1
部屋の扉が閉じられた後、5秒ほど静止していたユウリだったが、すぐに我に帰り、慌ててベッドから飛び出す。靴を履くのも煩わしく、裸足のまま、扉のノブに取り付いてこじ開けた。
「——ま、待って!」
誰だ、今のは。
いや、誰だろうと構わない。この際だ、たとえ悪の組織の首領だったとしても別にいい。問題は、あの青年が普通に喋って動いていたところにある。
廊下に出て左右を見渡す。そばには停止したカップルが立っているだけで、青年の姿はどこにもない。幻覚か何かだったのだろうか——否。ユウリの耳に、現在進行形で、エレベーターの稼働音が聞こえてきた。
エレベーターの前まで走り、電光表示を見る。左側のエレベーターが階下へ降りていき、1階で止まったのがわかった。青年は1階にいる。ユウリはカチカチカチと降りボタンを連打した。もう一つのエレベーターが、のろのろと昇ってくるのがもどかしい。
ユウリはエレベーター横にあった、この階の地図に目を凝らす。非常階段が廊下の奥にあるのを見つけると、くるりと向きを変え、そちら目指して走り出す。
非常扉を開けて、階段を2段飛ばしで駆け下りる。踊り場で転回し、だっと残りの段を跳び越えた。1階と書かれた扉のノブを荒っぽく倒し、外に出る。そこは1階ロビー、受付のすぐ横だった。スーツ姿の受付係がすぐ横に立っているが、彼は繰り返しの状態にあり、今はなにもしてくれない。
ユウリはエレベーターのある方を見るが、そちらには誰もいない。待ち合いのためのソファには小太りの男性が座っているが、先ほどの青年とは似ても似つかず。ユウリは出入り口の方に首を振る。自動ドアがちょうどウィーンと閉まり、ガラス越しに青年の後ろ姿が見えた。
「待って、待ってください!」
受付の卓を跳んで躱し、ロビーを疾駆する。巨大な英雄のオブジェの脇を抜けて、ホテルから飛び出した。外は雨がまだ降り続いていて、温まりかけていたユウリの体をまた濡らす。
青年はおおよそ東方50mのところにいた。速い。おそろしく速い。さきほどは付けていなかった雨具を身に纏って、もうあんなところにいる。徒競走でもしているのかと思われるほど、身のこなしが素早かった。
「待って! 置いてかないで!」
ユウリは叫ぶ。しかし雨音がうるさく、青年には届かない。青年は右手にモンスターボールを構え、そこから1体のポケモンを出した。大柄な鳥ポケモン——遠目なのもあって、ユウリにはそのポケモンが何なのかわからなかったが、青年がその鳥ポケモンの背中に乗って、飛び立とうとしているのはわかった。
まずい、行ってしまう。
だが、ユウリには彼を呼び止める手段がなかった。「待って! 待って! おーい! おーーい!」ひたすらに声を張り上げるも、青年を乗せた鳥ポケモンの影は見る間に小さくなっていく。それはやがて雨の向こう、白いもやの彼方に消えてしまった。
「待って……」
ユウリの声は届かない。
ユウリは青年の飛び去った南の空を眺め、雨に打たれていた。
しかしそれからしばらくした後、ユウリはきっと勢いよく振り返ると、また走ってホテルに取って返す。その瞳は先ほどと違い、絶望に染まってはいなかった。
——追いかけよう。
あの青年が何者かはわからない。
だが、彼はきっと何かを知っている。
彼の消えた方角はわかっているのだ。彼はポケモンに乗って飛び立った。飛行機などではなく、ポケモンに乗っての移動である以上、海を超えるほどの距離でもないはず。歩いていけば、いつか追いつける。
一度部屋に戻ったユウリは、さっとシャワーを浴びて今の汚れを落とす。干していた服はまだ乾いていないので、鞄から着替えを取り出した。
ジムチャレンジの旅の途中でお洒落に目覚めて以来、永らく着ていなかったマゼンタのリボンワンピース、灰色のニットパーカー、そして緑のニットベレー帽。これに上から雨具を纏い、ユウリのポケモンたちが入っている六つのボールを腰につける。その他、部屋に置いた私物を回収して鞄に詰め込めば、出立の準備は万端だ。
「——よし」
行こう。
ユウリはドアを開け、部屋を出た。
一階ロビーの受付を通りかかった際、ユウリは卓上の万年筆を取って、その場に置かれたメモ用紙にメッセージを書き残す。
〈これを見た方は、ブラッシータウンのポケモン研究所までお越しください! ひと月に一回は寄ります! ユウリ〉
このメモをスボミーの横に据えて、一泊分の料金をその上に置くと、ユウリはホテルを後にした。
2
ユウリが拠点に定めたブラッシータウンのポケモン研究所には、昔ソニアと一悶着あった研究員が1人と、見習いのホップだけがいる。「いる」というのはこの場合、何もせずただ突っ立っているだけという意味だが、その研究所内、休憩用のテーブルと椅子で、研究員でもホップでもない人物——この辺りでは見慣れない女性が1人、紅茶を飲んでいた。
女性、といっても、それほど歳を重ねているようには見えない。ダンデやソニアと同じか、それよりちょっと年上ぐらいの風貌だった。ピンクのブーツにスカート、黒い半袖のシャツに赤いマフラー。アンバランスになりそうなコーディネートだが、なぜか様になっている。長い黒髪を少し変わったハーフアップの形に結んでいるが、ティーカップの傍に置かれた白いニット帽は彼女の物のようなので、普段は髪の大部分が隠されているらしい。
「……ん」
一瞬、窓から射し込む陽光がちらりと遮られる。何者かが太陽の前を横切ったような感じがした。女性は首を動かし、窓の外に視線を遣る。鳥ポケモンの鳴き声が高らかに響いた。ガラル地方ではまず耳にしない鳴き声だが、彼女にとっては聴き慣れたものらしい。
羽ばたき音が聞こえ、どすんと何かが着地したような音が研究所の扉の向こうから響く。鳥ポケモンが着陸したようだ。それからすぐにガチャリと扉が開けられ、外から誰かが入ってくる。
一時間ほど前、ユウリの寝ている部屋に乱入したあの青年だった。
「うぃいっす失礼しまーす——おっ、ヒカリ。なんだ良いもん飲んでんじゃんかよ」
「ジュンにしては遅かったね」
ヒカリと呼ばれた彼女は椅子から立ち上がり、お湯を沸かしているコンロの前に近づいた。
振り向いて尋ねる。
「飲む?」
「ああ飲む飲む」
彼女と入れ違いに、青年——ジュンは閉まってあった椅子を引いてどかっと座り、大きくため息をついて頬杖を突いた。
「それがさぁ聞いてくれよ。ワイルドエリアで調査片付けて、いざ空を飛ぶって時になってタウンマップが無いんだよ。方々探し回っちまった」
「それは大変だったね。見つかったの?」
「おう。宿に置きっぱだったって思い出してさ。いやー、だいぶロスしちまった」
「そそっかしいのは昔から変わらないね」
ヒカリはくすくすと笑いながら、ジュンの分のカップも用意してテーブルに戻ってくる。
「そうか? 結構マシになったと思うけどな」
「そうかな——はい、どうぞ」
「お、サンキュー」
ヒカリに淹れてもらった紅茶に口をつけたジュン——案の定というか、「あっつ!」と叫んで唇からカップを遠ざける。ヒカリは大きく口を開けて笑った。
「やっぱりそそっかしいじゃん!」
「うるせえっ! 笑うな! ひとの失敗を!」
ジュンはばつの悪そうな顔をしながらヒカリを睨む。だが、それでヒカリの笑い声が止まることはなかった。
「それで、ワイルドエリアはどうだった?」
ひとしきり笑った後、ヒカリはジュンにそう尋ねる。
「どうもこうもねーよ。人間は当然、ポケモンも基本、時間の歪みに嵌まっちまってる」
ジュンはそう答え、ズズズと注意深く紅茶を啜った。その際、向こうの机の前でずっと立ち続けている研究員の姿をちらりと見る。
「ああでも天気が変わるのは本当だったぜ。ポケモンの巣穴から、なんか凄いエネルギーが立ち昇ってたけど、あれが原因だろうな」
「それは、ガラル粒子の光?」
「赤かったし、多分そうだろ」
ヒカリは考え込むように唸る。「うーん。やっぱりこの時空異常には、ガラル粒子が関係しているのかな……」
「でもワイルドエリア周辺の空は他よりまともなんだぜ? あれが影響してるってんなら、むしろあそこの空だけおかしくなるのが筋じゃねーの」
「あ、そっか。じゃあ逆かもね。ガラル粒子があるから、ワイルドエリアの空は他と比べて正常なんだ」
「なんだよそれ。ガラル粒子があれば時空異常に対抗できるとか、そういう話か?」
「かもしれないよ。パワースポットにいれば、ポケモンの力を借りなくても普通に動けたりして」
「まじかよ?」
ジュンは訝しげな目でヒカリを見た後、自分の腰についている6つのボールの1つ、ハイパーボールに触れた。
「でも、ワイルドエリアにいた人間は他と同じだったぞ」
「そっか。濃度の問題かな。それとも、人間には効果がないのかも……」
ふたたび考え込むように俯くヒカリ。
「お前のほうはどうだったんだよ」
今度はジュンが質問した。
「あ、うん。まどろみの森には行ってみたけど、特に変わったところはなかったよ——繰り返し状態になってる人やポケモンを除いて、ってことだけど。時間の歪みは、他と比べて強くも弱くもなってなかった」
ヒカリがそう答えると、ジュンは「ふーん」と首を傾げる。
「この研究所でも、収穫はなかったのか」
「うん。もともとダイマックス関連の研究に特化してるからね。ガラル粒子の観測データも見てみたけれど、特に変わった様子はなかったな」
ヒカリは「あ、でも」と続ける。「ちょっと面白い資料を見つけたよ。これなんだけど」
そう言ってヒカリは立ち上がり、研究員の立つそばを抜けて資料のたくさん置いてある机に近づくと、クリップで止めた数枚の紙束を取って掲げた。
「なんだそれ?」
「カンムリ雪原にある、『マックスダイ巣穴』に関する資料」
ジュンはヒカリから紙束を受け取ると、紅茶を啜りながら内容に目を通す。「へえ〜、ガラル地方に見られないポケモンが出現するエリア……伝説のポケモンも確認されている——って、ホントかよ!?」
「本当だとしたら、この事件と何か関係してるかもって思えるでしょ?」
「そうだな。これ、早い話が空間異常だろ? しかも伝説のポケモンが関わってる可能性が高い……。なあヒカリ、もしかしてお前、俺と同じこと考えてるか?」
ヒカリは意味ありげな笑みを浮かべ、カップに残っている紅茶の残りを優雅に飲み干す。
そして言った。
「まあ、とりあえず行ってみようよ」
3
ユウリがエンジンシティのホテルスボミーインを出立した日の夜。
ポケモンに頼れない状態でどうにかワイルドエリアを踏破し、つどいの空き地までやってきたユウリは、ワイルドエリア駅のベンチで一休みしながら、アーマーガアの入っているモンスターボールを手に持ってまじまじと眺めていた。
空飛ぶタクシーの中で、ユウリのアーマーガアはユウリが何をしようともボールから出てきてくれなかった。あの後、インテレオンやパルスワンのボールを取り出して、ボールから出そうと試してみたのだが、どちらもアーマーガアと同じようにうんともすんとも言ってくれなかった。伝説のポケモンであるザシアンもまた、ユウリの声には何も応えず。手持ちポケモン6体全てを試したが、誰もボールから出て来なかった。
それは絶望に拍車をかけた苦い思い出で、ずきりとユウリの胸が痛むが——しかし敢えてあの時の自分の行動を思い出す。なぜなら、あの青年はポケモンを繰り出していたからだ。
あの青年と自分、何が違う?
「……もしかして、ポケモンの種類が関係してるのかも」
この状況下で、動けるポケモンと動けないポケモンがいるのかもしれない。
そう呟いたユウリは、スマホとポケモンボックスを介してパソコンに接続し、自分のポケモンたちを預けているボックスを呼び出す。手持ちのモスノウとボックスのバタフリーを試しに入れ替えて、バタフリーのモンスターボールを手元に呼び出した。
「出てきてっ、バタフリー!」
そう叫んでボールを投げる——が、バタフリーは出てくることなく、ボールはそこにたたずむ旅装の女性の背負う鞄に直撃して床に転がった。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
「どんなに 強い ポケモンも ジムチャレンジに 参加して ジムバッジを 手に入れれば…… いつかは 捕まえられるから!」
女性は笑顔でそれだけ言うと、また沈黙してその場で停止する。彼女の横にいるウリムーが「ウリムリリ」と鳴いた。ユウリはバタフリーのボールを回収して、そそくさと彼女から離れる。駅舎から出て、ひらけた場所に移動した。空はすでに晴れ渡り、星がまたたいている。
「少なくとも、バタフリーは他のみんなと一緒だ……」
ユウリはバタフリーをボックスに戻す。
その後6体ほど、タイプや特性、レベルなどまちまちなポケモンたちを選んで試すが、誰もボールからは出てこない。
「種類とかは関係ないのかな……」
青年とユウリの違いは、ポケモンではなく、人間のほうにあるのだろうか。だが、だとすればどんな違いだろう? 性別? 年齢? なにか特別な訓練を受けているかどうか?
ユウリはボックスのポケモンたちを見渡しながら、ぐるぐると思考を巡らせる。しかし答えは見つからず、ため息をついてボックスを閉じようとした時、1体のポケモンが目について、手をとめる。
ムゲンダイナ。
かつてガラル地方全土を恐怖のどん底に叩き込んだ、伝説のポケモンである。その巨躯はダイマックスしなくとも20mに達し、キョダイポケモンの別名で知られる。
「ムゲンダイナなら、どうかな……」
ひとり呟くユウリ。
伝説のポケモンだからといってボールから出てきてくれるわけではないことは、ザシアンで試してわかっている。しかしそれでも、ムゲンダイナには何かこう、他とは違う特別感のようなものがある気がした。ムゲンダイナなら、ひょっとするとボールから出てきてくれるんじゃないか——ユウリはムゲンダイナを選択し、手持ちに加えるべくボールを呼び出す。ラテラルタウンの掘り出し物市でもらったウルトラボール——ムゲンダイナは、これに入っている。ユウリはウルトラボールを宙に投げてみた。
だが、ムゲンダイナもボールから出ることはなかった。
「やっぱり駄目か……」
ユウリはため息を吐く。転がっていったウルトラボールを拾い、腰につけた。
まだ、ポケモンには頼れない。
心細い思いをするユウリだが、しかし心のどこかで、まあポケモンがいなくてもどうにかなるんじゃないかとも思っていた。
要は草むらに入らなければ良いのだ。この鉄則を守ってさえいれば、ワイルドエリアだって比較的安全に通れる。そもそも、今の野生のポケモンたちも繰り返し状態になっているから、どんなに危険なポケモンだって、行動のパターンさえ読み取ってしまえばそばを通り抜けられる。
「うん、大丈夫。もうワイルドエリアは越えたんだし、ピッピ人形もまだ残ってる」
自分に言い聞かせたユウリは、駅舎に戻ってプラットホームに出る。
列車には乗らない。
列車がどうやら普通に動いているらしい、というのはユウリにもわかっていた——しかし、それに乗るにはいささか以上の抵抗があった。本当に大丈夫なのか、という不信感が消えない。空飛ぶタクシーの件がユウリの中で巨大なトラウマになっていて、公共交通機関全般からユウリを遠ざけさせていた。
ゆえに、歩く。
ユウリは線路の上を歩いてブラッシータウンまで行く気でいた。今のガラルに、線路の上を歩く者を迷惑がる者はいないのだ。普通ならまずやらない移動方法だろうが、ユウリとしてはこれが一番確実だろうと思っている。普通の道と違って、線路は基本、迷うこともない一本道だ。時折行き交う列車にさえ気をつければ良い。
ガラルの中央部と南部を隔てる山脈——これに掘られた長い長いトンネルを前にして、ユウリはごくりと唾を飲んだ。
一応、光源はある。レールを浮かび上がらせるために、弱々しいオレンジの灯が遥か彼方まで続いていた。あれに沿っていけば、いずれガラルの南部に出られるのだ。トンネルの幅は、当然ながら列車がすれ違うよりもさらに幾分余裕を持って掘られており、人が歩けるくらいのスペースは線路の両側に確保されている。向こうからやってくる列車に為す術なく潰される心配もなかった。
だが、ユウリは少しの間躊躇する。本当にここを歩いていくのか? と、怖気づいたのだ。巨大な怪物の口のようなトンネルを前にして、やっぱり普通に列車に乗っていった方が良いのではないかという意見がユウリの脳内で少しずつ強くなってきていた。
なにより列車の方が圧倒的に速い。ユウリはあの青年を追いかけて南に向かっているのだ、速さは重要ではないのか?
そんな思考を、ユウリは首を横にふることで掻き消す。もし列車が事故でも起こしたらどうするのか。運転手も今は自我がない。線路に倒木や落石が横たわっていたとして、それを認識できるとは思えない。そもそもそんなことを言うなら、エンジンシティから列車に乗ってしまえばよかったのだ。ワイルドエリアを徒歩で抜けた意味が無い。
「ふーっ」と息を吐いて、ユウリは一歩踏み出した。
ざくっという砂利を踏み締める音がトンネルにこだまする。緊張しながら、ユウリは足元に注意して進んでいった。
トンネル内の灯の色がオレンジであることもあり、腰についている6つのボールのうちの1つ、ウルトラボールが、赤い光を僅かに放ち続けているのにユウリが気づくことはなさそうだった。
「うぃいっす失礼しまーす——おっ、ヒカリ。なんだ、いーもんもんじゃんじょん」