真剣で旭に恋しなさい!〜月鏡、朝日に照らされて〜   作:夢迷月

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投稿に間が開いて申し訳ございません。ちょこちょこ更新していきます。あとルビ機能を初めて使用してみました。


第十六話

 

 

 相馬巴は、夢を見ていた。彼にとって最も大事な日の記憶。しかし、青年が日頃たまに見ていたものよりも鮮明で、当時の五感まで深く深く想起させるような、そんな夢。

 記憶の中、髪を一括りにした相馬巴は木曽の山奥で逆巻く炎に囲まれながら、父親である相馬遙と対峙していた。

『父さん。俺が、あんたを殺すよ』

『ああ。殺してみせろ。修羅と呼ばれた俺を越え、お前は相馬として完成するんだ』

『完成するとかしないとか、そういうんじゃない。あんたが狂って、おかしくなってるから、俺が殺してやるんだ』

 息子の語り口に父親は苦笑した。喉が焼け付くような熱にさらされながら、親子は最期の言葉を交わす。

『美鈴譲りで、優しい子だな……行くぞ、巴』

『……来いっ!』

 この勝負は、ある種の儀式だった。親から子への、継承の儀式。

 相馬流には四つの奥義が存在する。

 一つは受けの極意、"行雲流水(こううんりゅうすい)"。

 一つは気を用いた二段構えのフェイント技、"(かさ)桔梗(ききょう)"。

 一つの名は、"月鏡(つきかがみ)"。

 そして一族最高の天才だった巴が唯一習得できていなかった技の名が、"断風(たちかぜ)"。太刀風とも書き、相馬流において一なる太刀と呼ばれる奥義。

 これこそが、壁越えの強者たちをして相馬遙を修羅と言わしめていた必殺の奥義であった。

 父との決戦を経て相馬巴は断風を継承、体得し、正しく相馬として完成した。一族の長い歴史で誰も成し得なかった、四大奥義全ての習得に成功したのである。

 やがて記憶の場面は移り変わり、闇のように黒い眼と光り輝く金の瞳で出来た目、龍眼を持つ史文恭との対戦へ。

『ほう。まだ立つか。確かにお前は私より強いが、今この状況では引くべきだと分からんか』

『んなこと、わかってるよ! でもな、女後ろに抱えて、そう簡単に引けるかよ!』

『まったくお前の父親と言い、相馬の男というのは不合理な生き物だな』

 そして―――巴は敗北する。体力も限界だったが、なにより彼自身の心がへし折られていた。

 それから思い出すのは……

『立ちなさい、巴。私も戦うから』

 黒く艶めく長い髪を靡かせる、凛とした背中。今や巴が世界で一番愛する女は、煌々と燃え盛る炎に照らされて太陽のように輝いていた。

 黒々とした鉄塊、狼牙棒を振りかざしながら史文恭は笑みを浮かべる。

『ふっ。炎に囲まれているとはいえ異常な発汗、剣尖の微小な震え。怯えているのが手に取るように分かるぞ、最上の娘』

『だから何だと言うのかしら。生憎、大切な人が倒れているのに見過ごすことなんて出来ない性分なの』

 震える足で大地を踏み締め、史文恭を睨みつけながら虚勢を張る旭はこう続けた。

『もう一度言うわ。立って、巴。私一人じゃこの人を倒せない』

 折れた刃を熱し、叩き直すような叱咤。

『私には、貴方が必要なの』

 この言葉を聞いて、相馬巴は立ち上がる。この男が、最上旭に心から惚れ込んだ瞬間でもあった。

 結局、曹一族の襲撃は史文恭の撤退により終結を見た。一度敗北したとはいえ、巴は旭を守ることに辛くも成功したのである。

『相馬巴。この場は退くが、いずれ貴様のことは迎えに来るぞ。首を洗って待っていろ』

 記憶の最後、疲労の余り再度倒れ伏した巴に、史文恭は去り際吐き捨てるようにしてこう告げ、姿を消した。

 

 

 

 

 巴が鮮明にこの夢を見たのは、この記憶自体が相馬巴にとってトラウマであるからではない。

 ヒューム・ヘルシングとの決戦を控え、彼に勝つために記憶の箱をひっくり返した結果、この瞬間に立ち止まったからである。

 すなわち、最強との勝負を決する技とその策を再確認したのだ。

 だが、苦い記憶であることには変わりなく。

「……え! とも…!」

「あき、さん……?」

「巴!」

 朝起きた彼が目にしたのは、心配そうに顔を覗き込みながら、ぺちぺちと頬を叩いてくる恋人の姿だった。

 

 

 

 2009年 6月 30日

 

 脳にかかった靄を払うように一度かぶりを振った男は、名前を呼んでくれていた恋人にぼんやりした口調で話しかける。

「……いま、何時?」

「四時半。貴方のうめき声で起こされたわ」

「ごめ……あっ」

 謝ろうとした巴の頭を、旭はふわりと抱き締める。胸に顔を埋めるようにして巴からも腕を回した。浅い呼吸を繰り返すと、甘い匂いが男の肺を満たしていく。

「私の声にも反応しないなんて。怖い夢でも見たの?」

「……うん」

「珍しいわね、素直に認めるなんて。昨日からほんとに甘えん坊さん」

「旭さんに、嘘つけないから」

 彼氏の返答に気を良くした女は、男の手触りの良くない髪を撫でつけながら上機嫌な声で諭すように声をかける。

「カッコいいところを見せようとしてくれる貴方も好きだけど、私にはこういう面もいっぱい見せて欲しいわ。恋人なんだもの」

「……ありがと、旭さん」

 頭を撫でるのを続けつつ、女は男に質問を重ねていく。

「やっぱり、ヒューム卿との決闘で緊張してるの?」

「緊張はするさ。なんたって、あの人は最強だから」

「でも、勝てるんでしょう?」

 巴は旭の胸の中で頷いた。その骨太な体は、密着していなければ分からないほど微かに震えている。

「勝つよ。君がいる限り、絶対に俺が勝つ」

 自分に言い聞かせるように言葉を吐き出す男の頭を、旭は白い手で撫で続けた。

 そのまま五分ほどが経過したところで、巴は旭から体を離す。

「ありがと旭さん。もう大丈夫」

 微笑みかける男に、その内心を看破している女は薄く笑って語りかける。

「その割に名残惜しそうだけれど。おっぱい揉む?」

「……」

 もみもみ。

「ぁん……ふふ、大胆」

「なんか、クセになる」

「そんなに大きくないと思うのだけれど」

「旭さんの体なら全身大好きだよ」

 手のひらに収まるサイズの胸を巴が優しく撫で回していると、不意に旭が細い体をぶるりと震わせた。

「どうしましょう、巴」

「どうしたの?」

「発情しちゃった」

「性獣だね……おわっ!?」

 驚愕の声を上げた男は仰向けに体をひっくり返され、濡羽色のカーテンに包まれた整った顔で視界が埋め尽くされる。黒曜石の瞳に見下ろされて、巴の体もゾクゾクとした感覚に震えた。

「ねえ、しましょ?」

 旭は甘い声で素直なおねだりをぶつけたが、男の反応はやや鈍い。

「……なんか、この流れですると旭さんを慰み者にしてるみたいで嫌」

 悪夢を見たからと言って、その悪感情を誤魔化すために体を利用するような行為は男の好まざるところだった。

 しかし、濡れた瞳で恋人を見つめる女は男の耳元に口を寄せてこう続ける。

「じゃあ、私がしたいから、させて?」

「うぐ……」

 耳朶に熱い吐息を吹きかけながら誘惑してくる恋人に、顔を赤くした男はあっさりと折れた。一応、申し訳程度に男の意地を見せつつ。

「じゃあ、俺がしたいから、抱くよ」

 この一線は巴にとって譲れないところだった。今の彼にとって、性交渉はお互いにしたいからするものなのである。

 巴御前の返答を笑って受け入れた旭将軍は、キスを一つ落としてからこう命令した。

「いっぱい、愛してね……?」

 1発やった。

 

 

 

 

 シャワーと朝食を済ませた二人は、幽斎が運転する車に乗って川神学園へ向かった。

 車から降りると、幽斎を含めた三人はカメラとレコーダーとマイクの群れに囲まれる。

「最上さん! クローンは他にいるのですか!?」

「木曽義仲さん、先日の決闘の感想をもう少し詳しく伺えますか!?」

「隣にいる方は恋人ですか!?」

「皆さん来ていただいてありがとうございます、お一人ずつお答えしますので……」

 怒涛の勢いで送迎車に群がる取材陣を旭がなだめようとすると、舞台役者のようによく響く声がその場の空気を揺らす。

「皆さん、もう少し節度を持って取材していただけると助かります」

 二人の同級生、京極彦一の言霊である。これを聞いた記者たちは雷に打たれたかのように直立してから、後日また伺いますと言い数名を残して帰社してしまった。

 幽斎と旭が節度あるインタビューを受けている間、助け舟を出してくれた友人に巴はお礼を言いに行く。

「……助かった。ありがと、京極くん」

 和服姿の美男子は、友人の礼を険しめな表情で受け止める。

「なに、君たちがされていたのと逆に、学園生の目立ちたがりどもが記者の方々に群がってご迷惑をかけていたのでな。どちらにも良いよう配慮しただけだ」

「なるほど。それにしても、言霊って凄いね」

「誰にでも備わっている能力だよ。私のものが特別であることは認めるが、言葉にすることは何を発するにせよ自らや他人に力を及ぼすものだ」

「それはまあ、確かに」

 巴は旭との早朝のやり取りを思い出して納得した。

 男二人がとりとめもない話を続けていると、10名ほどの別の集団が近づいてくる。彦一にとっては見慣れない面子だったが、巴と旭にとっては馴染み深い、評議会議員の面々だった。

「おはようございます! 最上議長」

 元気よく揃った挨拶に、取材から解放された旭が笑顔で応じる。

「あら、おはよう主税。どうしたの、みんなで揃って」

「議長、昨日のテレビ出演、お見事でした」

「とってもかっこよかったです!」

「奈々もありがとう。私の正体を知って、みんな驚かなかったかしら?」

 この言葉に、旭将軍の下に集った者たちは揃って首を横に振った。

「そんなことはありません。たとえクローンであっても、議長は最上議長だと再確認しました。これからも僕たちは議長に付いていきます。これは議員の総意です」

「みんな、ありがとう」

「ふふ。旭、よい仲間を持ったね」

 父親の賛辞に、娘は美貌を綻ばせて喜ぶ。

「ええお父様。最高の仲間たちよ」

「うんうん……おっと時間だ。では私は失礼するよ。巴くん、そして皆さん。旭のことをよろしくね」

「幽斎さんも、お気をつけて」

 これからまた関係各所に顔を出すと言う幽斎を、旭将軍と取り巻きは見送った。

「……なんというか、最上くんの父上は底の知れない人間だな」

 普段の切れ味はどこへやら、言霊使いの分厚過ぎるオブラートに包まれた人物評だった。

 遠ざかるテールランプを見送った一同は、校門を潜る。

 するとそこにいたのは、木曾義仲に勝負を挑むべく待ち受けていた武芸者の集団だった。

 そして、その中心から一歩を踏み出したのは。

「お待ちしておりました。旭先輩」

 刀を入れる袋を持った、黛由紀江。巴との決闘の際に彼へ向けていたものに勝るとも劣らない眼光で、彼女は木曾義仲を睨みつけていた。

 しかし、最上旭はその程度では揺らがない。僅かに口角を上げながら、親友に語りかける。

「あら。そんなに怖い顔してどうしたの、由紀江」

「正式に決闘を申し込ませていただきたく思います」

「理由は?」

「昨日のテレビでの決闘、お見事でした。ですが、もう少し実力が伯仲している相手であれば、躊躇なく斬り捨てていたでしょう」

 後輩からの詰問に、最上級生はあっさりと肯定を返す。

「ええ、そうでしょうね」

「しかもそれは、相馬先輩と出会ったからとかそういうわけではなく、旭先輩生来の性質として」

「ええ、そうね」

「……そうなる前に、私が全力で止めます」

 こう言って黛由紀江は袋から刀を取り出し、柄に手を添えて清冽な闘気を解放する。勝負を挑もうとしていた武芸者たちの半分はこれだけで怖じけていた。

「由紀江、それは親友として?」

「はい。友として、貴方を諌めます」

 由紀江の真摯な言葉に、旭は真剣な表情を作って昨日の問いを持ち出す。

「私のことをまだ友達と言ってくれるのね」

 友という言葉の繰り返しにまったく動じることなく、由紀江は川神学園の流儀に従ってワッペンを地面にそっと差し出す。

「私の先輩に、友とは欠点を指摘できる間柄だと言う方がいらっしゃいます。もし旭先輩が人を斬ってからでは遅い。ですから、私と勝負していただきたく存じます。もちろん友人として」

 島津岳人の言葉を引用しながら、剣聖の娘は体内に気を充満させていく。

「太刀をお取りください、旭先輩」

「……ごめんなさい、由紀江。この決闘、受けられないの」

 だが、親友の必死さとは裏腹に旭将軍は請願を拒んだ。

「私の相手はあくまで義経。義経との決闘が終わったら、そちらの方々との勝負もお受けするわ。でも、それまでは待って欲しい」

「義経さんも、斬るのですか」

「場合によってはね。やるならもちろん真剣勝負だから」

「……相馬先輩は、それでよろしいのですか!」

 怒号とも悲鳴ともつかない叫びを、巴御前は受け流す。

「良いも悪いもないよ、由紀江さん。俺の主の言葉だ」

「結果、旭先輩が死んでもいいと?」

「んなこたあ言ってない。一生恨まれようが旭さんが死ぬなら止めるさ。旭さんがいなくなったら、俺も死ぬしかないから」

 朗らかに笑いながら、巴は続ける。

「そもそもの話、こんな数の挑戦者に旭さんが囲まれててなんで今俺が出しゃばらないか、分かる?」

「……絶対に負けないから、ですね」

「大体その通り。さっきもうちょっと伯仲してたらどうこう、とか言ってたけどさ。由紀江さんなら勝つこと自体は可能でも、正直命がどうこうなるような実力じゃない。それに他の……」

 待機している挑戦者の集団に、快活さを表すような赤い髪をポニーテールにした川神一子が居るのを一瞥してから、相馬巴は単なる事実を言語化する。

「……他の有象無象に負けるほど俺の主は弱くないし、そんな人間に俺は人生を捧げたりしないよ」

 ここまで挑発した上で、巴御前は目を細める。あまりにも冷たい視線に晒された挑戦者たちは身を震わせた。

 だが、その挑発を真に受けた愚か者が一人。作務衣に似た服装で、無精ひげを生やした老年の男が一歩歩み出る。

「木曾義仲サン。勝負を受けないってのはどういう了見だい」

「私の相手は、元来義経のみ。彼女との決闘が終わってまだ私が生きていたら、お相手するわ」

「はっ。こちとら老い先短い身、そんなの待ってられるかい。それとも何か? そこにいる兄ちゃんの陰に隠れてなにも出来ないお人なのかい? 英雄の名が泣いてるぜ」

 この身の程知らずで愚かな言葉を聞いた相馬巴は身を震わせる。だが、その理由は怒りではなかった。

「……そう、やはりそう見えるのね」

(うわ、旭さんめっちゃ不機嫌になってる)

 隣に立つ恋人兼主人から発せられる不穏な空気を敏感に感じ取った恐怖から、男は怯えていた。最上旭という人間は感情の起伏が薄いわけではなく、その機微を表に出さない程度の自制心があるだけなのである。

 戦慄している従者に、旭将軍は簡潔な命令を下す。

「巴。手、出さないでね」

「委細承知」

「あー、やだやだ。せっかく木曾義仲サマと決闘出来ると思って川神くんだりまで来たのに、とんだ腰抜……」

「そんなに喋っていて、いいのかしら?」

「うおっ!?」

 口を動かし続ける愚か者の懐に、旭は一呼吸で潜り込む。

「なめてもらっちゃ、困るねえっ!」

 武芸者もさるもの、一瞬で目の前に現れた相手へバックステップしつつ持っていた鎖鎌で迎撃を試みる。しかし、軽快な風切り音を鳴らしながら襲い来る武器の持ち手を旭は易々と掴んで見せた。

「これで正当防衛ね。せいっ!」

「ぐわああああっ!」

 そのまま鎖鎌ごと不調法者を引き寄せた木曾義仲は、下方からの鋭い蹴り上げで老武芸者を遙か空の彼方へ吹き飛ばした。

 飛んで行った方向に向けて深々とお辞儀をしてから、旭は挑戦者たちへ向き直る。

「さて。ではあなた方の挑戦を受けるのはまた後日、ということでいいかしら」

 頷く者、逃げ出す者、腰を抜かしてへたり込む者。様々な反応を残しつつも、腕試しのために集った人間たちはほぼ全員、旭将軍の言葉を受け入れたのだった。

 残った数少ない人間のうち、怖気付きもせず緊張の糸を張り詰めさせたままの親友に旭は語りかける。

「由紀江も、そういうことでいい?」

「……今後旭先輩が人を斬った場合、真っ先に勝負を挑むことは宣言させていただきます」

「いいわよ。楽しみにしておくわ」

 ここまで会話した上で、評議会議長は軽快なターンを見せて半回転する。黒い瞳の向かう先には、先ほどから声をかけようと機を伺っていた好敵手、源義経がいた。その周囲には弁慶、与一、大和が立っている。

「というわけで、おはよう。義経」

「はっ、はいっ! おはようございますっ! 義仲、さん」

 ライバルからたどたどしくも名前を呼ばれて、木曾義仲は表情を柔和なものにする。

「ふふ。是非あなたにはそう呼んで欲しいわ」

「それで、その」

 もじもじと口籠る義経に向けてライバルはころころと品良く笑う。

「馴れ合うつもりはないと言ったけれど、あなたと学友ではありたいと思っているの。後ろにいる弁慶も与一も、気軽に話しかけてくれていいからね」

「……! はい、ありがとうございます! 義仲さん!」

「お気遣いどうも」

「……どーも」

 清らかに笑う主人と、警戒したままの従者二人。後ろ二人の様子を意に介さず、旭は義経に真剣な視線を注ぐ。

「昨日、私の実力を少し見せたけれど……感想を伺ってもいいかしら?」

「素晴らしかったです! 敵の技をするすると避ける体捌き、そして何より刀を抜いた瞬間と、最後の一太刀、見ていて思わず震えました!」

「ああ……もっと褒めていいのよ、義経」

(あ、機嫌良くなった)

 ライバルからの褒め言葉で愉悦に満ちた笑みを浮かべる旭を見て、巴はほっとした。

 だがそれも束の間、旭将軍は真剣な声色で義経へ語りかける。

「一つ、貴方の意志を確認しておきたいことがあるの」

「意志、と言われますと」

「―――私と果し合いがしたい?」

「……っ!?」

 旭の言葉で、この場にいた全員が息を呑む。そして、挑戦状を真っ向から叩きつけられた義経が、同じく正面突破で応えた。

「はい。義経も、貴方と勝負がしてみたい」

「もちろん、刀を抜いての勝負で」

「義経の全てで挑ませていただく。そうでないと勝てないし、何より貴方に失礼だ、義仲さん」

 ライバルの力強い返答に、旭将軍は嬉しがりながらも余裕のある笑みを浮かべる。

「最高よ、義経。さすが、私のライバルと言ったところね」

 でも、と旭は言葉を継ぐ。

「私と貴方が勝負するとして、真剣勝負をしたらそれ以降の勝負が出来ない場合もあると思うの」

 この発言に巴御前が深く頷くのを見て、武蔵坊弁慶と那須与一は視線をより険しくする。従者たちの緊張が高まるのをあえて無視して、旭はこう続けた。

「なので、今日から他の色んなことで貴方と勝負がしたいわ。受けてもらえるかしら? 源義経」

「の、望むところです!」

 気合を入れるためか、両の手を握り拳にした義経。その様子に微笑ましいものを感じつつ、ライバルは決闘の場所を教えた。

「では、早速今日の放課後からやりましょう。場所は屋上で。いいかしら?」

「はい! 屋上ですね! 分かりました!」

 見ている分には朗らかなやり取りだが、これは昔テレビで見た不良の常套句ではと巴は思った。そんな男の内心は誰にも悟られることなく、話が纏まっていく。

「じゃあ、また放課後ね。義経」

 はい! とまたしても元気よく返事をする義経を背に旭は校舎に向かい、悠然と歩いていく。巴と評議会の面々に加え、京極彦一と黛由紀江が付き従うようにその背中を追っていった。

「義仲さん、当然のようにあの大所帯を先導している……やはり凄い人だ!」

 惚れ惚れするほど堂々とした立ち振る舞いに、素直な源義経は感心しきりだった。

 

 由紀江や評議会メンバーと別れた3ーSの優等生三人組が教室に入ると、穏やかで清楚な声が彼らを出迎えた。

「おはよう、アキちゃん」

「あら、ごきげんよう、清楚。今日は早いのね」

「うん。朝から運動していこうと思ってたら、なんだか早起きしすぎちゃったみたいで。余裕を持って出たら早く来ちゃったんだ。シャワーも浴びたんだけどね」

 えへへ、と緩く笑う清楚に言霊使いは疑問を投げかける。

「ほう、意外と言えば意外だな。葉桜くんは好んで運動の類をするようなタイプではないと思っていたのだが」

「あ、俺もそれ思った。暇さえあれば本読んでそうなのに」

 それでも力はすごいけどねと内心で思いながら巴が続くと、はにかみながら清楚美少女は返答する。

「うーん、それがね、昨日アキちゃんが力を解放したでしょ?」

「そうね。こちらにも事情があるとは言え、黙っていたことは申し訳なかったわ。ごめんなさい」

 ぺこりと頭を下げた旭を見て焦った清楚は、わたわたと顔の前で手を振る。

「わ、私は全然気にしてないよ。でも、あれからアキちゃんとか相馬くんのこと考えるとこう、クラクラ〜っとするというか、動かずにはいられないというか」

「……なんで俺?」

 唐突に名前を出された巴は怪訝そうに眉を顰めた。クローン仲間と彼氏の疑問に、旭がさらに質問を重ねる。

「清楚。百代のことを考えてもドキドキしたりしない?」

「むむむ……あ、ドキドキ、するかも?」

「だったら、血が騒ぐというやつなんじゃないかしら。私もそういう感覚はあるし」

 旭の推察に、彦一が相槌を打つ。

「なるほど。葉桜くんはやはり義経、義仲と並ぶ名のある武将なのかもしれないな」

「だから、俺は最初からそう言ってたじゃん」

 男二人から不本意な言われようをされた美少女は、頭痛を抑え込むように指を頭に添える。

「うーん、やっぱりそうなのかなあ……」

 悩む仕草を隠さない清楚に、旭が優しげな声で語りかける。

「清楚。以前も言ったけれど、正体そのものに囚われるとロクなことにならないわよ」

「……アキちゃんは義経ちゃんのライバルっていうのがはっきりしてるでしょ? 私にはそういうのが無いから、どうしても焦っちゃうんだよね」

 葉桜清楚としてのアイデンティティ、という根の深い問題を直視して難しい顔になった清楚の赤裸々な吐露を聞くと、巴はカラカラと笑う。

「自分が何者かはっきりしないのは、確かに辛いよねえ」

「相馬くんも、ちゃんとはっきりしてるの?」

 25センチ下から上目遣いでされた問いに、巴御前は自信満々の表情で答える。

「俺は今、旭さんのために存在してるよ。旭さんの側にいる限り、俺は俺でいられるからさ」

 並の神経なら赤面して最後まで言えないような臭い台詞を、清楚は顔を僅かに赤らめ、彦一は呆れたような面持ちで聞き届けた。

「……すごいなあ。アキちゃんのこと、ちょっと羨ましいかも」

「よくそんな台詞を素面で言えるな、相馬」

「ほんとのことだし。ね、旭さん」

 男がへらへらして恋人に話しかけると、冷たい声が返ってくる。

「昼休みまで話しかけないでね」

「なんで!?」

 すげない女、項垂れる男。3-Sで幾度となく繰り返された、見慣れた光景であった。

 

 

 昼休み、評議会室。

「……じゃあ、気で結界張るからね」

「よろしくお願いするわ」

 笛の練習を一回ヤった。

 

 

 放課後。

 昨日と同じく、HRが終わるなり立ち上がった旭に、太刀持ちのごとく巴が付き従う。

「じゃ、屋上行こうか。旭さん」

「ええ、行きましょう」

 巴から手渡された微塵丸を身に付けた旭が、ごきげんようと残して教室を出る。

 その背中に付いていく巴の耳には、クラスメイトたちの世間話が聞こえてくる。

「最上議長、あんな美少女だったなんて……」

「気配を消す技なんて、なんでもありだな川神市」

「相馬のやつは、全部見抜いてて告白してたのか……やる……!」

 最後のはともかくとして、彼女兼主人が誉められていて巴は鼻高々だった。

 

 屋上。日差しで焼けたコンクリートの熱を観葉植物が散らす、鉄柵に囲まれた場所にて旭と巴は義経一行を待ち受ける。

 3-Sの短いHRが終わってから10分と経たないうちに、重い鉄扉が床を擦りながら開けられた。

「お待たせしました。義仲さん」

 開いた扉からは、義経一行が一列になって登場する。

「随分早いのね、義経……あら?」

 意外そうな声を上げた旭の前にゾロゾロと現れた縦列には義経、弁慶、与一。そして、そこには直江大和が加わっていた。

「……なんで直江くんが?」

 旭が正体を表してからは出来るだけ控えていた巴が思わず口を挟んでしまったのには義経が返答した。

「な、直江くんは頼朝でしてっ!」

 義経の口からは、七浜で会った占い師が大和のことを人物像で言えば頼朝と評したことが伝えられる。それを聞いた巴はこう口走った。

「つまり、旭さんを挑発してるってことかい?」

 巴御前から飛び出た言葉に、牛若丸は目に見えて慌てた。

「ええっ!? そそそ、そんなつもりはなかったのですが」

「いやいや、院宣貰って義仲討伐軍を組織したのが頼朝でしょ。わざわざ連れてくるってことは……」

 なおも非難を続けようとする従者を、旭将軍がたしなめる。

「巴。そうやってすぐ敵を作ろうとしないの。それに、挑発したしないで言えば先にしたのはこっちよ。ごめんなさいね。義経、大和」

「……申し訳ない。こちらの方が喧嘩っ早かったようだ」

「いえ、こちらは気にしてません。お気遣いなく」

 大和が苦笑いで先輩二人の謝罪を受け取ると、今度は武蔵坊弁慶が巴に質問する。

「というか、大和が頼朝云々をツッコむなら相馬さんの方に聞きたいんですけど。ほんとに巴御前のクローンだったりしないんですか?」

「それについては私がお答えするわ。弁慶」

 弁慶の質問には、またしても旭将軍が返答する。

「少なくとも、義仲関係のクローンは私一人よ。弁慶や与一がいる義経の話を聞いて、羨ましく思っていたくらいなんだから」

「義仲さんが、義経をですか」

「ええ。誰か居てくれたらどんなによかっただろう、と思っていたところに、お父様が巴を連れて来てくれたの」

 やや寂しげな声を出したかと思うと、木曾義仲は優雅に髪をかき上げてから厳かに断言する。

「ここにいるのは、今を生きる私の巴御前。よき家臣であり、よきパートナー。文字通り、公私共に支えてもらっているわ」

「旭さん……」

 主人であり恋人の率直な思いを聞いて、相馬巴は面映ゆさで口元が緩むのを必死に抑えていた。

 そんな彼の様子をあえて無視して、旭は勝負の開始を言い渡す。

「では、義仲と義経の源氏勝負、最初の一本といきましょうか。巴、あれを」

「どうぞ」

 巴は懐からケースを取り出し、それを主人の斜め前で恭しく開ける。

 旭はそこからフルートに似た楽器を取り出すと、義経に語り掛けた。

「まずは、笛での勝負を所望するわ。私はピアノをやっていたのだけど、最近はこちらにハマっているのよ」

「義経も、笛は好きです! 街でもたまに吹いてます!」

 義経はライバルから提示された決闘内容に喜んでいたが、街中で笛を鳴らすのは迷惑なのでは、と巴は益体もない思考をしていた。

「では、先攻は私から。私が終わってから吹いてもいいし、一緒に吹いてもいいわよ、義経」

 こう言うと旭は優雅にリード部分を咥え、ゆっくりと息吹を吹き込む。

 その瞬間、幽玄なる響きが学校中に響き渡った。

「おお……」

 起こりを聞いた那須与一がまず感嘆の声を上げる。弁慶は瞼を閉じて川神水を味わい、大和は義経に視線を向けていた。

 旭の誘うような流し目と大和のやや不安げな眼差しを向けられた源義経は、満面の笑みで懐から愛用の笛を取り出した。

「素晴らしい……! 義経も続くぞ!」

 可愛らしい仕草でぱくりと口をつけて、こちらも笛に命を吹き込む。

 ゆったりとしたリズムで二人の笛の音が調和し、聴く者の心を揺らす。

 途中までは旭が主旋律を担当し、それを引き立てるように義経が演奏していたが、お互いに示し合わせたかのようにアイコンタクトを一つ送り合うと二人の関係性が逆転し、義経主導で一つの曲を奏でていく。

 木曾義仲と源義経。性別こそ違えど現代に蘇った英雄たちの共演は、川神学園の生徒ほぼ全員に感動をもたらしていた。

 そんな二人を眺めていた巴御前はというと。

(旭さんの方が上手いし、楽しそうだけど……)

 技術面では、旭の方が上。むしろライバルに向けてテクニックを見せつけ、挑発しているかのよう。翻って義経は、全身で楽しさを表現しているようにも見えた。

 相馬巴には芸術のことはよく分からない。だが、どちらが感動するかと問われれば……

 あれこれと男が物思いに耽っているうちに、二人の演奏が終わる。英雄二人には、その場に居た四人と、加えて学校中から万雷の拍手が降り注いだ。

 リードから口を離し、ふぅと可愛らしく一息ついた旭将軍は、牛若丸に称賛を贈る。

「見事だったわ。義経」

「義仲さんこそ、お見事でした! 義経は感動しています!」

 義経は無邪気に旭の手を取った。旭も握手に笑顔で応じ、それから大和へと水を向ける。

「では源氏勝負の一本目、どちらの勝ちか。決めてもらえるかしら、直江大和」

 びくっと背中を震わせた後輩は、評議会議長からのご指名に難色を示す。

「あの、多数決の方がいいと思いますが」

「らしくなく頭が回ってないわね、大和。仮に多数決で決めるとしても、ここにあるのは四票。そのうち二票が義経のものになるだろうし、私には一票入るでしょう? 結局貴方の一票で決まるのだから、貴方に決めて欲しいわ」

「……自分は義経のクラスメイトですし、完全に中立ではないですよ?」

「それぐらいは細かいことよ。じゃあ、お願いするわ」

 豪胆さを見せつつ決断を迫る議長に、義経からやや控えめに声がかかる。

「義仲さん、あなたとの演奏はとても楽しかったです。無理に勝敗を決める必要はないと、義経は思います」

 ライバルからの優しい提案を、旭は一蹴する。

「それはダメよ。何事にも優劣ははっきりさせておきたいわ。貴方との勝負なら尚更」

 強硬な議長の姿勢を見て、大和は助けを求める視線を弁慶に送る。

「なに? 大和。弁慶ちゃんは義経に一票。たとえ義仲さんの方がいいと思っても、そこは変わらないよ」

 同級生にヘルプコールをあっさりと躱された大和は、今度は先輩へ視線を向けた。巴は渋い顔をして後輩に返答する。

「……俺に聞いても一緒だよ。俺の一言で勝敗がひっくり返るのを旭さんは望まないだろうから、俺は旭さんに票を入れるとしか言えない」

 こう巴が応じると、大和は与一には意識を向けずに答えを出した。

「俺は、義経の演奏の方が心に残りました。もちろん議長の演奏も素晴らしかったですが、あえて比べるのであれば……」

 末尾を濁した後輩の評価を、議長は笑顔で受け取る。

「分かったわ。というわけで義経、貴方の勝利よ」

 至極さっぱりとした敗北宣言に、牛若丸は困惑してしまう。

「い、いいんでしょうか。なんだかあっさり過ぎるような」

「いいのよ。私も貴方の演奏の方が気持ちが入っていて、聴いていて心地よかったわ。やはり音楽はハートね、ふふ」

 口元に手を当てて上品に笑う旭は、微塵も悔しがっているようには見えなかった。場の空気を完全に掌握している木曾義仲は、ライバルへ普段通りのトーンで声をかける。

「またいずれ、一緒に演奏しましょう。月の綺麗な晩とかに」

「はい! 義経は楽しみにしています!」

「じゃあ、次の勝負の内容は貴方が決めてね」

 唐突に投げかけられた問題に、義経はポニーテールを揺らして大いに慌てた。

「ええっ!? しょ、勝負……うーん……」

「今すぐするわけではないのだから、また来週の……そうね。月曜までに決めてくれるかしら。準備物が必要な時は、お互い事前に連絡することにしましょう」

「は、はいっ! 分かりました、義仲さん!」

 いささか素直過ぎるライバルと次の約束を取り付けた義仲は、髪をかき上げてから別れの挨拶をする。

「義経、またね」

 屋上の出入り口へ向かう旭に先行して巴が動いて鉄扉を開け、校内に入る主人の背中に忠臣がついていったところで、義経対義仲の最初の勝負は幕を下ろした。

 

 評議会室に向かう道すがら、眉間に皺を寄せた巴が主人に話しかける。

「旭さん」

「なあに? 巴」

「……勝つ気がない勝負をするのは、あまり感心しないよ」

「分かっているわ。反省してる」

 従者からの非難に、旭はご機嫌な様子で応じる。義経とのデュオがよほど楽しかったのだろう、と巴は更なる言葉を引っ込めた。

(言いたいことは山ほどあるけどさ、水は差したくないよね)

「〜〜〜♪」

 鼻歌を歌いながら放課後の廊下を闊歩する恋人の背中に、巴はモヤモヤを抱えながらついていく。

 最上旭は、今日の勝敗には拘っていなかった。それはもちろん青年のポリシーに反していたが、勝負自体が楽しいという感覚も既に青年は理解している。そして……

(まあ、真剣勝負になったら旭さんが勝つし、いいか)

 最後に勝てばそれでいい、という思考の男はこう考えることで思考を切り替えた。

 二歩後ろをついて回る恋人が少なくとも表面上は笑顔になったのを感じ取った旭は、思い出したかのように話しかける。

「そうだ。帰る前に学長のとこに寄りましょう、巴」

「川神さんと稽古するんだったね。わかった。手土産とかどうする?」

「明日川神院に行くときに買いましょう」

「了解」

 小気味良いテンポでプランを話し合い、木曾義仲と巴御前は通常通りの会話へと戻っていった。

 

 

 帰りがけに学長から川神院での稽古の許可とコンサートへの賛辞を貰い、最上の屋敷に戻った二人は、

『ほう、義経に負けたと……素晴らしい! 旭、その敗北は君にとってよい試練となるだろう。うんうん、よかったよかった』

 と何度も満足げに頷きながらチョコレートケーキを出してきた幽斎と夕食を摂った。

 入浴も済ませた二人は、防音加工がなされた部屋にいた。室内の反響をコントロールする吸音材が張り巡らされた空間の中央には、海外製のグランドピアノが鎮座している。

 音楽スタジオとしても使用できるほど機材が揃っている部屋は、幽斎が川神に居を移す際に旭の希望で備え付けられたものだった。

 まあ、機材と言っても機械音痴の旭が使用出来ないものばかりだったが。

 ジャージに着替えた巴はピアノのカバーを取り去り、屋根を注意深く開け、それから蓋を開けて指で一つ一つ鍵を押していく。

 白と黒が整然と並んだ列を一往復すると、巴は頷いてから黒いパジャマ姿の旭に向き直る。

「……うん、大丈夫。調律の必要はないかな」

「ありがとう」

 相馬巴は、旭のためと色々な技能を取得している。その一環としての調律技術に加えて絶対音感も持っている彼に、旭は興味ありげな声をかける。

「巴もなにか楽器をすればいいのに。私はセンスあると思うわ」

「一年の時の、俺の音楽の成績知ってるでしょ。旭さんが聞きたいなら練習するけど、どうしても芸術的なことは肌に合わなくて」

「ふふ。じゃあ今度、ピアノで何か聞かせて」

 こう言いながら、旭は背もたれの無い椅子に座る。高さは事前に巴が調節していた。

 鍵盤を静かに見つめ、手を行儀良く膝に乗せた恋人を見ながら、巴は別の椅子を引き摺り出して腰掛ける。男にとっての特等席が出来たのを気配で感じてから、旭は細く白い指をそっと開始位置へ添える。

「じゃあ、聞いていてね」

 了解、と応じた男の体を学園の屋上で聞いたものよりももっと整然とした音符の波が襲った。

 旭が爪弾くのは、ピアノの魔術師と謳われたロマン派、フランツ・リストが作曲した"愛の夢"と呼ばれる曲。

 第3番が最も有名であるこの曲を、旭は第1番である"高貴な愛"から演奏していく。

(やっぱり、上手いなあ)

 木曽の村でも旭が練習するのを時たま聞いていた巴は、懐かしむと共に演奏の邪魔にならないよう内心でその技量を称賛する。

 七分ほどの演奏を終えてから呼吸を一つすると、第2番"私は死んだ"に入っていく。

(……んん? なんか、違和感。というより……)

 次第に膨らみを増していく音の奔流を受けて、巴の表情が僅かに曇る。

 第2番が終わればいよいよ第3番、"おお、愛しうる限り愛せ"に移行する。

 ここに至って、額に汗を浮かべた旭は難しい顔をした恋人に視線を向けてウインクを一つ。目を離すな、と言いたげな仕草に、巴は居住まいを正した。

「……! ……っ!」

 最上旭が、鬼気迫る様子で鍵盤の上に滞りなく指を滑らせていく。整った顔に汗で自慢の黒髪が張り付き、必死という言葉を具現化したかのような姿に、巴は見惚れていた。

 それと同時に、ある事実に気付く。

(……ああ、なるほど。今俺、感動してるんだ)

 客観的過ぎるきらいはあるものの、これが彼にとっての素直な感想だった。

 そして、合計十五分ほどの心打ち震わせる独奏が終わる。椅子から立ち上がって優雅に一礼した奏者に、たった一人の観客は自然と拍手を贈っていた。

「月並みなことしか言えないけど、凄く良かった。感動した」

 ひとしきり拍手を終えてからタオルを渡してきた恋人の賛辞に、旭将軍は質問を返す。

「屋上での演奏とどっちが感動した?」

「……今聞いた方、かな。ピアノと笛で単純比較は出来ないけど、こっちだったら勝ってたと思う」

「やっぱりそうよね」

 巴御前の真摯な返答を受け取った義仲は、さらに問いを重ねる。

「じゃあどこが違ってたか、分かる?」

「うーん、気合は入ってたよね」

「気合……まあ、間違ってはないけれど」

 屋上で旭がしたのは、単純に義経との演奏を楽しもうとするもの。今旭がやったのは、何かを強烈に伝えようとするもの。何か、の部分が分からなかったため、巴は気合と表現したのである。

「分からない?」

「……ごめん」

「謝らなくていいわよ。じゃあ、答え合わせ」

「わわっ、旭さん」

 ぽふっと軽い音を立てて、旭が巴に抱きつく。優しく抱き留めた男を、眉目の麗しい顔が見上げる。

「今の曲は、貴方に聞いて欲しいって思って弾いたの。貴方のことが好きって気持ちを込めてね」

 それから旭はからかうような笑みを見せる。それだけで、男の顔は真っ赤になった。

 細い体に回した腕の力を少し強くして、心臓をドキドキさせながら男は囁きかける。

「……俺のために、弾いてくれたんだ」

「ええ。あれこれテクニックを弄するより、貴方を想って弾いた方が何倍も気持ちよく弾けたし、いい演奏が出来たわ。偉大ね、愛の力って」

 人前ではとても聞けないような言葉を貰って、巴はより一層目の前の女性を愛おしく思い、体の密着度を上げる。

「伯爵に勝ったら、また聞かせて欲しいなあ」

「喜んで」

 会話を終えてピアノを二人で片付けた後、巴は旭を軽々とお姫様抱っこする。

「部屋に、連れて行ってもいいかな」

「ふふ。いいわよ、狼さん」

 旭は、男の太い首をきゅっと抱き寄せて頬にキスを一つした。

 

 2発だけヤった。

 

 

 

 

 

 

 ……深夜、川神市某所。

 最上幽斎が、とある港で潮風にさらされながら黒い海へ闇の深い視線を投げかけていた。

 幽斎が電話のコールを受け取ってから五分ほどして、波止場に一艘の小型船が乗り付ける。

 そこから三人ほどの人間が降りてくるのを、実業家が笑顔で出迎えた。

「やあ。今回は突然の申し出にも関わらず来ていただき、感謝の念に堪えないよ」

「フン。三年前以来か? 相変わらず何を考えているか分からん男だな、貴様は」

 白というよりは艶のある灰色をした髪、毛羽だった外套、鍛え上げられた褐色の肉体、手に持った鉄塊のような武器……そして、黒の眼と金の瞳が最も目を引く女性。その名前は。

「歓迎するよ、史文恭」

「ああ。曹一族を代表して、貴様の依頼を遂行しよう……待っていろよ、相馬巴」

 史文恭。かつて相馬巴を折った曹一族の武術師範が、川神に降り立ったのだった。

 

 

 

 




この二人いつ見てもヤってるな……
決戦は三話後、ということで一つ。早めに更新したい所存です。

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