敵ではあるけど、私も南雲を愛せるという希望を与えた存在でもあるし」
地球、それも日本の倫理観では男女が一対一で交際する事が常識である。西洋のキリスト教的宗教観と、一人の女に一人の男をあてがう事による治安維持を目的とした極めて形式的な物だったとしても、それが暗黙のルールとして適用されている。そこから逸脱すれば、まるで燃やされる前の本を隠し持っていた思想犯のように、暇を持て余した人民に弾劾される。
しかし、ここはトータスであり、ユエはその中でも王族の身分を持つ者だった。愛妾や側室というシステムによって一人の男に複数の女が愛情関係を示すというのは彼女にとっては普通の事。優花とて個人的な憤りを感じないわけではないが、異世界の異種族であるユエに地球の倫理観を押し付けるのは憚られる。
「それに、ユエと私って似てる気がするの。殺された未来が復讐に来るユエと、壊された昨日に縋る私。時を超えて彼を愛するという点において、彼女と私は共通している。……意外なのはアンタよ、香織。独占欲の強いアンタが、複数人の交際を許すなんて」
「独占欲は発動中だけどね。彼をコンダクターと呼んでいいのは私だけ。彼がコンサート・ミストレスと呼ぶのも私だけ。彼が現世に留まり続ける理由の大部分も私。『生』という業苦に彼を浸し続けるのは私だもの」
どこか恍惚とした表情で語る香織。右眼に花が咲いている影響で、どこか欠けた顔に見える彼女がその表情をするのは、歪な美と恐怖を突き付ける物だった。
優花は少しハジメに同情したくなった。数奇な運命を辿り、絵画によって財と名誉を築いた画家が、本人の気付かない所で女性に追い詰められている。文字通りのデッドエンドと隣り合わせで。
(いえ、デッドエンドは救いかしら、アイツにとっては)
単純な感情、善悪、一般的な論理では片付かぬ恋愛。混迷を極めし愛は、何処に辿り着くというのか。
「でも、アイツは私を受け入れるかしら」
「この件に関してコンダクターの反対意見や反論は拒否するよ」
「現代人のくせにポル・ポトみたいなムーブするわね、貴女……」
「だから、振り向かせて見せて。フェルディナンドを恋に落としたミランダのように。『死』を彼が意識できないくらいに」
二人の少女は悪の組織の幹部のように笑いあった。一頻り笑った後、香織は優花に一つの疑問を投げかける。
「雫ちゃんは……どう?」
「お察しの通りよ。私も原因の一端ではあるのでしょうけど、今にも壊れそうよ」
「そう……」
香織は表情を曇らせた。ハジメについて来た事に一つ後悔があるとすれば、雫を置いてきたことである。しかし、香織にクラスメイトの元へ戻る選択肢は無かった。
「雫ちゃんの事は心配だけど、それでも私は戻るわけにはいかない。私は後戻りできないもの。オルクス大迷宮でセイレーンとなった時から」
「そう言うと思ったわ。右眼の『花』、世界の真実、ハジメを含む昇格者の集団、未だ全貌の見えない敵……寧ろ戻れる理由の方が少ないじゃない。言い方は悪いけど、八重樫には良い薬なんじゃないかしら。楽園から抜け出して、歴史の中に踏み出すにはいい機会だわ」
「エーリッヒ・フロムかな? 手厳しいね……でもその通りだと私も思う。こうなる前に雫ちゃんを助けるべきだったのかも知れないけど、私だって万能じゃないんだよ」
香織は握りしめる手に力を入れた。中々割り切れる事ではないが、今は最優先すべき事がある。香織はややあって口を開いた。
「実はね――」
「僕は今まで会った人間に対して不信感を抱いていません。僕はこれまで道徳的な観念での罪を犯したことがありません。僕より優しい人はこの世界には存在しません。僕の天職は貴金属と熱を操る事に特化しています……さて、僕はいくつ嘘を吐いたでしょう」
シア、ユエ、ロックはハジメの口から発せられた言葉に驚き戸惑っている。意識が回復したと聞いて様子を見に来てみれば、自己紹介のような正誤問題を出題されたのだから。
「とりあえず最後が嘘と言うのは分かりますけど……」
「そもそもお前自体が胡散臭いが」
「……三つめが本当。他は嘘」
「……全部嘘ですよ」
ユエとシアが息を呑んだ。
「結局我が正解という事か……」
「三つ目については少々意地悪でしたね。これは僕の経験に基づく確率論ですが、優しい人は自分自身を優しいとは言いません」
「はあ……しかし、それは結局――」
「そして、今の論も嘘である事を宣言します」
「………」
「優しい人間は半ば騙すような形で仲間に引き入れたりしませんよ。それも皆、恋人のため、そして、我々『天人五衰』のためです」
「天人五衰……?」
優花は香織の口から発せられた単語に怪訝な顔をする。天人五衰とは仏教用語の一つであるが、中性ヨーロッパのような文明を呈するトータスにおいてその単語が出てくる意味が分からない。香織は優花の反応に同意しながらも説明を続ける。
「天人五衰の説明をするには、まず『代行者』の説明をしないとね。優花ちゃんは『昇格者』についてはもう知ってるよね?」
「ええ、デボルとポポルから聞いたわ。ターミナルって概念人格が創り出した昇格ネットワークに接続する事でパニシングの力を操る事ができる存在。私も該当するって事も」
正確にはパニシングに侵蝕されても十全に自我を保てる点も重要だが、大筋は合っているので話を進める。
「その昇格者の中でも、より高次の存在。それが『代行者』。通常より高い権限を持ち、資格を持つ者にパニシングの力を使用する権利を与えることも出来る」
「なんか……凄い存在ね。ごめんなさい。その程度の感想しか出てこないわ」
優花は昇格者となってから人間だったころを遥かに超える力を己の内側に感じていた。もはや全能感と言っても良いほどの途轍もない物だ。気を抜くとそれに呑まれてしまいそうなほどに。それすらも上回る存在とは、既に想像の埒外である。
「現在存在している代行者は五人。そして、その中にコンダクター……ハジメ君も選ばれた」
優花の背に悪寒が走る。弱っていたとはいえ、自分はそんな存在を殺しかけていたのか、と。香織はその様子一瞥して話を続ける。
「そして、コンダクターを含む五人の代行者を『天人五衰』と呼称している。それぞれが個々に動いているけれど、実態はこの大陸内外に勢力を伸ばす巨大組織だと思って」
なお、名前についてはハジメが話の流れで発した言葉をターミナルが気に入り、代行者五人を筆頭とする組織名に採用した。六道最高位の天界にいる天人が長寿の末に迎える死の直前に現れる五つの兆候を指す言葉だ。地獄で受ける苦悩も十六分の一に満たない程の苦悩を感じるとされる。
どんな会話の流れでそんな単語が飛び出したのか全く以て不明であるが、或る意味ハジメらしいと優花は内心で苦笑した。
「代行者……天人五衰……」
シアはハジメから聞かされた単語を反芻する。ライセン大峡谷にて助けられた時から薄々感じてはいたが、やはりとんでもない事に巻き込まれてしまったようだと嘆息する。
「僕はそれに『選別』された。昇格ネットワークを起点とする巨大組織の一隅となって動く事になるでしょう」
代行者に選ばれたとはいえ、ハジメ自身の力は話に聞いた他の代行者達には及ばない。皆国や組織の代表であり、戦闘経験もハジメ以上に積んでいる。『要請』があった場合、おそらく断るという選択肢は無い。
「天人の世の終焉を告げる……現段階の目標はエヒトの抹殺です。そのために、この樹海どころか、トータス全土を血で染める事も厭わない可能性すらあります」
「………」
「曲がりなりにも保たれた楽園のキャンバスを流血と死によって染め上げる。我々の行動はそのような惨劇を齎す可能性すらある。そして、貴方達は既に逃げられない状況下に置かれている」
香織の説明を聞いた優花は戦慄した。デッドエンドに追い込まれていたのは自分自身でもあったのだ。しかし、それでもハジメを愛してしまう。尽くせることに喜びを感じる自分がいる。どうしようもなく壊された優花は、気を抜くと蕩けた表情をしてしまいそうだった。
「だから最終確認というより、事後報告になるけど、」
「「貴方達には世界の終焉を担ってもらう」」
ハジメと香織が告げた言葉は残酷だ。規模で言えばトータス全土を巻き込んだテロ行為とも言える。巨大組織『天人五衰』。ユエ、シア、ロック、優花はその手指として動くことを半ば強制された。
だが、それに対して異議を唱える者は誰一人として存在しなかった。
おそらく全体的な組織の規模は分かったと思います。今回、シアは特に恋愛感情を抱いていませんが、ハジメの元に馳せ参じる事となります。『戦力として加える』事は契約の範疇ですから。因みにハジメが代行者になったのはシアと出会う前です。あの時既に選別は始まっていた。他の代行者はそのうち出てきますが、誰かを予想してみてもいいかも? 一応名前は全員出ています。
備忘録
代行者:パニグレにて昇格者よりも高次の存在とされ、昇格者を『選別』する存在として描かれる。戦闘力や権限は通常の昇格者よりも遥かに高い。
天人五衰:エヒト抹殺を現段階の目標に掲げる組織。代行者五名を筆頭とし、(文字通りの意味も含む)水面下で勢力を伸ばし続けている。或る意味では『世界の終焉』を掲げるテロ組織とも言える集団。名称が名称なのでパクリと言われないか心配だが、これ以上に適切な名前が思いつかなかった。元ネタは本文に有る通りの仏教用語である。
オルクスの隠れ家の作りかけのメイドロボの目が瞬く。まるで何かを伝えようとするかのように
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修理して連れていく
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見なかったことにして放置する