愛に報いて   作:敷き布団

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第10話 千聖との日常

『仕事の終わる時間何時ぐらいだ?』

 

『今日は遅いから9時ぐらいかしら』

 

『待っとくわ』

 

メッセージアプリを閉じて夜の深まりつつある空を見上げる。あれから気がつかない間に千聖との連絡頻度も相当高くなっていたし、こうやって2人で会う時間も増えた。俺も暇な時間は千聖と連絡を交わすことが殆どだったし、千聖も本当に仕事をしているのかと疑うぐらいの頻度で連絡を返してきていた。

そんなわけだから、前までの惨めな自分、目の前から去っていった沙綾を追い続けた自分が嘘のように、俺は千聖と作るまやかしの幸せに溺れていた。一体何が俺を吹っ切れさせたのかと問われれば分からないが、高台の公園で千聖と交わした口付けで、過去の自分と決別しようとしたのかもしれない。

 

 

 

「待たせたわね」

 

「いんや、そんなに」

 

闇の中から現れたのはそんな待ち人。自らを身を窶すように帽子や防寒具を纏って現れた千聖は街頭にもたれかかって待っていた俺の体の横にもたれかかった。

 

「……ふぅ」

 

「疲れたのか?」

 

「いえ、……落ち着くってことだけよ」

 

横を見ると千聖はそっと目を閉じて、何かを考えているように見えた。

 

「それで、今日はどこ行くんだ?」

 

いつもの逢瀬のように、どこかのホテルに泊まるのだと思い地図アプリを開こうとするが、それを横から遮られる。

 

「行きたいところがあるから、帰るわよ」

 

「……はい?」

 

言っていることの意味が全く以ってわからず困惑する。千聖に手を引かれるまま暗い街並みを眺めて歩く。

 

「どこ目指してんだ?」

 

「着いてから教えるわよ」

 

そんな風なやりとりをどれほど繰り返しただろうか。そこそこの距離を歩いて着いたところはごく普通のマンションだった。といってもタワーマンションとかそういうのではなくて、どちらかと言えば集合住宅と形容した方が近いかもしれない。建物自体はかなり新しそうで、住宅街の少しだけ外れたところにあるこじんまりとした物件だった。周囲の建造物と比べるとどこか一線を画す雰囲気を有している。

 

「……んで、こんなところ着いたけど何しにきたんだよ」

 

階段を上りながら千聖に問いかけると、思いもよらぬ答えが返ってきた。

 

「言ったじゃない、帰ってきたのよ」

 

「は?」

 

そういって一つのドアの前に着くと鍵を取り出して、ドアを開ける千聖。そして何事もなかったようにその玄関に入っていこうとする。

 

「どういうことだよ?」

 

「まだ分からないの? ここ、私の家だから」

 

「は?」

 

いつか聞いたところの話では千聖は一軒家だとか言っていたような気がする。だが、明らかにこの部屋を一軒家と言い張るのは無理がある。……まさか。

 

「借りたのよ、新しくね」

 

「……まじで?」

 

「えぇ、嘘ついても仕方がないじゃない」

 

電気を点けると、たしかに少しだけ段ボールが置き去りにされてはいるが、わずかな生活感のある部屋が広がっていた。そして千聖は鞄をソファの上に放り投げると、ポカンと突っ立っている俺の方に向き直る。

 

「ねぇ、提案があるんだけれど」

 

「……何?」

 

「これから蓮もここで一緒に住まない?」

 

「……は?」

 

俺は自分の耳を疑った。何を言ってるんだこいつはという目を向けたが、千聖は至って真剣な目でこちらを見上げている。

 

「最近貴方家に帰っているの?」

 

「まぁ、妹が居なさそうな時に」

 

「妹……? あぁ、前言っていた絆ちゃんね。やっぱり帰りづらい?」

 

「それなりには」

 

「そうだろうと思って、ついでに私も親から口うるさく咎められるの嫌だったから」

 

そう言って千聖は、この部屋を借りた経緯を語ってくれた。説明こそされたもののその行動の思い切りの良さには正直驚いている。

 

「それで、どう? ちょっと露骨な言い方をすると同棲、ってことにはなるけれど」

 

「……お前は嫌じゃないのかよ」

 

「えぇ、蓮だから、今更じゃない?」

 

千聖の言うことも分からないでもないのだが、それでも出会ってから日が浅いというのに同棲というのは少しぶっ飛びすぎでもないかとも思った。そんな俺の様子を見て察したのか、千聖の顔には暗い影が落とされた。

 

「もちろん……嫌だと言うなら無理強いはしないわ」

 

「そういうわけじゃ……」

 

「でも」

 

立ち尽くしていた俺に詰め寄るだけでなく、千聖はゆっくりと倒れるように俺の体に体重を預けた。

 

「……こうしたら、忘れられるような気がしたから」

 

「千聖……」

 

「……それに、蓮だって、私が、完全に忘れさせてあげるから……」

 

忘れさせてあげる。深い傷跡を残した沙綾を。俺を裏切った沙綾を完全に忘れることができると言うならば、それは俺にとって、願ったり叶ったりなのかもしれない。……どれだけ悔やんでも、俺から離れていった沙綾が戻るわけではないのだから。

 

「お互いに忘れて……幸せになれるから。お願い」

 

「……わかった」

 

俺を追い縋るような声を上げる千聖の声を拾わぬことなど、俺にはできるはずもなかった。だって俺だって、誰かを追い縋りたかったのだから。そして、俺は今、千聖に追い縋れたらどれほど幸せだろうか、そう思ったんだ。

深く溺れてしまわないと、罪悪感と失望の狭間という、不安定に揺らぐ気持ちは耐えられそうになかったのだ。

 

「……ねぇ」

 

「千聖?」

 

心の奥底までを見透かしてくる澄んだ瞳が俺の顔を射抜いてくる。熱の籠った視線が向けられて、俺を縛り付けていた氷の鎖が溶ける。

もう俺はこの沼から這い出すことは出来ないのかもしれない。最初こそ沙綾という亡霊を追い続けていた俺は、気がつけば他のもので代用して、それで心の安寧を保っていた。気が付かないうちに、俺の中で千聖という存在は大きくなっていて、かつて俺の殆どを占めていた沙綾という部分を埋めていったのだ。

 

「蓮、こっちを見て?」

 

アルコールのような陶酔を招く声が脳に広がる。これだ、これが思考を狂わせるんだ。こんなにも辛い現実をあやふやにできるほどの酔いが回る声が。お酒はアルコールが抜けて仕舞えば現実を更に辛くするのに、このアルコールは決して抜けない。そして、千聖はそんな俺の狂った思考を受け容れるのだ。

だから俺は、溺れたんだ。

 

 

 

結果から言えば、千聖との同棲は意外と上手くいった。俺は千聖に促されて学校に出席するようになったし、千聖は前と変わらず女優として、アイドルとして活動に励んでいるし。先に帰ってきた俺が千聖を出迎えて、なんてのが新しい日常になった。

 

「ただいま。……あら、今日はお出迎えなし?」

 

「すまん、考え事してた」

 

「……ぎゅー」

 

「……ん」

 

強いて変わったことと言えば、……これは同棲を始める直前ぐらいから思っていたことだが。

 

「……どうしたの、蓮?」

 

「……いや、丁度、千聖からのスキンシップが増えた気がするなって考えてただけだ」

 

「あら、私から、じゃなくて蓮から、って言った方が正しいんじゃないかしら?」

 

「そんなことないだろ」

 

実際のところ数えてなんかないから分からないが、俺からそんなスキンシップを求める時なんてあるだろうか。

 

「……蓮が過去を思い出して苦しんでる時とか」

 

「……それは、別だろ」

 

大体、そんな重たいことに思い悩んでいる時にスキンシップがどうとかなど考えてはいない。……それに。

 

「辛い時ぐらい……あるだろ」

 

「……えぇ、もちろん」

 

そう小さく呟くと、お帰りのハグみたいなのではなく、まるで赤子をあやす母親のような慈愛を込めた抱擁をされた。心の底から温められそうな、そんな温もりのある抱擁。

 

「いいのよ……いっぱい甘えて。蓮が甘えてくれたら、私も幸せだから……」

 

「……あぁ」

 

「貴方のことを守れるのは私だけだから……だから、私に溺れなさい……」

 

千聖の言葉に誘われるように、俺は全てを千聖に預ける。千聖と暮らして、過ごす時間が長くなって、ますます自分が千聖に溺れたいと思っていることに気がついた。それが同棲を始めて変わったことなのかもしれない。新たな日常で芽生えたこと、それは悪く言うならば『依存』、綺麗な言葉で語るなら『支え』と『信頼』だろうか。千聖がいるから、今の俺は生きていけるのだ……そう思ったのだ。

 

 

──────────────────────────

 

 

遮光カーテンが全て閉められて、部屋の中は電気も付けていないから、お昼時なのに部屋は真っ暗。そんな真っ暗な部屋の中で私は布団の中に潜りながら、何をするのでもなく震えていた。

そんな私の脳裏を過るのは、最後にモールで蓮と会った時の、蓮の不安そうな顔。私の反応を見て何かを疑うように突き刺さる目線。本当は蓮に全て言って、助けて欲しかったのに、怖くて、怖くて、言い出せなかった。

そんな後悔がずっと頭の中に残り続けているのだ。

 

私はモゾモゾと布団から腕だけを這い出させて、枕元の辺りに置かれたスマートフォンを手に取る。真っ黒の画面は電源をつけると、不安を煽る青い光がぼっと部屋を照らす。

メッセージアプリを開けると、一番上に出てくるのはポピパのみんなからのメッセージや、かつて私のいたCHiSPAのみんなから送られてきたメッセージ。しばらく開封はしておらず、心配をかけている自分がますます嫌になる。そして画面を下にスライドすると出てきたのは、私が最も愛おしく慕うその人がいた。

 

「蓮……」

 

暫くまともに声も発していない私の声は掠れながら部屋の闇に消え行く。私は何をどこで間違えたのだろうか。私がメッセージを開くと、私が最後に送ったメッセージのやりとりだけがポツンと浮かび上がる。

 

『沙綾、あの各務菊磨の報道、見た?』

 

『ごめん』

 

私が終わりを悟ったあの時、蓮が真相を悟ってしまったその瞬間、積み上げてきたものが一気に崩れ去った。せめて蓮がこの報道を見ないでいてくれたら、とどれだけ願ったであろうか。もしも知られていなかったら、全部私の心の中で仕舞い込んで、蓮と平凡で幸せな毎日が送れたかもしれないのに。

けれど、結果的に私は蓮を裏切ったのであって、そんなことを祈るのは烏滸がましいことなのかもしれない。けれど、けれど。少しだけ、少しだけでも手を差し伸べてほしかった。だが、手を差し伸べて欲しかったのに、それを絶ったのも私のせいで、私の意思だった。蓮に向ける顔なんてなかったんだ。

 

「ひぐっ……蓮……うぅ、ごめんね……蓮」

 

私の声は部屋の闇に溶けてゆき、想い人に届くことはない。

 

「助けて……」

 

私をこの絶望の世界から、助けてよ、蓮。









漸く新しい日常に溺れていく主人公。それはそうと沙綾ちゃんの側も不穏ですね。
というかみんな何かに病んでます。
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