触野 千手郎著『騎馬触手技術の完成とアマゾネス文明の興亡』 川満新書   作:HASURYU

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百合学者の過酷な体を張った(意味深)古代触手技術の再現。

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8 何故アマゾネスは長育種を作ることに成功したのか? その再発見に至るまで

【はじめに──長育種触手の再発見に至るまでの道】

 

 

 このように強力な軍事力をもたらすことになった長育種ショクシュ目であるが、先に述べたようにその力はすさまじいものであると実感できたであろう。

 

 触手補助による筋力増強、それに伴う弓の改良、馬具以前にも可能になった安定した騎馬技術と武術、軍事的に優位に立っている。

 

 この姿がはっきりしたのは、実に19世紀~20世紀後半であることは存外しられてない。というのも長育種ショクシュ目は中世後半13~14世紀にかけて再発見、再導入されたものであり、エウロスの文明でも長育種触手技術は、比較的新しいものである。

 

 それゆえにグラシア文献によるアマゾネス文明の長育種ショクシュ目はあくまで伝説上のものであると考えられた。18世紀にはその非実在も唱えられることもあった。

 

 しかし19世紀になると、エウロス=ガンダ語族仮説とナショナリズムの高まりの中、アマゾネス文明の触手技術再生は活発になる。

 

 しかし19世紀中盤から始まった帝国主義による世界分割に巻き込まれ、フタスタン地域の考古学的発掘は世界分割の最前線であったことであり、その研究が進展することが難しかった。

 

 その最中にも学問的情熱に促された国境を越えた二人の女性アマチュア学者、サラ=リース=タッカーとアントニーナ=アイラトヴィチ=トロイノフによって、アマゾネス文明の触手技術の考察と実験がなされた。この再現実験は、獣姦を行うスキャンダラスな方法であり、当時の学会からの困惑と世間の嘲笑をもって迎えられた。彼女たちの業績はの実験の再現性の困難さと統計的問題もあって、一時忘れさられる。

 

 だが医学、生物学、その延長にある畜産学と触手学、それに考古学、歴史学の発展によって、その仮説は1920年代から再評価され始める。そしてナーリン遺跡発掘とその文献群の解読により、ほぼ正確な方法であることが判明し、1990年代にはフェミニズム的にも先駆的研究であることも考慮された上でその学問的地位を確立した。

 

 その発見に至るまでの過程をこれから述べたい。その過酷な発見のドラマは是非記憶されるべきであるからである。また彼女たちの業績の再評価には、大三島のとある医学上の発見がヒントになっている。その縁も含めて説明し、その負の帰結としての第二次世界大戦の触手技術の戦争犯罪も交えた利用も解説し、その負の遺産と私たちがおうべき義務を考察したい。

 

 そのうえでアマゾネス文明の担い手たちの過酷な触手育成法とその発展の現時点で解明している部分を説明しよう。

 

 再発見のドラマを読者がくどく感じられるならば、後半だけ読んでその技術を参照してほしい。しかし現代の定説とよばれるものは先に述べたように細かい学問の組み合わせで成り立つのであり、その過程には様々な歴史的な重みが確実に存在している。それを是非感じてほしい

 

 

【長育種触手の絶滅による、エウロス文明の古代触手技術の断絶】

 

 

 軍事的にも強力な長育種触手であるが、この技術はエウロス圏においては古代の末期の時点で失われる。理由は後で判明したことも含めて複数ある。順に説明しよう。

 

 まず長育種触手育成にアマゾネス文明の使った方法は端境期というものが存在する。そのため安定した生産方法となるには、後述するが、サーリハの教団のように女性中心による宗教儀式の中に取り入れる必要性があった。強力な触手を生産可能ではあるが生産効率が悪いのである。

 

 さらに紀元前300年ごろ考案された、エウロス北部誕生したスライム利用苗床法による触手枝分け技術の完成がアマゾネス文明による方法を過去のものにしてしまった。この方法は現代でもメインに使われる技術であるが、北方エウロス域に広く存在するローパースライムを利用したもので、乾眠形態をとるショクシュ目コロニーをローパースライムを苗床にすることで、安定した触手疑似器官を作ることに可能にするものである。この方式の画期的なところは、親苗床から産まれた疑似器官を別の苗床に移植可能にし、親と同じ疑似器官を作り出せる点にある。この触手生産技術は大量に各種目的とした触手を作り出せる。

 

 とはいえこの方法には弱点があった。ローパースライムか、ショクシュ目に病気が発生すると、一気に大量絶滅を起こし、各種触手利用の産業に支障をきたすのである。この問題は現代でも発生し、大三島域では20数年前に発生したキヨシマショクシュ種のウィルス性パンデミックによる大量死と、それに伴う海女による伝統漁業崩壊の危機が身近な事例であろう。

 

 株分けされたアマゾネス文明の長育種触手は、グラムス=レムネー文明では国家レベルの管理で生産されていたようである。だが馬具の改良と魔法技術による対長育種触手カウンター戦法の発展により、精密な作業用の触手──織物、医療用、魔法彫金技術などに使われた──以外では、軍事用触手は次第に生産されなくなった。

 

 3~5世紀ごろのレムネー文明崩壊期になると、そのころ発生した気候悪化と触手パンデミックによって、一部の触手を残して品種が激減してしまった。絶滅した品種の中には戦闘用長育種触手も含まれていた。

 

 このようにしてエウロスでは歴史的経緯もあって、長育種触手技術空白の地になってしまった。それが新たにやってくるのは、未曽有の遊牧民大帝国であるリャンモー帝国によるエウロス文明襲撃のことである。それは中世後半のことであった。

 

 

 【中世末期のリャンモーショックからルネサンス、近世までの触手技術の確立】

 

 ● リャンモー帝国

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 リャンモー帝国は地図で見ての通り、神苑圏に隣接した地域で生まれた遊牧民帝国である。この文明は13~14世紀にかけて、圧倒的な軍事力とその優れた騎馬技術、アマゾネス文明以来に改良洗練した弓を中心とした複合戦術でエウロスタン大陸を席巻し、一大帝国を作り上げた。その戦術は今回は説明しない。だがリャンモー帝国の侵攻は、かつてのアマゾネス文明のガンダ域襲撃をより大規模に再現したかのようであった。

 

 この帝国はエウロス文明に多大な影響と文物の交流をもたらした。特に触手技術については、触手鎧の改良と長育種触手の株が手に入った。また触手とも適合したウマも入手した。

 

 これらの触手株は、ハーラン域、そしてリャンモー帝国が間接統治したエウロス東部域に伝わり、やがてエウロス全土に100年程度かけて広がる。それと同時に触手に適合したウマの発展と各種戦争用触手技術も従来の技術と融合することで発展する。

 

 そして16世紀の活版印刷と書物に伴い、より普及と改良が加速し化し、折からのグラムス=レムネー文明の再興運動によって、改めて再評価、研究がなされることになった。そこで国家レベルでの触手管理も行われるようになった。

 

 グラムス=レムネー再興運動の結果、その周辺文明についても関心がより高まり、アマゾネス文明の地同定の試みをなされることになった。再興運動と並行して発生した大航海時代の到来によるガンダ域到来は、よりその情熱を高めることになった。

 

 しかしガンダ本土の触手技術は高度な技術で品種は多量であるものの、長育種技術となると、リャンモー帝国と後代に発生したオーク族の海洋触手を利用した長育種触手がほとんどであり、アマゾネス文明の触手の原型は残ってないように思われた。

 

 また文献分析と言語学上の最大の成果である18世紀後半のガンダ=エウロス語族の仮説により、言語学上の仮説民族が神格化された。その結果アマゾネス文明はこの仮説民族の末裔と同一視されることなった。アマゾネス文明は古代とは別の幻想的な存在になってしまった。

 

 そのような流れを汲みつつ、19世紀の科学と民族主義の時代へと、アマゾネス文明の研究は突入することになった。

 

 

【19世紀触手技術者による再現の苦闘──ナショナリズムと歴史的再現──】

 

● エウロス諸国地図(19世紀)

 

【挿絵表示】

 

 

 

 19世紀になると、科学技術の進展によりその成果が触手学にも応用されることになる。 とくに化学的薬品と生物学と細菌学の発展は、触手学にも恩恵をもたらし新しい品種や安定した触手生産を可能にした。それらの応用技術は人口増加に伴う食糧増加の需要を満たしたのである。また化学療法と触手療法を組み合すことで、健康面でのケアや身体リハビリテーションの原型が高まるのもこのころである。美容用触手や医療用触手も数多く、生産された。

 

 この発展は人文科学においても影響を及ぼした。考古学の発達とその分類によって、技術再現が文献的資料に頼らずに、ある程度考察できるようになったのである。再現可能になり、グラムス文明解明に大きな進歩を与える。それは現代の技術へとフィードバックされ、洗練させられることになる。

 

 このような自然科学と人文科学の並行的な進歩は折から高まるナショナリズムの機運によって大衆化させられ、新たな神話を作り出す。それはアマゾネス文明の触手技術再生にも及んだのである。それがある種の歪みを伴いながら。

 

 18世紀のガンダ諸語とエウロス圏の諸語には共通の祖先を持つという、ガンダ=エウロス語族仮説は、19世紀の歴史と考古学、そして人類学を席巻した。さらにガンダ域のヴェーダ文献解読やザウル域のザーレ―教文献やタルニシュ碑文の発見により、確実なものであるとした。そしてナショナリズムの高まりにより、エウロス各民族がわれこそ正当なガンダ=エウロス民族の後継者であり、ほとんど神話の域にまで高められることになった。

 

 この影響は、なまじっかフタスタン域がほぼアマゾネス文明の発祥の地の候補の一つであると同時に、ガンダ=エウロス人勃興の推定地と近いことであることが、さらに問題をややこしくさせる。アマゾネス文明を正当なガンダ=エウロス人文明に近いものであると想像され、エウロス各地に残っていた伝統的触手技術こそ、その正当な後継者であると主張し始めたのである。

 

 アマゾネス文明の起源についても様々な仮説がなされ、中にはは超古代文明の存在を仮定し、しかも自民族の文化こそ正当なものと主張するものさえあった。だが時間をかけるにつれて次第に淘汰され、二つの学説の再現方法に整理され、歴史学、考古学の主流意見になる。

 

 まずは東神苑圏やリャンモー域の技術をベースに再現された東エウロスの学者が中心に提唱されたミクヴァスク学派によるアマゾネス文明の技術の再現である。彼らは特殊なコンドームに触手塊をいれて品種改良を行い、それらの中から長育種触手を作り出したと主張した。

 

 もう一つは、グラムス=レムネー学とその考古学的発掘とハーラン域の触手技術をベースに再現されたアルペン学派の触手育成法によるものであった。彼らはスライム族を利用した恒温槽を作り出した。それはのちの主流となる苗床法による触手株分け技術の原型であり、この方法によって触手生産を行ったという仮説である。

 

 実際両者の方法によって、既存の長育種触手ならば生産可能であり、それゆえに蓋然性は高いことは確実であった。しかしこれにはウマもしくは人間だけ接続するショクシュならば生産可能であるが、スライムによる媒介をもってしても両者に結合するということが難しいということも明らかになった。

 

 

● グレートゲーム

 

【挿絵表示】

 

 

 アマゾネス文明の触手技術の再生は、こうして岩礁に乗り上げた。またこのころから活発になる帝国主義的政策によるミクヴァスク帝国とアルペン連合王国の対立──グレートゲームと呼ばれる──により、協調して研究することが困難になったことも、原因としてあげられるだろう。

 

 しかしある二人の女性アマチュア学者の研究によって新視点が与えられ、不完全ながら過酷な実験による実証を行うことで、アマゾネス文明の触手技術の再現に確実な一歩をしめした。それがアントニーナ=サラ仮説による触手培養法──通称獣姦法──である。この二人の女性学者の再発見とその方法は、一つの契機になるので、次節でやや詳しく説明する。

 

 

 【アントニーナ=サラ仮説   スキャンダラスな触手育成法の発見】

 

 

 この仮説の誕生には、二人のアマチュア女性学者、アルペン王国のサラ=リース=タッカーとミクヴァスクのアントニーナ=アイラトヴィチ=トロイノフという個性あふれる経歴と人物によるものが多い。以上、簡単に両者の経歴を説明しよう。

 

 サラ=リース=タッカーは1850年アルペン領南ガンダにて医者の娘として産まれた。サラは、1872~1873年クルヌス=ポラン戦争の勃発と、それと同時に隣国アルスのレオ=ディーンの呼びかけによる国家を超えた戦時救護団体呼びかけに、応じ看護婦兼獣医として参加する。そこで同じ呼びかけに賛同して参加したアントニーナ=アイラトヴィチ=トロイノフと出会う。

 

 アントニーナ=アイラトヴィチ=トロイノフ、通称トーニャはフタスタンのクンヌゥーズにて1852年に生まれる。大学の在学中レオ=ディーンの運動を知り、一時休学。この運動に参加することになった。そこでサラと出会ったのである。

 

 両者の美貌と機知、そして知的好奇心と活動的な部分は互いに惹かれあいうことになる。サラとトーニャは永遠の友情と、互いの学問を磨きあうことを誓った。

 

 その中で二人は過酷なクルヌス戦争の難民も含む医療看護活動を従事した。そこである決定的な発見をする。

 

 ある戦争性犯罪の被害者の看護と医療活動中に、触手を胎内に付着する患者を多数発見する。この被害者は獣姦を伴う性的暴行を受けたものであり、この種の暴行を受けたものの中には触手を胎内に宿すことが多いという事例に気が付いた。

 

 トーニャはかつて見た獣姦の骨角器による彫像を思い出した。なぜそれが作られたのだろうか?今では忌まわしい獣姦であるが、過去では神聖なものであった。その産物としての触手があったのではないか?彼女は惨劇の中でそのような仮説を思いついたのである。

 

 逡巡の末、トーニャはサラに仮説を相談し、獣姦もしくはそれに近い技術がガンダ域にないかと質問する。サラは困惑しながらも、南ガンダ域の民間治療として動物の精液を取り出し、それらを触手塊に浸す儀式を経たうえで養殖を行う事例を思い出す。南部ガンダでは民間風俗で儀礼的獣姦が成人女性の通過儀礼として行われているという、東ガンダ会社のレポートを読んだことを提示した。

 

 この仮説はにわかには信じがたいものであり、両者は母国に帰ったら研究し、その成果を連絡しあうことを誓い、戦時救護団体に勤しむことになった。

 

 1873年にクルヌス戦争終結に伴い、両者は母国に帰国することになった。だがその後も頻繁に文通を重ね、その仮説を補強しはじめる。

 

 サラが気が付いたのは、アマゾネス文明同時代のガンダ祈祷文が明らかに変化していることであった。奴隷とともに触手豊饒祈願の文が刻まれた金石文が多く発見され始めた。祈祷する対象も明らかに変わり始める。前期ヴェーダ群ならば、触手祈願はヤクスやその息子たちであるマルト、そしてサレイシアに対して捧げられることが多い。アマゾネス文明勃興以前と思われる時代になると、祈願対象者はヤクスではなく軍神イプドゥルとマルトと地域神に捧げられたものが多くなってくる。また自由思想家たちが信仰しはじめた世界法則を擬人化したリートゥ、知識を擬人化したアガーンなどの抽象概念に捧げられることも少なくない。サラはこのことで、古典的触手技術がガンダ伝統的なものと離れ、ガンダ文明北西部では奴隷を使用した触手養殖法が確立したと結論付ける。

 

 一方、トーニャも調査をしはじめる。帰国すると改めて獣医学と触手学を学びつつ、先行研究やフタスタンやその周辺域の触手の民族習慣ならび伝承を集め始めた。その結果、過去のこの地帯には儀礼的獣婚がなされていたという例証をあつめた。さらにその風習があるあたりで発掘された骨角器は儀礼的な獣姦が彫られたものが多いことを分類する。中には番号らしきものがあり、どうやらこれらの彫像は安全に獣姦を行う手引きとして使われたのではないかと仮説した。

 

 また触手学のほうでも、胎内に寄生するショクシュ目の存在を調査し、やがてウマやヤギに寄生虫を駆逐するショクシュ目を見つける。ガンダ域からフタスタンにかけて住むガンダハラスミショクシュはありふれたショクシュであり、やや乾燥域でも育つという特徴以外地味なものであった。過酷なフタスタン域でも生存可能なショクシュ目の存在は、彼女たちに自己の仮説を裏付けるものとして、サラとトーニャ両者を勇気づける。

 

 そしてトーニャからとりよせたガンダハラスミショクシュの触手塊とガンダ北東部の触手塊を専門の触手学者に交雑実験したところ、長い触手が作られることが判明することで、長育種の原型に近いものが得られた。

 

 この実験結果と各種先行研究と考古学、人類学的研究を二人はまとめたうえで、1875年『古代北西ガンダ域の触手育成法再現の一つの仮説』という論文を、匿名人物の名でアルスアカデミーズに提出する。

 

 彼女たちの論文で実証し、示したのは次の仮説である。

 

 

 (1) 触手の天敵である乾燥地帯であるが、一部のショクシュ目には乾燥域に適応すべく成虫第二次群生形態になっても胎内に寄生する種がある。

 

 (2) さらにこのショクシュが多く生息する地域周辺は儀礼的獣姦の風習が残っている地域、もしくは風習があった記録が多く残っている。

 

 (3) また金石文の祈願内容と祈願対象の変化により、おそらくガンダの既存の知識人層である、僧侶階級とは別の技術者層が入り込んだことで変化した。それはおそらくボリアーン人のトーテム祭祀から来た技術であろう。

 

 (4)ボリアーン人はおそらく儀礼的獣姦によって、ショクシュ目を培養した。その際にガンダ域のショクシュ域と融合し長育種を作り出した。

 

 (5)やがてこの方法が広まると、ボリアーン人と北西部ガンダ人は触手育成のため女性の性奴隷の利用し、広く乾燥ショクシュは根付くことが可能になった。

 

 (6)おそらくアマゾネス文明は既存の触手養殖法を改良改善し、それが原因で権力を握り、(1)のように遠く南ガンダまでその技術が残った。

 

 

 多くの人類学的知見と考古学的知見とヴェーダを中心とした文献など、豊富な資料提示、さらに触手学による再現した種の再現も含めて発表したものである。

 

 論文を巡ってアカデミーズは絶賛と困惑をもたらした。新方法による触手品種の改良の発見と先行二学派にない視点は福音であったが、当時のアマゾネス文明の想像された姿とはかけはなれたものである。

 

 二つの学派を出し抜けるかもしれぬというアカデミズム的打算と世間からの評価を勘案し、アルスアカデミーズは次のような決定を行った。妥協案として、ハラスミショクシュとガンダ域の伝統触手の交雑の研究の成果だけを評価して後は黙殺することした。また彼女たちの方法でも人と馬とをつなげる触手という長育種特有の性質の再現にはいたらなかったことも、減点材料になった。

 

 教授たちは二人のレディに老婆心ながらも、忌まわしい仮説を考えることをたしなめ、研究を断念すること勧める。

 

 しかしこの二人のアマチュア学者は引き下がらなかった。この仮説の実証をかなり正しいと確信していたし、なにより触手技術が儀礼的なものから始まったものであれ、それは性暴力の痕跡を残した産物であることを無視されたくなかったのである

 

 論文の発表を契機にトーニャはアルペンへ移住し、サラと合流する。二人は今後の研究をどうするかを考え相談する。そして苛烈な決断を二人は行う。安全性を考慮するとはいえ、仮説を確かめるべく、獣姦を我が身で試すことに決めた。

 

 まずはサラ自身がこの実験を行い、各種実験パターンが試された。その細かく気の長い方法は、参考資料を見るとすさまじいものである。途中からサラの弟エリオット──のちに医者兼触手学者になる──の協力を得、研究を続けること、2年ほど過ぎた。

 

 ある日サラとトーニャ、第二成体である疑似器官の形態に変化があることに気づく。その器官を作った触手株は特殊な胎盤とともに月経時に排出されたもので、その経緯により関心をひくものであった。その疑似器官は腱構造を持ち、自由自在に動きそうであり、しかもこれまで作ってきた触手よりも長かった。体長は70㎝ぐらいであろうか。

 

 おそるおそるサラはその触手を自分の手に寄生させると、馬上用の長育種触手にも似た感触があった。さらに彼女はヤギにもその先端の先を接続させる。そしてそれは無事接続し、サラはヤギと接続しながら、触手を動かすことができたのである。

 

 努力はこうして報われた、無事ガンダハラスミショクシュとガンダ域の伝統触手は獣姦法でも交雑し、なおかつ長育種の性質を持つことに成功したのである。

 

 この新種の触手を専門家にみせると明らかに新種の触手であると太鼓判を押された。

 

 さらにウマなどでも交配可能な実験器具を作り、ウマにも接続可能なショクシュをも作り出した。その生産効率と再現性はやや低いとはいえ、各種役畜との接続可能なショクシュはこの原始的ともいえる方法で生産可能になったのである。

 

 改めて二人は実験と方法をまとめたうえで、証拠として新種の触手を提出したうえで、1879年、『原始的方法による触手育成法と触手改良実験──人畜交配法による』という一連の論文を発表、匿名でアカデミーに提出する。

 

 

 アントニーナ=サラ仮説とその実験は、あらゆる意味で衝撃的であった。

 

 まずレディともいえる二人が倒錯的な方法で新技術の実験を行ったこと、それ自体がスキャンダラスだった。当時のエウロス社会は強いイシュク教倫理に支配され、表向きは女性が学芸に従事するのは、緩められたとはいえ、憚られることが多かった。各地域でも基本獣姦は倫理的にも禁止されている。それを破ったことは衝撃的だった。ましてエウロス社会の当時の価値観は、表向きは性的なものを生殖にのみ限定し、その快楽を得ることは厳禁であった。

 

 その研究結果は当時の半ば理想化、神格化に近いエウロス=ガンダ人幻想を打ち砕いた。当時のナショナリズムのアイコンであった、彼女たちの突き付けたアマゾネス人は、野蛮な方法を持ったこの時代の異なる、他者としてのアマゾネス人を彼女たちは突き付けた。

 

 科学論文としての手本として出していいぐらいの冷静な文体と、その煽情的な方法が同居したレポート内容を、アルスアカデミーズは二重に困惑しながら査定した。そして不備の少なさに舌を巻き、論文に示された改良再試方法を行うことした。

 そして明らかに、既存の長育種触手に似た触手の品種を作り出すことに数は少ないとはいえ成功した。こうして、しぶしぶながらもその実験の確かさを認めた上で、評価をどう

するか、議論をかさねた。

 

 前回と同じように議論は紛糾した。保守的な学者は、このような方法が認められてしまったら、色物学者が増えるから拒否すべきだと主張。一方で新進気鋭の学者は、その過酷な実験とその自己犠牲的精神を評価し、またその視点の革新さを評価した。議論を重ねた末、匿名ながらも民間博士号──アマチュア学者の最高権威──を与えることにした。実験の無謀さを批判しつつ、二人に一定期間(具体的には死後まで)の発見者を匿名にすることを条件にして、民間博士号を受けることになった。トーニャとサラは匿名筆者の代理人として賞を受け取った

 

 改めて、危険でない実験方法を確立してほしいと教授たちにいわれ、彼女たちも同意した。こうしてこの実験はスキャンダラスながらも、アカデミズムの中で事件はおさまった。サラたちも教授たちの支持に従い、改めて安全な品種改良法をどうおこなったのかを考察しつつ、中層階級の女性の義務を果たしつつ、正当な触手研究を続けた。

 

 しかし発表から2年後、このアカデミズムが隠した実験を思いがけない形で発見され、スキャンダルとして騒がれることになった。その経緯は省くが、当時の世間はこのような実験があり、なされたことに避難殺到した。とくにエウロス=ガンダ語族を神話化した各種民族団体は、尊いアマゾネス文明はこのような野蛮なものではない。それを貶める女性科学者は民族的にけがれていると主張した。

 

 このスキャンダルによって、実験の再試の困難にさらされた。このような実験がなされることを知って、アカデミズムも含めて実験協力者が現れなくなったのである。また数学者による論文の統計面での不備も指摘された。たしかにこの実験データを当時の主流の検定法で見ると、やや有意でないのである。こうして再現性でも疑われることになった。

 

 世間的にも、また実験的にも限界が来つつあった。そして二人をして決定的にエウロスからの離脱を考えざる得ない事件が発生する。トーニャへの殺人未遂事件とその裁判である。その裁判の結果は、明らかに被害者であるトーニャやサラにとって不当なものである。

 

 身の危険から逃れるため、ガンダ省の嘱託医として赴任することになったエリオットに二人は同行し、南ガンダへとひきこもることになった。

 

 もっとも単純にひきこもったわけでなく、トーニャもサラもガンダ南部の農村医療と獣医技術を教えたり、地元民のアルペン語教育を行って、長いこと過ごす。

 

 そしてそのスキャンダルが忘れられたころ、三人は連れ立って1900年に母国に帰国する。

 

 二人の先駆的な女性学者の再発見は、その学問的スキャンダルとそれ巻き込まれた関係者たちの意欲低下もあって、表にでることはなくなった。

 

 思い出されるとするならば、ミソジニーにまみれた煽情的な本や、自民族中心主義の本の中で愚かで変態学者の事例として扱われる程度であった。

 

 関係者もまた、別の問題に直面していた。事件のほとぼりがさめた15年後、三人は帰国した。首都カンターヴの外科触手医として病院勤務になったエリオットを中心に生活を共にしていたが、研究を再開しなかった。

 

 というのも三人は、触手労働者も含めた労働者運動やその生活改善事業に精力を傾けていたのである。彼女たちはその運動に偽名を使いながらも参加してたが、そのような多忙の中では実験は行われようがなかった。彼女たちの10年以上に及ぶ運動はそれだけで興味深いが、それは参考文献を参照してほしい。

 

 とりあえずの運動の成果と後継者の引継ぎをしたのち、サラは1915年にトーニャは1921年に没することになる。

 

 サラとトーニャの死後、ようやくエドワードは彼女たちのテキストや自分たちが行った実験記録を編集したが、積極的に行動することはできなかった。家族にこの実験の意義と目的を教えつつ、自分たちの死後公表することを子供たちの自由意志に任せたうえで、1928年にエリオットも愛する妻と家族の元へと旅立った。

 

 残された家族は想像していたよりもスキャンダラスな関係と実験に驚いたが、故人の遺志に従い、公表はともかくその文書と記録群を保管することになる。

 

 こうして、人畜交配法による触手技術は表向き忘れ去られたのである

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