Ideal Fantasy:Online 作:暁星
彼と出会ったのは、一年くらい前。夏休み直前の、清々しいほどに澄んだ青空が綺麗な日だったのを覚えている。
だってボクが屋上に行ったのは、人工の冷気を閉じ込めた教室ではなく、自然の熱風が吹き抜ける空の下でお昼を食べるためだったから。
あのときの彼は、バスケのゴールと同じくらいの高さがある柵越しに大きな入道雲を背負って、焼きそばパンを食べながらスマホをいじっていた。
「こんにちは、後輩くん」
「ん……どうも」
中身の少ないスポーツドリンクが置いてある、彼の足元。鮮やか過ぎなければいいと緩く指定されている上履きを見れば、きっちり指定されている紐の色で学年を判別できる。青色の彼は一年で、赤色のボクは二年だと。
「ボクは天音。キミは?」
「
彼はまだ、透也という下の名前は口にしなかった。片方だけで話しかけたから、片方だけで返したのだと思う。きっとボクは、天音なんとか先輩だと認識されていた。
名字だけを口にして、彼の視線はスマホに戻った。
彼と同じように、ボクは柵へ体を預けた。ボクが手を伸ばせば彼の肩に届き、彼が手を伸ばせばボクの腕を掴めるような距離。初対面の相手だけど、なんとなくその距離がいいような気がした。
彼と同じように、ボクはスマホを取り出した。薄く軽いそれを高く掲げ、背面にある三つのレンズで晴天を捕まえる。
加工などするまでもなく鮮やかで、同時に深みのある蒼穹。そしてその中に悠然と構える、綿飴のように柔らかく膨らんだ真白の雲。その壮大な美しさを留めたまま画面の中に切り取るのは難しくて、文字にはできないような小さい唸り声が漏れた。彼は静かなままだったが、きっと聞こえていただろう。
「よしっ。──あ」
良い一枚が撮れたところで、ようやくボクは気づいた。お昼を食べるために屋上へ来たのに、そのお昼ご飯は教室に忘れてきたと。
幸いなことに、お昼休みの時間はまだまだあった。だから二階の教室でサンドイッチを回収したあと、一階の自動販売機で小さいサイダーと小さいスポーツドリンクを買って、駆け足で屋上に戻った。
そして、彼に声をかける。屋上に出るドアの近く、小さな日陰から。
「ふう……。黒崎くん、どっちがいい?」
「え? あー、えっと」
彼の足元には、空のペットボトルが倒れていた。風で転がっていかないよう、横に鞄を置いて。少量だった半透明の水瓶は、ボクがいなくなったひとときの間に飲み干されていた。
彼のほうへ歩きながら、言葉をつけたす。
「この快晴だ。気をつけていないと、熱中症になってしまうよ」
「じゃあ……、そっちのサイダーで」
「オーケー。はい、どうぞ」
「ありがとうございます。……っと」
差し出したサイダーの蓋が開けられることで、プシュッと鳴った小気味よい音。それと同時に手の甲へ飛んできた甘い飛沫を舐めたボクは、余ったもう一本に口をつけた。
「んくっ……、んくっ────」
頭痛が起きそうな勢いで、氷のように冷えたドリンクを呷った。飲み口を咥えたまま、息を継いで。立っているだけでじんわりと汗ばむような熱気の中、屋上と一階を往復するのはいい運動になった。冷たい液体が喉を潤し、気分は爽やかになっていく。
そんなボクの横で、彼も同じようにサイダーを飲む。自販機を出て二分の炭酸飲料は、さぞ気持ちよかったのだろう。ボクのだけではなく、彼のボトルも、内容量が一気に減っていたから。
「ぷはぁっ! 夏の陽射しを浴びながら飲むサイダーは、格別だろう?」
「そうですね。昔行った夏祭りを思い出します」
「夏祭りかあ。いいよね、夏の風物詩だ」
そこで初めて、彼は空を見上げた。
その瞳に映ったのは、今の青い空よりも白い雲よりも向こうの、鮮明なセピア色なのだろう。
夏祭り。思えば、小学生の頃を最後に行っていない。ふらっと行ける場所でお祭りをやらないから、気になったのもだいぶ前だ。
……そうだ。今年は彼を誘って、一緒に行ってみようか。きっと、いい思い出になる。
「サイダー、ありがとうございました。いくらでしたっけ」
「いいよ。飲み物の一つくらい、通りすがりの先輩に奢られておきなさい」
「……分かりました。ありがとうございます」
「はいはい、どういたしまして」
そのあとは、遠くで鳴く蝉の声に耳を傾けながら、静かに食事を進めて。予鈴が鳴る頃には、シルバーブルーに染めた髪が汗で張り付いていたような気がする。
「──《ペネトレイト》ッ!」
青白く光った穂先が、長い戦いを経て剥き出しになったゴーレムのコアを刺し貫いた。モノアイとコア、赤色のどちらからも光が失われ、不壊の番人が崩れ落ちる。
戦闘開始から、十七分が経っていた。
──最前線のダンジョンを探索していたボクがたどり着いたのは、中央に一体の石像だけがある円形の部屋。いかにもな場所だと思いながら足を踏み入れた瞬間に、予想通り石像が動き出した。
灰色の全身にただ一つある異色は、瞳に宿る赤の光。
《ストーン・ガーディアン》という名前の下に表示されたHPバーを削りきったはいいが、番人は何故か倒れずに動き続ける。
初めて遭遇した非生物の敵。ギミックを解かなければ倒せないボスなのだろうと予想し、とりあえず全身に満遍なく攻撃を当て続けた。すると、胸部にあたる場所──もっと言うと、人間であれば心臓があるあたりが、綻んで欠け落ちた。
あとは、そこに攻撃を集中させるだけ。装甲が剥がれることで露出した真紅のコアにアーツを一撃叩き込むことで、戦いは終わった。
「おっ、レベルアップ! ようやく20か~」
ゴーレムの撃破により獲得した経験値で、ようやくレベルが20の大台に乗った。
βテストは、今日が最終日。時間内になんとか目標へ届いたと、強い達成感に拳を握る。
このゲームは、レベル10を超えてビギナー扱いが終わった途端にレベルアップのハードルが上がる。ボクは仮にも学生の身だ。十日間のβテストでレベル20に到達するという目標は、一時は無茶だったかとも思ったが……ハイペースでこういったボスモンスターを狩っていたら、案外余裕を持って達成することができた。
「やっぱり、格上は経験値量がかなり多い……。本番でも同じ傾向なら、ビルドは火力に全振りかな」
例えばこのゴーレムは、極論コアさえ壊せれば撃破できるだろう。ボクはHPを削りきってからそのギミックに気づいたが、きっとそれは救済だ。コアを見抜いて破壊できればHPに関わらず倒せるし、コアに気づかなくてもHPを削りきれば見つけやすくなる、という。もしかしたら、コアと同じ輝きを放っていたモノアイも弱点だったかもしれない。身長差が大きくて狙いづらいから、どうにもならなかった場合の最後の希望として考えていたけれど。
何にせよ、その知識があれば大幅に戦闘時間を短縮できる敵なのだと思う。
そしてそれは、このゴーレムだけが持つ性質ではない。強い敵には必ずと言っていいほど何か弱点があったし、弱点に気づけるかどうかで戦闘の効率や安定性は大きく変わった。どんな難敵も、戦いの中で活路を見出す余地があった。
だから。
攻略にあたって欠かせない装備やスキルは無いに等しく、プレイヤー次第では攻撃力さえあればどんな敵にも立ち向かえる。
今日までの十日間、あらゆる時間を使って積んだ経験と培った直感がそう告げている。このIFOは、そういうデザインのゲームだと。
その予測を前提に据えて、ボクは考えた。どんな武器を、どんなスキルで、どんなビルドで使うのか。
このβテストで得た知識と経験、そして何よりも、ボク自身が好むプレイスタイル。それを全て組み合わせて出る答えは、ただ一つ。
「……ふふっ。本番が楽しみだ」
春。四月。蕾が開き、花が舞い、新たな一年が始まる季節。
IFOのβテストに熱中しすぎて体調を崩したボクは、それによって出席日数が致命的に不足したことで、再び二年生をやり直すことになった。それを姉さんに伝えたときは、心底呆れられたっけ。
校舎での授業と通信での学習が混ざり合ったこの学校。広げようとしなかった交友関係は狭いままで、学年越しのクラス替えだからといって感じるものは特になかった。
これまでと違って、顔見知りもいないんだろうな。そう思いながら、窓際の席で頬杖をつき、ぼうっと空を眺めていたときだ。
「…………天音先輩?」
殺風景で彩りのない想像に反し、聞き覚えのある声がかけられた。それは夏の日、吹き抜ける熱風と響き渡る蝉の声の中で出会った人の声。
「黒崎くん」
それが誰なのかは、振り向くよりも前に分かった。忘れる理由も、間違える理由もない。だって、彼の隣で見上げたあの空は、ずっとボクの記憶に輝いている。
「ここ二年の教室ですよ。学年間違えてませんか」
「ううん。間違えてないよ」
机の下にある私の足は、彼の目に入っていなかったのだろう。彼と私が同じ色の靴紐を結んでいることに気づいていれば、かけられていた言葉はもう少し違うものだったと思うから。
何か言おうとする彼を止めながら見た時計の長針は、真上を指す直前だった。
「嬉しい再会ではあるけれど、そろそろホームルームだ。席に戻ったほうがいいんじゃない?」
「……ですね」
あの日は新年度の登校初日だったわけだが、始業式という定例の行事はそれよりも前に終わっていた。わざわざ集まる必要もないからと、一日前にオンライン上で行われたのだ。
故に登校初日は、クラス替えにあたっての自己紹介や顔合わせを挟んでから、普通に授業がある。といってもそれは形だけのものであり、実際に行われるのは教科にこじつけた実質的なレクリエーションだと、二度の経験から予想できていたが。
ボクの名前は、
流石に窓へ顔を向けているのは印象が悪いだろうから、周りに合わせた態度を取ってやり過ごしていた。あくびの小さな衝動までは隠さなかったけれど。あからさまに大きく口を開けなければ、せいぜい寝不足だと思われるだけだ。
そうしているうちに、唯一興味がある相手が立ち上がる。
「──
それだけ言って、彼は口を閉じて座り直した。とても簡素だったが、その短い言葉を聞いて、話題が一つ増えた。
早く話してみたいな、なんて。人との関わりを楽しみに感じたのは、いつぶりだったろう。
「──星野天音です。本当は今三年生になっているはずだったんだけど、ゲームのやりすぎで出席日数が足りなくなったので留年しました。よろしくお願いします」
彼が抱いたであろう疑問への答えとして、言う必要のなかったことを言った。
ボク自身が他人事のような笑顔をしていれば、周りには笑い話として受け取られる。実際、教室の雰囲気に変わりはなく。春の浮ついた空気が、依然として満ちていた。
「そういうわけで、ボクたちは同級生だ。よろしくね、透也くん」
「ああ、はい。よろしくお願いします。星野先輩」
「む……まあ、今はいいや。それより、キミと話したいことがあるんだ。今日は午前で終わりだし、放課後に時間をくれないかな?」
「はい、大丈夫ですけど……なんですか? 話したいことって」
「ふふっ、秘密。強いて言うなら、今ここでは言いづらいことかな」
十分間の休み時間。今度はボクが彼の席に行って、一つの約束を取りつける。
問いを先送りにされた彼は怪訝な顔をするが、賑やかな教室と時間の制約に挟まれながら話したい内容ではない。ボクが留年した理由であるIFOのβテストやら、七月に開始する正式サービスやら。他にも、雑談を交わして彼のことを知りたいだとか、なんだとか。だけどそれには、やっぱり時間が足りない。
だから、時間がたっぷりあるだろう放課後に。心が踊るような楽しみを、詰め込んだ。