触野 千手郎著『騎馬触手技術の完成とアマゾネス文明の興亡』 川満新書 作:HASURYU
6 アマゾネス文明の勃興 ──そして政治体制と社会、文化と技術
【初期アマゾネス文明の誕生から勃興の歴史】
●民族分布
●フタスタン地図
先に述べたように遊牧民族の交易とガンダ文明の接触の地、アマゾネス文明以前のこれがフタスタンの状況であった。そこに各種新技術の発展から、強力な王権と絶大な軍事を持って現れた。アマゾネス文明の誕生である。この文明は周辺諸国に多大な影響を与えた。
政治勢力としてのアマゾネス文明がいよいよ誕生するのである。その中心となったのはアーミヤと呼ばれたマイネウス氏族の一部族であった。
アーミヤ家の母体となった遊牧民であったマイネウス氏族は当時のカスプ海岸全域強い勢力を持っていたが、さらにその氏族の一つであるゾネス氏族がフタスタン域に侵入、さらに別れたのがアーミヤ氏族(以後アーミヤ家)であった。基本的に祖母氏族であるマイネウス氏族と同じく、静黒海域に中心に活動していた最初の遊牧民国家であるボリアーン文明に朝貢を行っていたのがわかっている。
ちなみにアマゾネスというのは、おそらく”マゾネス氏族の”という形容詞形からきたと推測され、さらにマゾネスというのもマイネー氏族のゾネス部族が短縮された模様である。
アーミヤ家のリーダーであったサーキーは、言語学的に見ても同時代の資料を見ても、珍しいことに、おそらく確定できる限りでも、女性であった。アマゾネス文明がその治世を女王から始まったことは、後世にまで影響を与える。この王権は乱世の諸勢力の思惑渦巻くフタスタンの地を統一し、当時としては相対的に強く女性の権利を認める強い国家を産み、勢力を伸ばした。紀元前800年ごろである。
同時代の資料によると、初代王家であるアーミヤ家は半牧半農の土豪であった。サーキーはその中のリーダーの一人としてガンダ域の諸都市に雇われる傭兵として活躍していたようである。その武勇は優れたものであり、叙事詩にはこのように歌われている
長き手のサーキー 山風の バイユ(サーキの愛馬)にまたがり
あまたある ガダの地の 埃舞える車らを
壊し崩せり 服につく 砂払う如く
長き生き鞭(触手) 舞い振るうこと
雅なことは ウルバーン(妖精)の舞
猛き勢い ダバス(天空神)の雷
またリーダーシップに富み、当時は家督争いに敗れ弱小部族にあったアーミヤ氏族の勢力をのばすため、部族崩壊で難民になったものを保護し勢力を伸ばしたり、積極的に外部の知見を広め学んだ。その知的好奇心はなんと、当時の遊牧民としては珍しく、計算能力やサインを書ける程度の識字能力を持っていたらしい。
そして傭兵として赴いたガンダの地で、奴隷として囚われていたサーリハと決定的な出会いをする。ガンダの地では珍しい女性知識人であるサーリハは、とある弱小都市国家の神官階級であるバルシアス層の娘として生まれた。だが乱世渦巻くガンダ諸都市の抗争に巻き込まれ、奴隷階級におとされた。そしてはるかかなたのフタスタン近くまで流れ着いたようである。サーキーに解放されたのち、公私にわたって彼女の覇道をともにし始める。
サーリハの知識は医学、機械、政治、それに各種ヴェーダにも通じていたらしい。彼女たちが書いた叙事詩にも数学的能力も高いことが歌われた。
さときなるサーリハの 知略の数々 いかなるか
アメン河の幅を 座りて測り 正しく知れる
熱に苦しむ 母子らの 癒すこと
騒ぎうめく人も 笑顔を作る
彼女がしれる 歌と魔は
カスパの海の ごとくなり
その知略をもって、サーリハは宰相に任ぜられ、彼女は生活面だけでなく軍事面でも政治面でも策略を発揮した。このサーキーとサリハによって、フタスタンの地を武力と融和の硬軟交えた手法を使って統一した。その統一期間は実に短く、当時のフタスタンの人口密度は低いといえども、10~15年ぐらいかかったたと思われる。
部族会議で権威と権力を認められ、統一したものの、女性ゆえの王権の不安定があった。当時のマイネウス氏族は、サーキーたちの支持基盤である女権勢力も無視できない勢力はあるとはいえ、男系部族もまた無視できないほど強かったのである。つまり婚姻という形で、鳶に油揚げを奪うように権威と権力を奪おうとする勢力は多かったのである。
そこでサリハは最新鋭の触手技術を応用して、一計を案じる。サーキーに触手による疑似的な性器をつけ、自らを性別超えたものであると宣言させたのだ。そして部族会議でアーミヤが形式上男性という形をとった上で、当時としては珍しくアーミヤとサーリハは同性婚を成し遂げる。
なおこの風習は教団内でも認められ、本人と宗教団体との同意と後見人の保護と義務を得れば、女性ならば誰でも受けるようにした。後述する理由もあるが、この当時としては画期的な婚姻は現代でも大きく受け止められている。
また王の後継者はこれらの女王に対する各部族会議が認めた後継者と養子縁組をする選挙王政を採用することになった。この王の権威と権力は絶大で、直接統治する食邑や各種連絡網や移動の自由を認め、軍事的にも優位にたつ存在であった。
ただしそれとは別に部族会議と元老院の権威をも認め、その上位法の成文法を書き石碑を作り、各地に残した。そのうえ幹部層を生み出す知識人層を握っていたサーリハの教団と連携し、諸部族に影響力を高める。
初代選挙王が女性であったこと、女性中心の教団の知的ヘゲモニーの確立、そして女系部族の支持、このような経緯ゆえに、アマゾネス文明は女性中心の文明となったと考える。
その後、10年ぐらい間、ガンダ文明北西部の諸都市国家の紛争に多少介入しながらも、北西ガンダの地に影響力を伸ばす。こうした辺境域の強力な軍隊をガンダ圏諸国家が欲したのはいうまでもない。こうしてアマゾネス文明は内政を充実させ、当時最新鋭の技術である畜力機関や水車──アマゾネス文明の触手以外の最大の発明──を使った灌漑、それを使った井戸掘削や各種工作機械の発展などを行い富をためる。
この内政安定期の末期になると、サーリハの教団は、既存のガンダの宗教団体と対立することになった。そこで北西部の一部都市国家はアマゾネスに奇襲に近い形で攻めることにした。しかしながらそれを先に察知したアーミヤたちによってカウンター攻撃を受け、壊滅する。そのあとをアマゾネスたちはガンダ北西域に侵攻し、諸都市を占領し始める。フタスタン統一から10~15年後のことである。
こうしてアマゾネス文明は統一から25~30年後にして、ガンダ圏に侵入することに成功し、並み居る北西圏の諸都市国家やその母体である領域国家を攻めた。その勢いはすさまじく、統一ほぼ30年後の初代サーキー女王で軍事的占領、二代目オタカリ女王の治世でガンダ北西部を安定して統治することに成功する。
また強大になったアマゾネス支部族を恐れた王族バイアーンの侵攻を、サーキー女王から二代にわたって受けるが、アーミヤ家の郎党や将軍ヌーメンがこれらを撃退した。さらにアマゾネス文明の二代王後半から三代後半に至っては、王族バイアーンの本拠地である北西部の静海域まで攻め込むことで、ほぼ独立を成し遂げ、粘土板に記録された。
こうしてカスプ海東部からガンダ北西部をも飲み込む大国家が誕生したのである。統一から実に45年後のことであった。これが初期アマゾネス文明の誕生から勃興までの簡単な説明である。
【アマゾネス文明の政治制度と社会】
まずアマゾネス文明の政治制度と社会は、各部族の連合体の中に部族間を超えた宗教団体が包括する社会であった。特にこの制度は古く、ガンダ域の自由思想兼宗教家がフタスタン周辺に布教しはじめたころから始まった。
のちにアーミヤ家の宰相になるサーリハとその教団とその文官も、この中から生まれ発達したものである。
基本部族長と20~30世帯ぐらいで集落をなし、中心となる部族が軍事的リーダーならびに交易品や各種生活必需品の配分と再分配を行った。さらに重要な決定となるとリーダーだけでなく、長老会や各信徒会の決定を経たうえで決定し、集落内の一致団結した行動をする。これらが発展して、やがて選挙王政と部族議会と元老会を含む宗教議会による体制へと変化する。
次に、古代期には教育、社会保障などに重要な宗教的基盤はどのようなものであっただろうか?基本各部族や各家族はアニミズムから発展したトーテム崇拝と先祖への祭祀を行い、そのうえでシャーマニズムから発展した自然神崇拝は、ガンダやザウルの神々が習合し、混交されて信仰された。この後者の信仰は男女問わず参加することができた。このような信仰になったのは、特に部族間のつながりである女性の信仰を集めたことと部族間共有の財産を管理する必要性、特に地下水路管理や金融などの需要があったために発展した。
また不安定な社会でもあったことから、部族を超えた宗教施設はアジールとしての利用もあったことは、付け加えておこう。利害対立があると、たとえ同族のものとはいえすぐに自力救済に走っていたのが、プレアマゾネス社会そして安定したとはアマゾネス文明の実態であった。この時にたとえ目減りする可能性があるとはいえ、外部に金融資産を置いたり、高度な教育を受けた子弟を預けることは、部族崩壊のリスクを避けるために必要であった。この傾向は魔晶石貨幣や金属貨幣の塩の交換権から発展した補助通貨などがサーキー王など代々の王によって発行され、貨幣経済が浸透するとより一層強まった。
この宗教的団体と部族内の利害対立を調整するのが、数年に一度行われる大部族会議である。ここで行われた決定は各部族法の上位法+命令として扱われる。これと各宗教団体が行う宗教祭祀に参加することで、結束が高められた。ここで大部族内の政治的軍事的負担の決定がなされるだけでなく、大規模交易のキャラバンやその利益配分なども行われた。
やがて祭祀場兼交易の場、もしくは各部族の拠点営地が100年ほどかけて小規模な都市となったり、集落となる。これらの点を結ぶルートがいわゆる草原の道と呼ばれ、アラン文明域とガンダ域を結ぶルートとして発達した。
そして定住化するか、都市化した地域に住むのでなければ、ある程度の集団が拡大したら、その氏族から分かれてあらため新氏族として独立する。独立のパターンは様々である。まず遊牧生活に移行するか、宗教団体が中心となる灌漑事業に参加し、農地を与えられ、簡単な農業に移行するか、交易商人兼傭兵として参加することもあった。
またアマゾネス文明が発達すると、次のような独立ルートもあった。アマゾネス文明では、教団に従属する僧兵や部族や都市から一定数割り当てられた兵役者、そして王独自に与えられる独立した育成機関によって鍛えられた王直属の近衛兵によって、強大な軍事力を組織することに成功した。特に近衛騎馬軍は外国人も歓迎し、その部族の保護を名目に侵攻の口実としすることもあり、まさにアマゾネス女王の先兵であった。この僧兵団や近衛騎馬軍も独立先として選択されたのだ。
こうして遊牧と都市文明の連結点としても宗教勢力が必要であったことも、単なる祖先信仰やトーテム信仰と並立して、各種教団がニッチとしての位置を得た理由でもある。フタスタンの地は遊牧文化と定住文化の混交の地であり、それに伴う文化的混交の地であることを最大限に生かして、遊牧民と定住民の長所をそれぞれ取り、発展した。それらの成果である文化と技術はどのようなものであるかを説明しよう。
【アマゾネス文明の文化と技術】
〇文化と教育──文字と宗教施設を中心に
まずアマゾネス文明の特徴は初の遊牧民国家でありつつ農業をも組み込んだ最初の遊牧国家である。その文化は遊牧民の文化だけでなく、定住民にも様々な恩恵を与える文化と技術でもあった。その中で特に重要な文化は文字記録と筆記メディア、そして教育機関の充実であった。
とはいえいきなり彼女たちは文字を駆使し始めたわけではない。アマゾネス文明の無文字社会の時点で、かなり高度な記録体系と内容を持っていた。これらの記録を担っていたのが、専門の部族もあった吟遊詩人や神官層と、そして女性の刺繍や織り方を教えあう、結婚時の仕立て部屋で歌った女性たちの民謡、求婚時に歌われる詩などであった。アマゾネス民族はなによりも歌い踊る民族であった。
この文化的性格はグラムス文明の記録でもはっきり書かれており、舞い踊るアマゾネス、女吟遊詩人の国と彼らの叙事詩にも歌われるぐらいで、伝説の吟遊詩人ケメネスはアマゾネスの子孫のシムネーと歌合戦の末結婚したというのが残されているぐらいである。
またそれを裏付けるがごとく、彼女たちの先祖や彼女たちが作った骨角器や、後には塼や木材にレーリフされた人物像、発掘された高度な刺繍で描かれた風俗図からしても、楽器を奏で、歌い舞う姿が生き生きと描かれている。
このようなメディアを駆使して、最初期の彼女たちのコミュニケーション技術や記録をもっていた。しかしアマゾネス文明が交易の結果による先進地帯の文化接触の末、交易の記録や風習などを記録する必要性、さらに分派した部族の把握のため、原始的な数字記憶体系と部族記号を作り、彼女たち自体の表音文字の原型が作られた。アマゾネス文明の刺繍文化や彫金技術の発達は、このような必要性から発達したらしい。
やがて後代になると、ガンダ自由思想家やサーリハの教団は、象形文字指示文字それらを組み合わせた会意文字の部分などはアラン域の象形文字を名詞記号として借用した。音声文字部分は古アマゾネス記号の簡略したものとガンダ域の文字を補助的に利用し始める。最終的に、表音文字をベースにしつつ、名詞や重要な動詞は表語文字化させた、三島の文字表記体系のように混交した表記体系を作り上げた。
このようにまとめられた文字を使って、各種教団は叙事詩群や各種説話や教団の規則を書き上げ、そのことにより言語がより標準化されることで、アマゾネス文明は部族を超えた文化的アイデンティティが作られる。各部族社会とそれらを結節する宗教文化の混交形態というアマゾネス文明はこうして発達したのである。
また文字の発達はメディアの発達と並行関係にあるが、そこでも彼女たちは大いに貢献した。彼女たちは粘土板だけでなく──図書館や重要な行政記録はこのメディアに記録された──、複数の書記メディアも活用したり、開発し記録した。サベル域のカバノキを使った樹皮メディア、ガンダの貝葉、最後には羊皮紙の原型や樹皮布から発展させた紙の原型をも作り出したのだ。
このように記録するメディアの充実、ガンダ域の既存の権威体制と異なった教育体系、宗教施設による教育施設、さらにはサーキー女王時代後期になると、アラン文明で発達した生涯教育の場である知恵の学院の誕生によって、ガンダともアランとも違う文明を作り上げた。彼女たちの好奇心と知識の強さは、知恵の学院の跡に残された標語からも見て取れる。
汝の武は 鞭の如く鋭く 汝の役畜を守る
汝の知は 速き馬のごとく 知識の沃野へ導く
書かれたものは 浅い草場を持つがごとく 時に応じて使え
記憶されたものは 豊かな草場を持つがごとく 安らかに子孫を導く
そして汝とその友の武勇は この草場と富を守る
この成果は、当時としては先進的な人文知識が──特に語学と言語学、数学と論理学、後には哲学──充実され、記号を使ったテキスト分析と文法規則がなされるほどであった。その知識は後世にはあきらかに名詞修飾と動詞修飾の区別の記号も表記体系に組み込まれ、明晰な論理構造と詩文を組み合わされた形式で文章が書かれている。このことから後期ガンダ文明の文法の高度化に一役かったと、現代では推測されている。
その結果翻訳も多くなされ、ガンダ文明のヴェーダ群、アラン文明の技術書、数学書などが持ち込まれるほどであった。これらの著作は知恵の学院の図書館で貸し出すこともあり、著者には借りられた数だけ一定数の礼金が送られる仕組みであった。
このような施設がアマゾネス文明の及ぶ地にも作られ、これによってガンダ文明の知識は神官層の秘伝から、一般的なものへと解放された。それがさらに新たな知的再構築を既存の上層階級とは違った階層、階級が行い、新たな知的果実が作られる。
そのうえこれらの知識を地方まで及ぼす制度を取った、王の要塞兼学校兼集会場のネットワークである。駅伝制度とも組み合わせれたこのネットワークは、駅伝施設というだけでなく、王の支持を高速に伝えるシステムであった。文献ではこのシステムの拠点は”触れ場”とよばれ、数年にわたる初等教育を行ったり、部族法裁判を行う場、そして部族間の定期的な祭祀、最初は祭りから、やがて冠婚葬祭を行う場へと発展した。
行われる祭りには運動会らしきものもあり年に一二回を行われた。そこで優秀な成績を取ると、大部族会に附属する運動会の出場権を得て、そこで勝つと大会を記念した石碑に名前が残されることになる。
このような巧みな施設運営文化により、アマゾネス文明は最終的に各部族の連合体の中に部族間を超えた宗教団体が包括し、その上を王族の権力と権威がある社会形態になったのである。
教育機関としての触れ場は、儀礼、体育、文字の読み書きから始まり、やがて後半になってくると本人の資質によって叙事詩や楽器、武術や技能の基礎、数学や語学などの交易知識を教わる。しかも会話集や語彙がわからなくなったらどう訪ね推測する方法も教えられ、このことが交易民族としてのアマゾネス文明をより完成された。特に地理については、東はガンダ北東部から山岳部ヤクティス圏、シベル東部、西はアラン文明圏、南はガンダ南部などが教科書と思われる文書に書かれていた。特に南部は人口が多くなると、この地にアマゾネス文明の人たちは移住した模様である。
また触れ場は交易の商館機能をも備えるところもあった。とくに砂漠圏やガンダモル、それにヤクティス圏に向かう峠道や大河の渡し場となると、季節や天候によってはその地にとどまらざる得なくなるからだ。そのような臨時の生活の場が必要とされた。そこで彼女たちは自らの技能や技術を生かしつつ、生活を営み、神殿に通ったり、その付属の図書館や写本屋で本を読んだり、吟遊詩人を雇って集団で聞くようなことも行ったのである。まさに生涯教育を彼女たちは行っていたのだ。
〇アマゾネス文明の技術
彼女たちは遊牧民から定住農業をもフレクシルブルに行う存在であったが、それを結節したのが、今から見れば原始的であるが高い機械技術とそれを活用した土木技術であった。
もともとフタスタン域は川はいくつか流れるとはいえ不安定であり、水力の恵みに乏しい乾燥地帯に生まれた文明であるため、それに適した技術を作り出した。すなわち地下水の利用と活用する技術である。深井戸を発掘し、それらをくみ出して水を蒸発させない地下水路と水道による灌漑、しかも点滴灌漑農法の原型らしきものも彼女たちは行っていた模様である。。
その際の土木工事の労力は初期は人力頼りであった。そこで畜力機関、水力機関による灌漑と井戸の掘削を行い、鉄器を利用した掘削技術を彼女たちは開発に成功する。特に大型車輪による畜力機関と水車の発明は、古代文明最大のものの一つであった。この技術は瞬く間にアラン文明、ガンダ文明、ザウル文明に取り入れられ、この技術の応用を各地で生み出すに至った。またマーヤ山脈北部、ヤクティスの地もこの技術によって開発が進み、ヤクとヤックルの導入も相まって生産力を産み、アマゾネスの同盟者してガンダ東部に圧力をかける。
アマゾネス文明でのこれらの技術は、滑車とロープ、大型歯車による動力移動を通じて各種応用される。まず旋盤に代表される木材加工技術や、原始的な碾き臼に鉱石や穀物のの加工、滑車の技術による重量物の引き上げによる土木工事、攻城兵器、そして深井戸の掘削とそれからでる水をくみ出す畜力によるロープポンプによる灌漑に使われた。それが古代の食料生産力の向上をもたらした。その掘削技術は後年になって大三島上勢域で開発された井戸掘り技術に似ている。
さらに材料の加工だけでなく、完成した長育種の触手を得たことから、高度な加工が可能になり、木管利用の楽器や家具類をも作り出した。発掘されたものでは、精密に加工されたテーブル、水路にくぐるロープを守る管、伝令に使われたメガホン、そして点滴灌漑の原型となった容器がある。
先に述べたようにフタスタンの地は今も昔も毛織物が盛んな地である。そのような中で触手を利用した織物技術は発達する。最後の方になると触手使用前提の改良機織り機も作られ、複雑な模様が作られ、高度な織物がサベル、ガンダ、アランなどに輸出された。また文化依頼の伝統であるサベル域の金を利用した彫金、金細工の存在も発展改良される。
最後に遊牧民社会でもあった彼女たちは自身の強みである、騎馬技術の向上も怠らなかった。この技術こそアマゾネス文明の最大の特徴にして絶大な軍事力を作るに至った触手技術と各種馬具や武器の誕生である。これら技術を駆使して男性中心の戦闘文化を補い、その生産の特殊性から女性の地位をより高めた。これは別章で紹介したい。この技術こそ遊牧民社会の一大転換をもたらし、アマゾネス文明を世界史的な存在としたのだ。