触野 千手郎著『騎馬触手技術の完成とアマゾネス文明の興亡』 川満新書 作:HASURYU
そして、触手にからみつく女戦士シチュの誕生!
【アマゾネス帝国からアルジャニス朝ザウル帝国へ、そしてアマゾネス文明の滅亡】
アマゾネス文明はゆっくりとした没落をしつつ、その領土を維持することができなくなった。特にサミダリー賢王の登場によってそれは加速し、とうとうアマゾネス文明は南北に分裂するまでに至った。
そのうち南部アマゾネスは諸国に分裂し、東部ガンダ諸国や北アマゾネスの干渉を受けながらも、独特の文化と文明を作り上げていく。それらの文化的アイデンティティは後世にも影響を与えるのだが、それは後にゆずる。ただ北西部と南部に影響を及ぼすアマゾネス帝国はここにきて、はっきりと没落の道へと行くことになった。
無論、それを対抗すべく北アマゾネスはサレウ=マンジェーの元、定住民の取り込みや触手弓騎兵に頼り切らぬ軍制改革、内政改革をおこなったが、それはもはや遅きに失した。
その結果さらなる混乱を北アマゾネス朝にもたらすことになり、その隙を諸国が見逃すことなく、内政と軍事改革に励み、皮肉にもサレウ=マンジェーがおそらく描いていたヴィジョンを完成させる。それを最初に完成したのが、アラン域ザウル域を完全統一した帝国、アルジャニス朝ザウルである。
この帝国はグラムス=レムネー文明最大の敵であり、後のリッセンドル大王の東征によって滅亡する。知名度のわりには、アマゾネス文明同様はっきりしなかった。しかもその実像を探るには、後世まで残ったグラムス=レムネー文明の文献に頼らざる得ないため、エウロスにおいてそれらで書かれる東方の専制国家像で語られることが多かったからである。
しかし19世紀半ばに発見されたタルニシュ碑文や、その他金石文解析から始まる彼らの研究、ガンダに移住したザーレ―教徒の子孫の文献と口碑の調査は、エウロス伝統的な見方を徐々に変更されていく。
さらに王都アシュマドの発掘と各種文書群の発見、グラムス文献やアザーニー系文献などの再解釈や研究によっても更新され、そしてナーリン遺跡の文書群の発掘などにより、その成立時の姿を改めてみることが可能になった。更新された彼らの姿は初歩的な体系的な魔法を駆使した帝国の姿である。それは新しい定住民帝国の形に新たなパターンを作り、宗教面でも、触手技術史の面でも興味深い存在だったことが判明する。
この節では、アルジャニス帝国の成立と、彼らが作りだした軍事革命はどのようなものであったのか、北アマゾネスの崩壊と政治的独立の喪失に至ったムルタブルの戦いとタルニシュ碑文に示された、北アマゾネス朝の地方王権に至るまで過程を通じて説明したい。
【アマゾネス文明とザウル圏の文明の関係】
アマゾネス文明に大きなダメージを後に与えたザウルは、初期アマゾネス文明同様にあまり恵まれた国ではなかった。
ガンダ文明圏とアラン文明圏を結ぶルート、そしてアマゾネス文明やパイアーン文明や彼女たちに開発された北方交易ルートのアラン文明を結ぶ道があるという以外は当時は目立ったところのないところである。
ただアマゾネス文明が基本遊牧民が定住民を飲み込んだ上で、彼らを巧みに統治をした文明形態をとったのに対して、ザウル文明はカソプ海南部の平原域を活動範囲として持っていたこと、そして山岳移動で遊牧民の技術が必要であったことから、平原民が遊牧民の文化を取り込む形で発展したというのが、アマゾネス文明との差異を産んでいる。また侵略や植民という形でより強くアラン文明の影響下にあったのもこの文明圏の特徴である。アマゾネス文明と似て非なる文明、それがザウル文化圏である。
とはいえアマゾネス文明が産まれるまでは、小さな領域国家ができることもあったが、アラン文明、後にはアマゾネス文明が加わり、ザウル圏の国同士が長く争う関係が長く続いたのが、アマゾネス文明があったころのザウルという状態であった。
しかしアマゾネスの平和や、アラン文明が各種文明勢力に押されて相対的にザウルへの影響力が弱まり始めると、一気に複数の領域国家が作られる。
また彼らはアマゾネス文明やアラン文明に人材を使わし、留学させることで富国強兵の道を取り始める。彼ら自身の文明を開発するためにも先進地帯の文明やまた交易のための世界情勢を知るためにも、これらの活動は有効だったからである。
そうした中で、新しい知識人と宗教的要請が産まれ、それらにこたえる知識人も必要とされる。彼らが受けとった技術は多岐にわたる。
まずアラン文明からは高度な経済運営と金融知識、発展させた魔法と、その応用である各種農業技術と冶金技術などを受け取った。アラン文明はザウル圏の資源と交易ルートを得るためにザウル域に干渉していたからである。こうしてザウル文明は徐々にその技術を受け取り、理解した後、留学という形で体系化して学び始める。またザウル人は文字もアラン文明の楔形文字を発展させた独特の文字を使い始めたのも、この動きを加速させた。
そしてアマゾネス文明からは、乾燥地に適合した作物や触手技術、さらに畜力や水力を利用した各種器具や機械を受け取った。アマゾネス文明では畜力中心であったが、彼らは主に水力を利用し始め、安定した動力源で各種建築や鉱山運営を行い始めたのである。特に原始的なクランク利用と馬車の改良、アラン文明の技術も入れた触手技術は本家アマゾネス文明を超えはじめ、最終的に彼女たちの文明にとどめを刺すに至ったが、それは後述しよう。またアマゾネス文明の高度な人文知識は、彼らの後の代に成立する世界帝国を作るのにも役立ち、分割統治を可能にしたことも付け加えておこう。
再編された国々はもはやかつてのように他の文明に従属するような関係でなくなった。そしてザウルの山がちな地形──新規造山活動と古期造山地帯に入り乱れた地形──に由来する鉱物資源の種類と量の豊富さと、各種文明から来た機械や技術革新を受けとり、それらをさらに発展させることで富国強兵の道を邁進する。まずはこれらの資源をアランやアマゾネスの文明に売り込むことで、これまでの従属的な立場から脱却した。各文明圏で長引く戦争は、ザウルの傭兵や鉱物資源を必要とせざる得なかったのである。
そうして得た富をさらに投資し、長大な地下水路工事による農業地帯の拡大、山間域の開発をおこし、さらなる繁栄をザウルにもたらし、各領域国家を繁栄させた。平和的であれ戦争という手段であれ、国々が合体することでさらなる開発を加速させる。
その結果アマゾネス文明衰退期のころになると数か国の領域国家にまで減少し、それぞれが強大な勢力になりつつあった。 そのなかに、ザウル文明の最終形態を作り出すアルジャニス家によるパルス国があった。そしてザーレ―というこの時代最大の知識人の登場で、この国の覇権が固まった。
ザーレ―と彼が作ったザーレ―教は、その教義は後代の宗教にも影響を与えたが、ここでは詳しく触れない。ただザウル各地に散らばって発達していた宗教と魔法をさらに体系化したという点で、彼は魔術技術者、軍事技術者そして宗教改革者として歩んだ。そして故郷のパルス国の改革を成功させ、最終的にアルジャニス家によるアランとザウルの統一に成功したことで宗教的権威も絶頂に達した。
彼の行動もまたサーリハ同様、後世に半ば神格化され、その実像はなかなか見えない。しかし歴史的人物であったことも確かであり、口碑や後世成立したザーレ―教の文献、アザーニー群を比較検討して、その実像も見え始めた。
このような作業を経て現れた歴史上の彼は、自分の信念と信仰を作りながらも、柔軟に他国の文明を取り入れ、異邦人にもその徳と知恵の豊かさを慕われる人物である。そして故郷を愛する気持ちが強い彼は、迫害にも耐えて忍耐強く王や人々に諫言し、丁寧に説明したうえで、他者に間違いを悟らせる一級の教師であり、宰相であった姿である。
彼がいなくてもザウルは統一され、強国にはなったとは私には思われる。しかしアルジャニス朝を世界帝国にしたのはまさしく彼や後継者の手腕と人徳によるものであろう。
このような彼も、最初からその知恵を得たのではなく、手本となる人物を通じて完成させたらしい。最近アシュマドで発掘された一番古い形で現れたザーレ―伝の叙事詩によって歌われた彼は、アマゾネス文明のサレウ=マンジェーの改革を直に見てきた可能性が高く、その挫折が彼をして宗教的な苦悩をもたらし、そして新たな宗教へと導かせた。
以下この政治的にも宗教的にも劇的な、ザーレ―の生涯を通じて、アマゾネス文明の没落とそしてザウルの勃興を見てみよう。
【ザーレ―とサレウ=マンジェーの改革】
●ザーレ―生存時のザウル周辺とフタスタン地図
ザーレ―こと、ザーレ―=スピダーンは紀元前600~610年ごろザウル北部、カスプ海南部の港町ラシュピーン近郊で生まれた。この地は古くからアルジャニス家のパルス国が支配しており、戦略的にも重要な都市であった。
スピダーン家はその中の神官階級であり、そのための専門教育を受けることになった。彼は記憶力と語学的センス、読書家であったらしく、アザーニーでも”八思いのザーレ―”、”耳あまたあるザーレ―”、”板書を事解くもの”というぐらい、知的早熟なものであり、好奇心旺盛であったらしい。
やがて”新たなる神々の技”を知るべく20才になると、賢者集えるナルンの地すなわちナーリンへと旅することになったという。
様々な困難を経て、大いなるナルンの地で基礎的なものを改めて学びなおしたのち、最終的にナルンの語られざる女賢者ティティネーという師と決定的な出会いをし、その門下に入った。。
発掘されたザーレ―伝によると、
かの賢者 正しき道に 至れども
過つ人は まことの姿ぞ 悟らざる
それゆえ人は かの女賢を 語らずと
ああかの人を 知るは大神 アーメル=マット
はたまた神に 導かれたる 良き友か”
とうたわれている。
この叙事詩から見た当時のアマゾネス文明の知的状況は、首都ナーリンは知的センターの地位を失っていなかったものの、かつてのような外国人知識人をも活用するような時代はすぎ、悪い意味での保守化が進んでいたらしい。
このことは発掘されたナーリン遺跡の神殿や知恵の館のリストからも裏付けられている。勃興期から全盛期のこれらのリストには、サレイシア教団や自由思想家たちの教団の構成員にはアマゾネス文明の子弟だけでなくガンダ文明やザウル、アランなど各地からならではの人名が記載されていることが多い。
だが8代女王あたりからは外国人留学生の知恵の館の報告者や、各教団の外国人雇用枠が少なくなってくる。この時代は平和で拡大することが可能にも関わらずである。そして11から12代目になると、各教団幹部はサレイシアやアーメルなどの一部を除いてアマゾネス人や帰化したガンダ人などしかならなくなったりする傾向が続いた。
そして各技術の権益を守るべく、各宗派は些末なことで分派することが多かった。
この知的退廃と停滞を嘆く歌もサーリハ教団は残しており、
ふるきガンダの 一つ衣の 灰を食べ
すごせる 炎の熱さ いずこにか?
火の末裔たちが あがめるは 炎にあらず
灰と炭のみ いたずらに 集め遊べる
麦とキビは どちらが勝るか 知ることは
貧しき人の 時にあわねば 何になる?
自由闊達であったかつての空気をしのび、ライバルの教団の体たらくを告発している。
話を戻すが、当時のガンダのマイナーな知識神アーメルの司祭にして魔法学者ティティネスとの出会いは、それまで個別的だったザーレ―の知識を体系化し、より深い解釈をもたらしたらしい。それは彼にとってアラン魔術とガンダ魔術の融合をもたらした。そのうえで医学など各種知識を学び、より知識を深めていた。
そういう充実した日々の中、マンジェーの改革に出会う。
マンジェーの改革は外国人留学生にも福音だった。彼らは知識を学ぶだけでなく、より積極的にアマゾネス王とも接触し、その技術を生かしたり、アマゾネス人と交流を深めた。そしてザーレ―も二人の妻を、この地で娶ることになったのだ。
また師の兄であるペニサネはアーメルの神官だけでなく、マンジェーに抜擢された文官でもあったらしい。そのこともマンジェーの改革をより詳しくザーレ―はつぶさに見ることができ、そして二人に協力した。その日々を彼はこう歌った。
塔の高さの 文読む日々を 見るたびに
数多見聞きし 知恵持つ人の まつりごと
そのふかきこと アーメル知らざる 我が身には
小さき枡で カスプの水を 計るかごとき
されとて海の 慈悲と恵みで 導くは
アフルの言葉 それを読み解く あまたの師
ザーレ―は多忙で充実した経験と師の家族との有効な関係を結んだ。そしてかつてのアマゾネス文明の外国人のように、出世もあり得たかと思われた。マンジェーはザウルとの協調路線をとっていたため、このまま改革が続けばそれもあり得ただろう。
だがジワラーンのクーデターによって、状況は一変する。マンジェーは暗殺され、その協力者も私刑かさもなくば捕らえられる事態に発展した。”終わりの日とは かくのごときか”とザーレ―をして言わせるほどの日々だった。
また師の家族もこの動乱に巻き込まれた。留学生や新興技術者を守りつつ、ティティネーは最愛の兄を探し、敵対勢力に捕らえられたのである。ザーレ―と仲間は決死の覚悟で師を救出するが、拷問などの結果、彼女は瀕死であった。そしてティティネーは死の間際に、各種秘伝と隠してあった書の場所をザーレ―に教え、死去した。
もはやザーレ―とその仲間たちにナーリーンの地に留まる理由はなかった。留学生仲間と救えるだけのアーメル信徒を導き、苦難と冒険の末に、ナーリーンから故郷ラシュピーンへと帰国した。
帰国後のザーレ―は沈み込むことが多く、師の運命をめぐる様々な考察を重ねた末、アーメルと地元の神を習合させたアフル=マードという神格の存在を確信するに至った。そして悪しき力によって神々は堕落したがゆえに、正しき知識を持った神々はその迷いを解きほぐす義務を持つという普遍主義的善悪二元論とガンダやアマゾネス文明そしてシンクレティズムに基づく教義を確立し、その教えを弟子や友人に説き始める。
教義ができるまで、最低限の医療活動などを別として、彼は世俗の誘いを断っていた。だが教義とそれに伴う魔法技術の体系化に完成すると、改めてアルジャニス家の宰相に就任し、その知識と経験を生かして、アルジャニス家の覇道の手助けするに至った。
【アルジャニス朝ザウルと北アマゾネス文明の対決──ムルタブルの戦い】
アルジャニス家が支配するパルスは元々は、カスプ海南部平原域を支配する王国であった。ザウル諸国の戦乱の中で台頭し、国を占領、吸収しやがてザウル湾南岸まで達する南北に長く伸びた国へと発達する。
そして海岸に達したころに、チンジェー国の船団と接触し、直接ガンダ東部と外交的接触に成功する。このアマゾネスを介さぬ仲介交易は、この国に交易面でも優位をもたらし、ザウル統一の原動力となった。
そのうえで、北アマゾネス文明の改革を見てきたザーレ―とその仲間たちを迎え入れたことで強国への道へとひた走り、アラン文明の後ろ盾を持つ当時の強国であったセレウン国を圧倒し始める。そして前550年、セレウン国を滅ぼし、ザウル統一をなす。この国の誕生によって、はじめてザウルという地域は政治的にも統一されたものとなった。
このザウル統一を可能にしたアルジャニス朝の軍事はどのようなものであったろうか?
まず彼らの戦術は、魔法兵と王の道と呼ばれる高速軍事道路を駆使したもので、当時改良された4輪馬車を使うことで歩兵の高速動員と騎馬兵を展開したものである。
馬具もこのころから改良され、鞍やハーネスをメインとして長育種触手を補助とする騎馬隊もこのころから現れ始めた。また既存の権益から外れたアマゾネスたちの協力を得て、馬の扶助技術も改良され、アマゾネス文明ほどでなくとも周辺国を脅かす騎馬技術をアルジャニス朝は手に入れた。
しかしなによりアルジャニス朝の軍隊を特徴づけたのは、ザーレ―によって改良された魔法軍である。かれの魔法体系は、より強力かつ簡便に身体や武器を強化することができた。そのため軍事面での魔法については呪術に近かった他の国々を圧倒したのである。
ザウルの金属加工技術もザーレ―の技術の恩恵を被ることになり、魔法彫金技術をより一層発展、応用させた武器、防具が作られた。
このように歩兵、魔法兵をメインにしつつ、補助的に馬術を応用したのが、アルジャニス朝ザウルの基本戦術であった。とくに高度な魔法兵は歩兵と騎馬兵の戦術を柔軟にしただけでなく、工兵技術も高速化した。
それに加えて、触手技術においてもザーレ―は改良を行った。交易と改造を通じて、アマゾネス文明も使えなかった象やライオンや熊などに寄生する人間にも接続しない大型化したショクシュ目とそれらが作り出すショクシュをも利用したのだ。
このような技術をどのように駆使してザウルが戦ったか、北アマゾネス朝の没落を決定づけたムルタブル郊外の戦いがわかりやすいだろう。以上そのあらましを述べよう。
●ムルタブルの戦いの関連地図
ムルタブルの戦いは、北アマゾネス朝に従属する都市国家ムルタブルのアルジャニス家に帰属する意思をみせたところから始まったらしい。それらに反発した周辺都市群はムルタブルとそれに同調する都市群に攻めよせる。窮地に陥ったムルタブルは救援をザウルに送った。
ザウルはこの情報を同盟国である東ガンダの影響下にある領域国家に送り、攻め寄せている親北アマゾネス朝の国々を攻めさせることに抵抗する。
一方、ようやく国がまとまり続けた北アマゾネス朝は、これらの地域の影響力の低下を憂慮し、ムルタブル一帯の占領をも見込んだ兵力を送ることに決定する。その数は数万以上とザーレ―伝では示している。
このように攻め込んできた北アマゾネス軍に対して、ザウル軍は適度に消耗させつつ、撤退を繰り返し、ムルタブル郊外の平原にアマゾネス軍を誘導させた。
もしかつてのアマゾネス軍ならばこれが偽装敗走であることに気づいただろう。しかしもはや持っているものが多くなっていた北アマゾネス軍は、この都市国家周辺を占領するしか勝利条件が残されてなかった。でないとザウルの軍隊が次々と押し寄せてくるからである。そうなるともはやアマゾネス軍は徐々に後退の結果しか残されていない。このことから、おそらくザウルは情報網を駆使して北アマゾネス朝の政治的なタイミングを見計らって、この決戦に挑んだ可能性がある。
決戦の地、ムルタブル郊外に到着したアマゾネス軍は、ところどころに散らばる丘陵におかれた砦を見て安心したかもしれない。壁が重なったところがあるところがある以外はおかしなところがない平凡な砦である。
アマゾネス軍はアルジャニス軍の馬上弩による狙撃で挑発を受けながらも、砦を各個撃破すべく、立ち向かった。
そこで異変が起きた。強い風が町からアマゾネス軍から吹き付けると、アマゾネス軍の馬は操作を受け付けず、バラバラに砦に突進しはじめた。混乱する中、慌てて制御し改めて壁に突撃したところ、次の異変が起きた。壁の隙間から自分たちの持つ触手よりながい触手が伸び、襲い掛かった。
アマゾネス軍は落馬するもの、壁の長触手にからめとられ悲鳴を上げるもの、大混乱に陥った。その姿は一本の長い触手が、別の太い手に握られ、引き千切られてかのようであった。
完全に戦術行動ができなくなったタイミングで、ムルタブルの城門が開き、混乱したアマゾネス軍を討ち取りはじめる。あとは撤退しか残されてない。アマゾネス軍は素早く決断する。
自分たち以上の誇る弓かそれ以上の射程距離を誇る弩の狙撃、馬があれども敵対地の中での落ち武者狩り、そして退路にあたかも用意されたかのように攻め寄せる東ガンダ同盟軍の兵、6割近くがこの戦いでアマゾネス軍は命を落としたという。
この戦術の種明かしは現代からすれば非常に単純なものである。まず軍馬やショクシュ目に有効な触手が出すフェロモン物質を──これは既存の触手技術の延長上にある──風魔法や自然の風を通じて流すことで、アマゾネス軍馬につなげてある触手や軍馬を砦付近に誘導させる。突進しようとすれば、今まで利用されてこなかった猛獣や大型獣につく触手を培養させた人間にはつかない長触手を使って、兵や馬を固く絡める。それらを肉盾にしたところを弩などで狙撃するというものであった。
基礎的な魔法による誘導と高速築城術、新しい武器と触手を使った対触手戦術の完成がなされたのである。
定住民ならでは可能になる高度な魔法兵と触手騎兵に頼らぬ弩の強化による射撃武器の改良、対触手騎馬兵の専用大型触手の使用などが、アルジャニス朝が生み出した対触手騎兵の対抗策であった。この魔法という兵科の体系的な利用のはじまりこそがザウル文明の軍事的特徴であった。
また一触手技術者からすれば、既存のアマゾネス文明の触手生産方法だと、触手の生産の関係上、端境期がうまれることも指摘しておきたい。触手が活性化する気象条件は結構限られている、フタスタンの触手学者ゲーンミャ女史によると、確かに再生されたアマゾネス人の触手は乾燥域で活動するが、理想的な動きをするとなると季節が限られ、その状態のときには、触手は外的な要因で制御を失いやすいことが報告されている。この現象はわが国の触手技術でもしられ、ウデナエなど各種方言やそれがおこる条件を警句として残してある。
こうしてアマゾネス文明の必勝策である触手騎兵は、彼女たちが利用しない触手と魔法によって敗れ去った。散発的に襲撃をすることはできても、もはやかつてのような圧倒的優位を作ることはできなくなったのである。またこの時、アルジャニス朝が作った戦術形式は対触手兵戦術の基礎となるものであり、これ以降対抗策をめぐって、遊牧民や定住民のいたちごっこがつづくことになる。その歴史もまた興味深いが、それは参考文献を参照してほしい。ムルタブルの戦いはそのはじまりであった。
ムルタブルの戦いの後も、北アマゾネス文明はザウル東ガンダ同盟軍との交戦はつづいたものの、戦略的優位をくつがえす方法はもはやなかった。
南ガンダ諸国の仲介の元、タルニシュ碑文に書かれた北アマゾネスはザウル=東ガンダ同盟軍の講和に応じ、北アマゾネス文明はフタスタンの地方王権としてかろうじて認められ、アルジャニス朝に従属し、フタスタンの地にザウルの総督を置かれることになった。
この歴史的な講和を記念して建てられたのが、タルニシュ碑文である。碑文のそばには、、クルセンヌス大王とガンダ諸王の前にひざまずくアマゾネス人の王と女王が摩崖に彫られている。その滅亡の年は前538年の夏のことであった。
この碑文はアルジャニス朝の人々を誇らしく見下ろし、アルジャニス帝国の繁栄をも見続けただろう。しかしリッセンドル大王によるアルジャニス朝の滅亡後、王都アシュマッドに続く街道沿いの山にあるこの碑文は長く忘れられることになる。そして19世紀に再発見するまでこの地を見下ろし続けた。この碑文ができてからの北アマゾネス文明もまた、アルジャニス朝に従属したため、忘却された。
だが忘却されたとしても、彼女たちはそのまますっと消えたわけではない。そこで地方王権になったアマゾネス朝の動きとリッセンドル大王の東征による滅亡、残光とその影ともいうべき周辺域への彼女たちの文明はどのような影響を及ぼしたのかを次節で説明したい。