触野 千手郎著『騎馬触手技術の完成とアマゾネス文明の興亡』 川満新書 作:HASURYU
【アマゾネス文明の滅亡に至るまでのまとめ】
こうしてカスプ海東岸域という地政学的条件とサーリハに代表されるようなガンダ自由思想家やその影響を受けたガンダ知識人を活用して、アマゾネス文明はアーミヤ家やその後継者にもめぐまれ、数代の繁栄を極めた。その全盛期ともなると、東部カスプ海から北西ガンダの主要な都市を占領、南部ガンダまで手を伸ばし、開発さえも行った。
だがここにきて、あまりにもフタスタン本国域の人口で制御するのに上回る領土を手にしたため、アマゾネス文明は膨らみ過ぎた風船を維持するがごとく、四苦八苦することになった。そしてこの問題は、ガンダ圏や神苑圏や、ザウル、アラン圏に進出した遊牧民国家が繰り返し受ける問題であり、最初のケースだった。最初の交易遊牧民国家ゆえにその歪みは盛期から数代は現れず維持はできたが、アマゾネス文明の最大の宿敵である北東ガンダ諸国群とそれを束ねるサミダリー賢王の登場により、その巧みな戦略と外交でとうとう、アマゾネス文明は南部と北部に分裂してしまう。
これらを束ねるべく何度も北アマゾネス文明は南征を行うが、補給線の長さゆえに失敗に終わることが多かった。
その中でかつてのアマゾネス文明の自由闊達な空気は失われ、アマゾネス本国人とその従属都市国家や同盟国家群との亀裂も北部アマゾネス文明圏を中心に起こり始めた。
北部アマゾネス文明もこの問題に手をこまねいたわけでなく、最後の改革というべき宰相マンジェーの改革が行われたが、既得権益層となってしまった各教団や外戚を中心とした貴族勢力が抵抗を示した。その結果マンジェーの改革は挫折し、マンジェーとその協力者は粛清に会うかもしくは国外に亡命せざるえなかった。
そうした人材を使ってかつてのアマゾネス文明のように、勢力を伸ばした国家があった。アルジャニス朝ザウルである。おそらくナーリーンで教育を受けたザーレ―を宰相兼大神官として迎えたアルジャニス王は富国強兵策をとり、かつてのアラン文明域の諸国を征服、帰順させた。この古くからの同盟国家を救うべく、北朝アマゾネスは東部ガンダ諸国の妨害に苦しみながらもアルジャニス朝と勝負に出る。
しかしザーレ―とその神官たちは、対アマゾネス軍の対抗戦術を完成させていた。それにより北朝アマゾネスは軍事的に大打撃をこうむった。もはや彼女たちは、その膨らみ過ぎた領土を維持することはできなくなった。フタスタン本土を守るために北西ガンダから一部の都市国家を除いて撤退を行い、北朝はフタスタンだけの領土となった。
この状態のまま半ば属国に近い形でアルジャニス朝ザウルと同盟を結び、一地方王権として長くフタスタンの地にとどまることになる。
また踏んだり蹴ったりというべきか、このころナーリンの地に大地震と各種パンデミックが襲い、首都は壊滅状態になった。そしてその10数年後、その傷が回復するか否かのところ北朝はリッセンドル大王の東征に遭遇し、幾らかの戦いを行った。多少は勝ったものの、最終的には敗れることになり、政治的なアマゾネス文明はここに滅亡するのである。
以上が簡単なアマゾネス文明の滅亡までの流れである。古代遊牧民国家としては比較的安定した国家体制だったとはいえ、結局強大な文明も崩壊するときは崩壊するのである。
この章では、アマゾネス文明の繁栄からその分裂までを説明し、どのような脆弱なポイントがあったのかを含めて、その歴史を追って説明しよう。そしてこの崩壊パターンは各遊牧民国家の崩壊の原型ともいうべきものであり、後世の歴史を理解するのにも役立つはずである。
【フタスタン統一からガンダ北西部の進出】
初代アマゾネス文明の創始者であるアーミヤ家とその集団は先の節で説明したように、その高い戦闘力と様々な技術革新、多くの人材を登用して、フタスタン地方の覇者となった。またその技術は食糧増産技術を増し、フタスタン域の開発と人口を増やし、一大強国へとフタスタン域を変えた。
また彼女たちは自分たちの戦闘を弱まっている奴隷の解放を大義名分として、戦ったことで支持を集めた。この方法はガンダ諸都市や有力遊牧民による奴隷狩りに会う弱小部族や集落の支持と保護を集めたのだ。アーミヤ家躍進にはこのような背景があったという。
しかしそれは母体ガンダ諸都市との対立を意味する。そこで彼女はサーリハの進言によって、没落ガンダ都市の復興を掲げて、対立する諸都市に協力を求める。このようにしてガンダ諸都市や領域国家の紛争に介入し始めた。そしてその復興がなされた暁には、自分たちの息がかかった指導者と、交易ルートの優先的使用を求めたのはいうまでもない。
かくしてフタスタンの軍事力の利用したいガンダ諸国の中をアマゾネス人たちは狡猾に立ち回り、どんどんヘゲモニーを握り始める。
さらにサーリハの教団が女性保護などを行い、ガンダ域の宗教にも影響を与え始めて、奴隷解放や金融業による経済的介入、開発を行うことで既存勢力の力をそぎ始める。そしてそれで紛争がおこれば、真っ先にアーミヤ家がやってくるという寸法である。
次第に北西部ガンダ諸国の中にもアマゾネス人やアーミヤ家に保護を求める者たちが増え始めた。このことに危機を覚えたガンダ北西部諸国は同盟を結び、対抗し始める。人海戦術的な戦いで、圧倒しようと考えた。そこで行ったのが、アグランの戦いであった。
●アグランの戦い
アグランは北西部ガンダの現在でもある都市である。そこを襲撃すると、フタスタン域の交易ルートを遮断することになる。そこでなら確実にフタスタン勢を釣ることができるのだ。
だがそれはアマゾネス人の掌の上のことだった。わざとアグラン周辺をがら空きにし、巧みな偽装敗走で終結した同盟軍をつり出し、それらを各個撃破した。最終的にはアグランにたどり着いた同盟軍は半数近くまで──それでもアマゾネス人よりも多かった──減らした。
正面から対峙した同盟軍をアマゾネス人は翻弄し、同盟軍の大戦車群を圧倒する。とくに彼女たちの使った投槍と触手弓の前には、射程距離と威力もあいまって同盟軍は壊滅状態に陥り、敗走する。そして帰還後もアマゾネスの分隊や彼女たちの同盟都市群が襲い掛かり、かくして同盟軍の兵は10人に一人しか故郷に帰ることができないという結果に終わったのである。もっともこの戦いで負傷したサーキー女王はフタスタンに帰らざる得ず、次期後継者であるオタカリにガンダ北西部の侵攻を任せることにした。
こうしてガンダ北西部の覇者としてアマゾネスたちは君臨しはじめた。その勢いは8代王アイユンの時代まで続き、そして北東ガンダ諸国の覇者サミダリー賢王の登場までとどまることがなかった。
【ガンダ西部の覇者として~南部ガンダ進出と開発】
アマゾネス文明は、覇者となった。当時としては画期的な触手騎馬弓兵は、ガンダの戦術を確実に超え、フタスタンや外国人奴隷獲得に励む北西部国家群を滅ぼした。アマゾネス文明は2代目以降になっても、3代王レイマーネー、4代女王アンタルシーと名君が続き右肩上がりの成長の時代が続いた。
この頃の記録は税収と各部族からの貢納金、王領からの税収など王族は莫大な資金を誇り、アラン文明からの金融資本からくるキャラバンの利益と農地資産は膨大なものであった
。
これらの権益をめぐってもとの宗主国である王族パイアーンと対立することが多くなり、襲撃を何度も受ける。しかし国境域にできた要塞群や城塞都市で守られたアマゾネス文明が作った植民都市を攻略することは難しく、逆にパイアーンは本土にまで攻め込まれたその結果、アマゾネス文明とパイアーンは対等であることを示す条約を示し、相互不可侵を取ることになった。
同じ騎馬民族でも止められないアマゾネス文明はもはや敵となるところは、ほとんどなかった。しかも先に示したように、彼女たちは決して野蛮人ではない。人口差の問題があるため、基本現地での慣習法を優先しながらも上位法では彼女たちに重要に決定をなすという、そのような法的支配を行った。
また基本農耕民族に対しては定期的な賦役や税を課すことをあっても、軍事的賦役は成長期、全盛期では課すことがなかった。それに支配した層からの志願兵を得る方法を巧みに作り、それらと地元の軍事貴族を対立させることで付け入るスキを作らせなかった。
●アマゾネス帝国の拡大
先に述べた資金力と王の親衛隊とサレイシア信仰を中心とした僧兵団の兵力は、ガンダ北当部各国の各国を撃退しつつ、4代アンタルシーごろから始まった南部ガンダ植民を行い始める。
この事実は断片的に、19世紀より発見されていたアマゾネス文明の影響を受けた碑文からわかっていた。だがその詳しい内容は、2011年テルジャミット碑文の発見によってあきらかになった。この碑文はもともとはガンダ南部海岸部にあったものらしく、古代の津波で流された碑文である。先のガンダ洋大津波の復興の最中に発見された。
この碑文の内容は多岐にわたるが、次のような内容である。
(1)アマゾネス文明の親衛隊になったガンダ兵とサレイシアの僧兵一団がおそらく海岸域の地域の周辺に土地を賜った事実と植民都市建設のスポンサーである王とアマゾネス文明の貴族層への感謝
(2)無事交易と土地開発が実り、金主への借金を返せたことの神へのを記念して作ったものである、そのうえで子孫に対して王族や貴族に義務を果たすことを誓う。
(3)それに続いて、オーク族にたいする記述がある。南ガンダから大ガンダを中心に交易を行っている海洋民族オークたちは彼女たちの同盟者として書かれてあり、宿敵の北東部域のガンダ諸国に共同してあたることを誓っている。
この碑文が重要なのは、石碑が比較的初期入植者のアマゾネス文明が作られたこと、オーク族が彼女たちと重要な同盟を結んだこと、その事実まで書かれていることにある。このことからアマゾネス文明以外の歴史をしるためにも重要である。
おそらくアマゾネス文明が南部ガンダへの移動と植民の開始は、慣れぬ海岸圏にまで至った。そのうえで領土の防衛とそのノウハウを学ぶために始まった。やがて全盛期から爛熟期になると海上交易の権益を得るためと開発のためより積極的になったと考えられる。
さらに4代王~5代王あたりになると、ラクダとヤックルの家畜化に成功した。このフタスタン域産の家畜は南部ガンダの砂漠域を乗り越えることができ、各地にキャラバン都市とガンダ特有の土木建築も相まって、南ガンダの人間の生存圏を広めた。これらを南ガンダ諸国に貸し与え運用させることで、新しい交易ルートを作り出したのだ。
これらのルートは交易面だけでなく、軍事的にも重要であった。海路ではオーク族によって北東部諸国群へ侵攻を行う。陸路では南部ガンダ砂漠域を突破して襲撃を行う。このように相手の国力を低下させるゲリラ的戦術を取って、敵対国に向かったのだ。
散発的に発生する各地域の小規模紛争を除けば、相対的に平和な時代が5代~8代王の50~60年の間続く。南部ではこの治世を神話化され、女神サレイシアとアンマーの楽園と呼ばれ、豊かで暮らし向きがあり、次々と都市が作られていた。人と美しき半魔は交わり、新しき英雄を次々産んだともいわれている。
このようにアマゾネス文明は最盛期を迎えた。不毛な砂漠地を含んでいるとはいえ、その大帝国はほぼガンダ亜大陸を二分し、このままガンダ亜大陸を統一するかのように見えた。だが神苑圏の言葉にあるように、亢竜悔いありである。様々な内的要因と矛盾を絶頂期の頃から問題になり始める。
【繁栄の陰り──サミダリー賢王の暗躍とアマゾネス文明の分裂】
●ガンダ地図 チンジェー国
各種技術と戦術に裏打ちされ、しかも広大な領土を持つアマゾネス文明は、一見ガンダやザウルとの優位を崩しそうに見えなかった。まるで、かつての触手技術を独占したガンダ文明のように。全盛期のアマゾネス文明だったが、10代、11代、12代と短命な選挙王政が続くことになり、この時期から統治に綻びが出始める。
この短命な王朝を支えるべく、急遽外戚家と各種僧兵団の協力が求められ、これまで以上に特権が認められ、一時の政治的安定をもたらした。
とはいうものの、アマゾネス帝国内部に領土拡大派と安定派という対立がこのころから出始める。このアマゾネス文明の国家戦略の方向性の対立は、激化しはじめ、かつてあったような王家と貴族と僧兵団の連携を崩し始め、首尾一貫した国家戦略が取れなくなった。
外敵に関してはそこそこ連携をとれ対応こそできたものの、それ以上の侵攻となると対立が生じた。そして、12代のころには各地域で派閥をたがえた集落同士で紛争が起こり始めた。
そのような内乱時にいよいよ東ガンダの覇者ともいうべきサミダリー賢王が登場する。
サミダリー賢王の業績は、半ば神格、神話化されている。だがそれらを抜き取ってもまさに英雄としか姿を見ることができる。
サミダリー賢王は北東部ガンダ海岸域の中規模の領域国家チンジェー国の人である。ハクロウン王の三男として産まれ、大ガンダ域の諸国と交易路を開きつつ、植民都市とも交易し、海軍を駆使した戦術をそこで学ぶ。
だが兄ハクロウン二世のアマゾネス文明との戦いで戦死を受けて、チンジェー王に即位する。そこで優れた技術者ヨオウ=バーリー、植民都市から引き抜いた将軍職テイ=トックー、武将クロノイ=シグゥ ルドラ=ポイイーなどの人材を集め、富国強兵に勤しむ。
巧みな外交策でアマゾネス文明とは直接対峙することはせず、オーク族の重要な拠点地であるランビア島を攻略し、そこから南部アマゾネス同盟国や諸国家を攻めることで勢力を弱めさせる戦略にでる。
後には、主要なオーク族を屈服させたのち、優れた航海術で陸路を使わずにザウル諸国にたどり着き、彼らとの秘密同盟に成功する。その巧みな弁舌は後代に成立した宗教詩にも引用されるほどである。
またヨオウら技術者集団は船団建築だけでなく、馬具改革と短触手による騎馬技術をも確立し、これらを船を乗せ、海軍を利用したゲリラ戦を行う。
かくしてアマゾネス文明とその同盟国は混乱に陥る。また大将軍であるテイ=トックは、防諜にもすぐれ、アマゾネス文明本国の敵対する派閥に金を分け与え、対立を煽るという謀略も行ったらしい。
国力弱体化したとはいえ、ようやくチンジェー国の存在と東部ガンダ諸国の同盟の存在に気づいたアマゾネスたちは、東部ガンダ諸国同盟軍とカンブーあたりで大規模な戦いを行う。
戦いは長引き、ほぼ互角で両者引き分けだと思われた。何も得ることなく、フタスタンへ帰ったアマゾネス軍は衝撃の事実を受け取る。南部諸国家のいくつかの同盟国が反旗を翻し、その他同盟国を滅ぼし始めたのだ。これらへの対応を迫る連絡が次々と舞い込んだ。
こうしてアマゾネス本国はアマゾネス系南ガンダ諸国という国々が現れ、ほぼ南北に国家が分裂してしまった。戦略面で見すえた実質サミダリーの圧勝であった。
このような事態になったのも、アマゾネス文明の人口に対して、ガンダ域の人口の差というのが原因であった。
というのも飴と鞭とガンダで取り込んだとはいえ、南部ガンダを中心に有力部族は定住社会に逆に取り込まれ始める、またそれは、植民元の部族の利害関係にも影響を与える。これはアマゾネス文明の人口の絶対量のたりなさから仕方がないことであった。そして植民地での協力の元、彼らを支配する以上、各部族は既存の有力層からの影響を各部族は受けざるを得ない。
そのうえ時代が立つにつれて、ガンダ文明は、アマゾネスの安定した平和の元で、かつての中間層が担いはじめ、かつてのガンダ社会とは違った形で再編しはじめた。彼らはアマゾネス族を新しい神話に取り込むことに成功し、南部ガンダ社会の中にアマゾネス文明を取り込み始めた。
こうしてアマゾネス文明の没落が決定的になり始めたのである。そして彼女たちはそれに対応すべく苦闘する。その最後の輝きがサレウの改革となる。
【内部改革の試み──サレウ=マンジェーの改革】
サミダリー賢王以来、南北に分裂したアマゾネス文明は13~17代の間、より激しさの増した外征派と内政派の対立の記録がナーリン遺跡から判明する。外征に至るリスト、少なくなった王領の収入を嘆くメモ、各教団の僧兵の私闘などの裁判記録などが発掘されている。
それでもなんとか北部アマゾネス文明は──フタスタンと一部北西ガンダ域のを領土とする──南部を取り戻そうとする動きを止めることはなかった。
しかし平和の間に人口が増えたフタスタンといえども、それ以上の人口を持つガンダ域の諸国に押され始める。ヤクティス経由でのルートや王族パイアーンを撃退する程度の勢力は持っていたものの、もはやかつての勢いは彼女たちはもたなくなった。
13~17代の間、北東部ガンダの諸国攻撃と南部ガンダとの領地回復などを繰り返し、領土を取ったり取られたりが続く年月だった。
当然それらは全く負担がないというわけではないのは、当然である。王領や植民都市からの税収の低下、貴族層となった大部族、僧兵を擁する教団、それらの利害調整をしながら戦争をするため、結果として下のほうに負担がかかる形になってきた。勃興期から絶頂期のような成長サイクルはもはや望めない。
かつての体制とは別の組織構造を作る必要に、北朝アマゾネス文明は迫られた。かつての遊牧民主体ではない形での軍制と中央集権化が望まれる。
そして18代王サーキー三世の時代に、この難しい課題に宰相サレウ=マンジェーは挑むことになる。
サレウ=マンジェーはサーリハとサレイサの大神官を兼ねた人物である。アマゾネス文明の屈指の知識人であり、その知恵は17代王の頃から知られていたようである。主要な教団のリーダーであることを利用しつつ、反発する層を半ば強圧的に鎮圧しながらも次のような面で改革を行ったとされる。
その改革はアマゾネス文明史の専門家でも諸説あるが、共通した見解に基づいてまとめれば次のとおりである
(1) 農業先進地帯や定住先進地帯の外国人知識人層の活用──アラン域を中心に
(2) 法兵の育成を僧院に依存するのではなく、最終的に人事権を国家に帰属させる
(3) 触手技術に頼らぬ方法を模索
(4) 税制改革、貨幣改革など
(5) 農民層にも徴兵開始、貴族層の各種徴税。
(6) 各種再分配組織の再編成
もはや遊牧民主導というより半ば定住民の王国のそれと変わらなくなってきたのがわかる。戦乱に続くアマゾネス文明知的ヘゲモニーの低下と悪しき保守化、そして新たな知識への道を探り、活用した上で、既存の強さに依存しない戦術を可能にする改革をメインに定住民族にも相応の負担をとり、それに対応した軍制の作り替えがなされている。
それと同時に安定した中央集権化したうえでのそれらを支配、被支配層双方のメリットのある形での利益還元を行う。大体このような改革であったであろう。
この兵制改革と中央集権化は一時期は成功し、サーキー三世の新たな軍隊は、対ガンダの戦争にも勝率を徐々にあがりつつあった。
しかしこの改革は、サレウと18代サーキー三世王の協力があるからこそ成り立つものであった。もしこの改革を安定したものとするならば、一時期とはいえ部族会議を閉鎖したうえで改革しなくてはならなかったかもしれない。つまり改革の基盤は脆かったのである
そしてサーキー三世の治世が病死によって終わりを告げると、かつての既得権益層は黙ってこの事態を逃すわけがなかった。
サーキー三世の改革に反発するアマゾネス中心派とも言うべき一派は、これ以前より外戚を出していたジワラーン家を中心に集っていたらしい。
ジワラーン家はかつての王族ポリアーンを撃退したアーミヤ家の将軍の血筋である。7-8代王の同時代であるクシャン=ジワラーンの頃に、2代続けて選挙王の王后や配尊者(女王のパートナー)を出していた。そのため歴代のキングメーカーとして、君臨し、息子たちも大将軍として配置などしつつ力を持っていた。とはいえ、基本的に勢力面では古くから対パイアーン域の守護を担っていたため、安定的してその地位にあったことも勢力拡大を可能にした。
とはいえ先代ジワラーン当主も、基本的にマンジェの改革には賛成していたため、軋轢は少なかったため、サレウの改革は安定して進めることができた。
だが、徐々に権威を失い、負担が増えたジワラーン家若手やその他有力貴族家は、サレウによって強化された王族のあり方に反発を持っていた。そしてサレウの教団以外の僧兵も魔法兵養成などに反発し、かれらと合流することになる。
そして先代ジワラーンが亡くなり、フトゥニー=ジワランが当主になると、あきらかに王族への反抗をみせはじめたらしい。
そしてサーキー三世の死にその憤懣が爆発する。この辺の記述は、後世のザーレ―教の記録とナーリンの記録から類推するほかはないのだが、どうやら王の死を見舞うところをサレウは襲撃され暗殺されたらしい、その後どの王の擁立するかで、対立が発生し、内乱が首都圏を中心に勃発する。
サレウ自身もサーリハとサレイスーの大司祭兼宰相であり、武力面でも僧兵を握ってはいたが、ジワラーンとその他の勢力が団結して攻めてくるのに対抗できるほどではなかった。
当時ナーリンに留学していたらしい後のザーレ―教の始祖であるザーレ―は、おそらくサレウ派に属していたと思われる自分の師匠ともども、この内乱に巻き込まれた。アマゾネス人の友人ともども故郷のザウルに逃げるしかなかった。
こうしてアマゾネス文明は改革の芽を自分でつぶした。また内乱の傷も大きく、その傷をいやすための時間が必要とし、短命な選挙王ができてはリコールされた。混乱の回復に必要とは言え、貴重な時間が費やされてしまった。
だがそのような時間の中で一つの国が勃興しつつあった、それはサレウやそれに連なる師匠の無念を引き継いだザーレ―と、一人の王の出会いによって起こされた。それが次世代の覇者、アランとザウル域にまたがる大帝国アルジャニス朝ザウルの誕生である。
彼らの戦術は、皮肉にもまさしくサレウが目指した最終系の軍隊のあり方を完成させ、アマゾネス朝に対して牙をむいたのである。次の節でその説明をしよう。