触野 千手郎著『騎馬触手技術の完成とアマゾネス文明の興亡』 川満新書 作:HASURYU
【ガンダ文明周辺域の触手技術の拡大とプレアマゾネス文明の触手技術の発展】
前節で述べたように触手技術において独り勝ちしたガンダ文明であるが、その発展は、政治的にも経済的にも、様々なる波紋を内外に起こすことになった。
たしかに農業技術の発展とショクシュ目を含めた役畜の改良はガンダの富を増やすことになった。だがガンダ文明内的の諸国には、繁栄と勃興する領域国家の戦争という形でフィードバッグされてしまった。
勃興する東岸域とガンダ文明揺籃の地であるガンダ亜大陸北西部の諸都市の対立、そしてそれらの戦役に巻き込まれる外国人奴隷と没落庶民たち。領域国家となって規模が大きくなれども、これまでの都市国家とは比べ物にならない大規模な戦争が続く時代。それがアマゾネス文化勃興期前のガンダ文明域である。これに比較できるのは神苑文明圏のいわゆる戦国時代ぐらいなものであろうか。
そしてこの乱世の中、発生した流民や新天地を求める人々は各地方に散発的散らばり始めた。東部海岸域でこのような流民になったものは、大ガンダ地方に移住、土着するものが多かった。
一方で東部と争うことになった北西部の都市の住民は、戦乱を避けてどちらに向かったのだろうか。
まずはアラン文明の辺境域であったガンダ域西部に位置するザウル高原地帯に移住するコースである。彼らは地元ザウル民と融合し、独特の文化と文明を建てる。その独特の地位を確立し、新たな覇権を握るのはまだ先であったが。
そしてそれとは別に、人の流れは北西ガンダから、ダリアネ砂漠を迂回しつつ、高原と盆地が点在し、やがてカスプ海東部大草原へと向かうルートで移動した場合もあった。
後世では薫り高き草原の道と呼ばれ、神苑圏にもつながるルートであるが、この時代でもガンダからアラン文明の中心であるテフネ河支流域へとつながるルートとして重要であった。
特にこのルートは山岳地帯を通ることから、ラピスラズリ、ルビー、ザクロ石、魔石などの宝石と現代でも名高いナーリーン織に代表される毛織物が盛んであった。これらの地域の富をガンダ文明の触手技術と食料、綿織物、優れた鋼鉄も含めた鉄器などと交換した。
またこの時代で最も重要な交易品は奴隷であった。戦乱で敗れた中小都市国家の住民は移住という形でなく、このような形でも根付いた。
乱世においても、いや乱世だからこそ奴隷は価値を持つ。特に各種技能を持ったものは高価で用いられた。それらをガンダ域の都市国家住民は周辺諸民族による奴隷狩り、さらに敵対都市国家や集落を軍事的に屈服させることで賄ってた。
このような殺伐とした世界であることは次の考古学的資料からあきらかである。この時代と同時代のものであるガンダ北西部にあるナルーガ寺院遺跡は、この時代の地域信仰を残す貴重なものである。柱には多くの浮彫が書かれた柱で装飾された凱旋門が奉納されている。
その中には勝者の都市住民が敵対都市国家の女性陣を輪姦する石刻のレリーフが書かれ、凱旋門ははその都市の守護神へと祭られている。さらにこの図には、異民族と思われる騎馬の民に引き渡されている姿も彫られている。
これらの柱には祈祷文が書かれ、これも貴重な同時代の石碑文資料としてある。その書かれている内容を見ると、都市の繁栄と奴隷がよく得られることを祈祷されている。そして同時にショクシュ目の繁栄も並んで祈祷され、しかも奴隷と並び祈られるように定型化されている。
このことから東部ほど盛んではないが、西部でも独特の触手技術がこのころから開発されていることがわかる。おそらく北西部に移住したガンダ文明の担い手たちは。そのため乏しいながらも技術を集め、様々な実験がなされるようになったのだろう。
特にテンタ=ヴェーダ以後、各種動物を利用した触手養殖技術は東部ではなく、西部でも発展する。後代に編集されたテンタヴェーダには、動物を利用した触手育成技術の記述がみられる。触手につける動物の種類と──ラクダなどにつける触手は後代である──、これは写本の比較や口伝の比較により、これらの技術は後代に付加された部分であり、その時代と地域は言語学的にガンダ北西部あたりに成立したことがわかっている。さらに後代アマゾネス文明の中心地の遺跡ナーリン遺跡粘土板群によっても裏付けされる。
このような触手技術の迂回的な発展に、読者は疑問を持たれるかもしれない。しかしこれは考えてみれば単純なことである。
たしかに東部ガンダ海岸域と違って、西部ガンダ域の触手技術は、東部の豊富な植物資源や動物資源を利用することができなかった。しかし、古典的触手技術の完成は、人間をも適合、接続可能なショクシュ目の品種を作り出した。このことによりガンダ西部の触手技術は、発展こそゆっくりにせよ確実に進展することができたのだ。
技術においては、環境や人的技能に依存する技術と環境に依存しない技術との差異が重要であることがわかる。
こうして、プレアマゾネス文明各種役畜の内、乾燥部に適した役畜用の安定した触手が作られた。具体的には当時としては希少で自然任せであった羊、山羊の生殖、母乳増量、栄養摂取接触のための触手技術が発展させられた。
さらにアマゾネス文明以後ではウマとヤクとラクダの母乳増量と生殖用の触手がこの地で完成させられる。さらにサベル域で取られる特殊なキノコ類を使った、より精密な神経分布がこの地域において試行錯誤され、アマゾネス文明によって更なる発展を遂げることになる。
そしてフタスタン地域から静黒海域の技術と出会うことで、新たな段階に至り、遊牧民との出会いで、結晶化するのである。
【アマゾネス文明の揺籃地であるフタスタン地方とアマゾネス文明までの文化社会】
さて古代アマゾネス文明はフタスタンから世界最大の湖カスプ海を中心に栄えた。とはいえ、これらの地域はなにせ大三島島域の住民にとってはなじみの薄い土地なのは否めない。
そこでフタスタンからカソプ海域の気候と地形を中心に説明しておこう。
フタスタンはガンダモル山脈北西部部に位置し、階段状に高原と盆地が入り混じった土地である。典型的な大陸性気候で、夏は非常に暑く、冬は比較的寒い。昼夜の気温差も大きい。降水量は少なく、乾燥している。西部の砂漠とステップ地帯から中部の山岳地帯、そして東部平原域と、気候にもかなりの差がある。
東部平原域では高原域に降る雪解け水や山間部から地下水道を通じて灌漑がなされてるところもある。現代でもこれらの水路を利用したオアシス農業と、乾燥域でも育つ草を使った遊牧がなされる地域である。
またガンダからザウル文明域を経由して、アラン文明と陸路と内水路をつうじて結節する。これは後代に生まれたユラスタン大陸西部のグラムス=レムネ文明の中心地にも通ずるルートにもなり、古代交易路として重要な位置であった。
この時代のルートなら、アマス川を下ってカソプ海東部から湖を渡り、西岸のブーシンなどの河口港を経て、河をさかのぼり、そして山を下りると、アラン文明北東部へとつながる。
またガンダ域から北部シベルまでに至るには、一部のルートを除いては4000~8000メートル級の高いマーヤ山脈を越えなくてはいけない。だがカスプ湖を通じて、北からも交易ルートが交わる。この北からの道は、いわゆるサベル諸国を経てリャンモー高原を経て神苑圏に至る琥珀の道である。
ガンダ域にとっても希少なサベル森林域の産物、毛皮、そして触手塊などに代表される豊富な各種動物資源、医薬品、鉱物資源、金銀や魔晶石などがここから供給されていた。特にサベル北部のハービエン海からとれる北クラーケンの材料は、ガンダでは取れないこともあって、きわめて重要なルートであった。またサベルの金は貨幣として重要であり、資源が豊なガンダ域でも取引量は少なく、各種魔法加工において必要なの魔晶石の流通もこの道を重要なものとして挙げられた。
さらにこのカソプ海の恵み自体も十分に生活の恵みであったことも書いておこう。後代になるが、アマゾネス文明の担い手たちは、ここからとれる淡水魚の河口と調味料をもたらした。さらに各種接着剤や寒天の元になる魚類に寄生するミニスライム種もここでは重要な加工品であったことも指摘しておこう。
原始時代の遺跡やプレアマゾネス文明からの遺跡発掘からわかった限りでは、フタスタン域で住民の生活基盤は、オアシス農業、カソプ海域にそそぐ河川水を利用した農業漁業、から始まったと、考えられる。
だが紀元前1200~1000年ごろ黒静海域で始まった遊牧が、この地域をより新しい状態へと進化する。フタスタンの地に遊牧というライフスタイルが定着したのは、地理的にも近く、紀元前900年ごろであると思われる。
彼らは無文字社会であったが、各地に丘状の墳墓を残した。これらの発掘と骨角器や青銅器の遺留品によって、彼らは黒静海沿岸のボリアーン文化を強く受けた社会であることが判明している。また聖なる木や豹や狼、馬、ドールなどをトーテムとし、これらにいけにえを捧げることもあった文化であった。さらに意匠ごとに深い意味がつけられていたことも、後世の資料──グラムスの文書と、ザウル文明の書類、さらにアマゾネス文明の首都ナーリン遺跡文書から──判明している。
これらの資料によれば、フタスタンの遊牧民は王族ポリアーンに従う部族であったことが判明し、アマゾネス文明が成立したのちでも交易や朝貢などを送っていたようである。
かれらはその行動圏の広さゆえに、ガンダの西北都市国家群やザウルの群小王国などに雇われることもあった。この中には、前述したナルーガ遺跡に奉納するものが現れ、中には中小都市国家に従属する領主になるものもあったようである。
また資料の言語から語族的にはガンダ=ザウル語族が中心でありつつ、アラン語族の住民が混じっている。言語混交地域であることがここでははっきりしている。
しかしフタスタン本土はまだまだ安定したものではなく、後代明らかに荒らされた陵墓なども発見されたことから、下剋上の風潮がある社会文化であった。
したがってこの状況から考えると、アマゾネス文明以前のフターンの社会的状況はつぎのようになるだろう。点在するガンダ域から来た移民の独立都市か古くからあるオアシス集落が点在し、その間を遊牧民が略奪し、交易したりする殺伐とした社会。近代で一番近い社会状況といえば、かつての西部劇で書かれた社会のようなものだろうか。
このような中、アマゾネス文明が花開く。その花の勢いはすさまじく、その香りは強烈であったが、その始まりは二人の賢人ともいわれる女性たち、それに付き従う人々の手によって始まったのだ。
古代フターンの地は、賢者集えるフターン 最果ての知恵の地という名前を後世まで轟かせ、中世の始まりであるハーラン教の到達まで、この地の文化的ヘゲモニーを保ち続けた。
図が汚くて済まない。自作なもんで。