ハジメの即興悪口大会という名の全方位射撃が終わった後、尚も彼らは迷宮を進んでいた。そして、その傍らで特大の被害を受けていた人物が一人。
「はぁーー……はぁーー……うっぷ」
この迷宮の主、ミレディである。人間の肉体を失ってから、久しく感じることの無かった感覚。憎悪と悲哀と失望が内側から駆け上がり、吐き気を催している。ここから見ているだけでは男か女か分からなかったが、あの集団を率いる白髪の人物、ハジメは正しく悪魔のような存在だった。
美麗な容姿と、甘美で中性的な声で吐き出された言葉は針のようだった。聞く人が聞けば分かる。あれは解放者に向けた言葉だ。正確にはそう思わせるための言葉だった。
ミレディは訳が分からない。自分達に対する罵倒なら、当時の教会の人間や神の手先から腐るほど聞いた。そして、その経験がこの迷宮の作成に生かされている。だが、ハジメの罵倒はそれらとは種類が違ったのだ。
花の蜜のように甘美な音色で、砂糖を溶かし込んだかのような味を感じさせ、一度その毒を取り込んでしまえば、神経を侵され、細胞を破壊され、癒えぬ痛みと不気味な快楽に溺れ続ける事になる。
実を言うと、ハジメは解放者だけを狙い撃ちしたわけではない。オルクスに保管されていた日記を読んで多少寄せたのは確かだが、言葉自体は誰にでも、それこそハジメ自身にも当てはまるものに過ぎない。普段は意識もしない小さな傷、澱み、悪感情。それらを混ぜて垂れ流したのだ。
ハジメはこの揺さぶりが、相手が善人であればあるほど有効であると熟知していた。なにせ、相手が自分の内側に勝手に合致する事実を見出して苦しんでくれるのだ。その内在する〝病変〟を、善良な人間は赦せない。そして、その隙間を縫うように言葉の神経毒を流し込む。
あとは相手が勝手に自滅してくれるのを待つだけだ。著しい思考のパラダイムシフトでも起きない限り、被害者がこの自傷行為をやめる事は無い。何故なら、自分の精神を守ろうとするあまりに、途中で目的が切り替わるからだ。傷ついた後の自己憐憫の快楽は抗い難い。そして、自己憐憫という事実に嫌悪し、また心を傷つける。毒が廻る。
ハジメは優しい。だが、それは他人を傷つけない事と同義ではない。優しいという事は、他人を傷つける方法を知っているという事だ。少なくともハジメはそう思っている。仮に他人を傷つける方法を知らずに優しいのだとすれば、それは無知故の傲慢だろう。
ハジメは優しさという毒の使い方を
だが、ハジメはそれを手段にした。今までは寄って来るハチドリに与える蜜として、そして今回は快楽と共に臓腑を焼く劇毒として。シアも優花も、そして恵里も鈴も程度の差はあれど同じだった。優しさという麻薬に侵され、ハジメに協力し、何人かは離れられなくなっている。ハジメ自身も香織という快楽に溺れてから、その認識はより顕著となった。
そして、優しさという名の神経毒に侵された被害者は、今も地下で苦しんでいる。
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「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている」
「今度はニーチェかしら?」
ハジメが道中の煽り文を見ながら不気味な笑みと共に静かに呟く。普通なら中二病を発症したとか言われそうだが、もう恒例過ぎて誰も突っ込まない。
「……ニーチェ?」
「私達の世界の哲学者だよ」
「全ての破壊者……反哲学的哲学者とでも言うのかしらね。彼によれば多様な現象を一括りの理性的言語で説明しようとする哲学は生の否定なんですって」
「ややこしすぎますぅ」
「……同感。でも、哲学が生の否定だと言うなら、私には最適解かもしれない。何もしなくても、殺された未来は復讐を望むのだから」
シアが口からエクトプラズムを吐き出し、ユエは一部その思想に共感を示す。シアに関しては、パスカルの村の機械生命体サルトルの同類か? という思いもあったのだろう。シアは彼が苦手だ。
実際、全くの的外れかと言われるとそうでもない、というのが答えである。実存主義という雑な大枠に囲えば同じ種類の哲学者と言えるだろう。違いを説明するなら、ニーチェは真理を介して存在を定義したのに対し、サルトルは存在を自由な『無』とした所だろうか。
「まあ、ニーチェは複数の顔を持つ哲学者なのですが、個人的に好きなのは『真理には善も悪も無く、世界は狂気と逸脱の陶酔である』という思想でしょうか」
「それ、言いようによっては私達の存在そのものが悲劇であるって言ってるようなものじゃない……」
「実際そう言ってるんでしょうね。でも、僕にとってはそれが希望の象徴となる。その『真理』を芸術によって切り崩す事が、僕の
世界が悲劇であればあるほど、芸術はその真価を発揮する。人類文明が生み出した中でも最高傑作に近いものなのでは? とすらハジメは思っていた。人間が、自然界が持つ狂気的な美しさに唯一適合する手段。
「まあ、この言説も三日後には変わってるかもしれませんが……」
「ハジメさんって信念とか無いんですか?」
「定義に依りますね。『全ての存在は滅びるようにデザインされている』というのは僕が再三言っている事ですが、これすらも言いようによっては信念だ」
シアの言葉にハジメは飄々と返す。様々な哲学者や文学作品の言葉を引用してきたが、ハジメにとっては全てが真理で全てが虚構。時代や国によって如何様にも変化する。
「不変なものなど無い。それは僕がよく分かっています。物質に限らず、天も地も、過去も未来も、次元でさえも……あの殺戮の夜以来、僕は世界を観測し、学び、触れ、そして描いてきた!」
冷静だったハジメの口調が狂気を帯び始める。ユエやシアは闘い以外でここまで興奮するハジメを知らず、香織と優花は地球での生活以上に狂気を剥き出しにするハジメに見惚れていた。
だが、言っていること自体は筋が通っている。己の身体が完全に機械と化した事を知っても動揺しなかったのはこれが原因だ。香織や優花、ユエやシアも同じ。始まりが狂気であれ悪徳であれ、適応してしまえばこちらの物。
万物が流転するというなら、己の身体が例外であるなど有り得ない。人間とて予期せぬ癌で若くして死ぬ事が有る。何故人間達は自分こそは例外であると思えるのか、ハジメには狂気の沙汰としか思えなかった。
「この世界の真理は弱肉強食ではなく適者生存。敵わぬのなら逃げる事もまた適応。或る意味では解放者達はこの世界に勝利したのです」
ここにきてまさかの解放者への賛辞。地下で傍観しているミレディの精神を逆方向から揺さぶったが、ハジメの知るところではない。
「だからこそ、僕は『不変の信念』だの『必勝の信念』だの言う言葉が嫌いなんですよ。悪寒がする。正気とは思えない。ただの願望に華美な装飾をして何が変わるものか!」
ハジメはゼロスケールを取り出し、壁から這い出してきたメルトビートルを銃撃して全てを爆散する。これまでにない程感情を露わにしておきながら香織の事前警告は全て聞いているのである。
「時にシアさん、鳥や蝶は好きですか?」
「はい? まあ、好きでも嫌いでもない……としか。昔は慈しむ対象でしたが……最近はそうも言ってられなくなりましたし」
「僕は好きですよ。重力に縛られず風を飛翔するあの生命体達が。空は古来、異界と認識されていました。我々人間は鉄で武装しなければ成し得ない事を彼らは生身で
ハジメの例え話に香織と優花は「確かに」と頷く。空が異界という表現にはしっくり来るものがあった。大地を見下ろし、日射と風が吹きすさび、時に電流すら発生する。異界と表現しても遜色ない。
「広すぎる視界は転じて世界との隔たりがはっきりと出来てしまうものなんですよ。知識として自分の所在地を知っていたとしても、人間は自分の周りにあるものでしか安心できない。だからこそ、常人は信念や正義という物に縛られる、いえ、それを望んでしまう。彼らはこれこそが理性なんぞと呼びますがね。僕からすれば何処までも動物的な本能に過ぎない」
と、話を聞いていた優花が首を傾げる。
「もしかしてアンタがやたらと死にたがってた理由ってソレ? 死んで文字通り幽体離脱でもするつもりだったの?」
「まあ、当たらずといえども遠からずですね。僕は以前、死は生の対極ではなく延長に存在すると思っていた。それも間違いでは無いのですがね。しかしながらそれでは足りないと気付いたのですよ。過程、死という極限に至る為の関数です。世界に適応しながら僕は思考しました。生きて死ぬ事は全生命体の宿命。故にこれは単なる生存本能の発露に過ぎず、僕の
ハジメは憂うような表情から一変し、狂気の笑みを浮かべる。それは
「ならば僕は物理法則から解き放たれた虚数次元を観測しようと思い至ったのです。或る意味ではこの世界に来たことも良い刺激でした。真に世界の残酷さに向き合う事で僕の
ハジメは頭にタライの一撃を喰らいながらも持論を展開していく。既に痛覚は麻痺しているようだ。そして、それを聞いて拍手をする人物が一人。香織だ。今までにない程にハジメが狂気を発露しておきながら、ハジメの優しい一面に触れて恋に落ちた少女は嬉しそうに拍手をしていた。
「つまりはこう言う事だよね? デストルドーに支配されるだけだったコンダクターが生きたくなった」
「ええ。試してみる価値は有る」
話しているうちに、ハジメ達はとある部屋に辿り着いた。それは香織の反響定位を妨害していた敵の住処。人馬のような機械がヴァイオリンを弾き、犬の頭をした人型機械がチェロを、四足歩行の猫型機械が壁や床に埋め込まれた鍵盤を叩き、ハルピュイアのような機械が空中でコーラスを担当している。
だが、ハジメと香織は意に介した様子は無く、敵のヴァイオリンから飛ばされた音波の斬撃を回避すると、あろうことか敵の楽団の中心でワルツを踊るかのように抱き合った。
「とはいえ、僕のデストルドーが生存に不可欠であり役立った事は事実。これはこれで変えるつもりはありません。コンサート・ミストレスが途中で失望しない事を祈ります」
敵の音波攻撃の雨を演奏者の技能で見切りながら回避し、ダンスでハジメをエスコートする香織。その顔はハジメ以上の狂気の笑みに彩られていた。
「ア リ エ ナ イ」
こうして迷宮探索を妨害してきた難敵、〝ブレーメン〟との闘いが始まった。
まあ、多くは語るまい……ミレディの反応は悪口に傷ついたのもありますが、あまりにも異なる価値観への拒絶反応だと思ってください。実際、人間ってああなります。それまでの自分が到達できない価値観や思想への接触は嘔吐しますし心不全かと錯覚するような鼓動が自分の内側から聞こえてくるものです。とはいえ、それは場合によっては快楽の絶頂とも言えますが。
備忘録
ブレーメン:四体で一つの機械生命体。本来は試練に登場するはずの無かった機械だが、ミレディの気まぐれで登場してしまった。元ネタは言うまでもなく、『ブレーメンの音楽隊』である。
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https://syosetu.org/novel/294974/
『魔女と死神』という小説も最近更新したので、興味があれば読んでください。興味が無い方も読んでみてください。『昨日』の死神というキャラクターが一部優花の元ネタです(喋り方とか)。性格とか考え方はそれほど似てないかもしれませんが……
オルクスの隠れ家の作りかけのメイドロボの目が瞬く。まるで何かを伝えようとするかのように
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見なかったことにして放置する