千聖と住んでいるこの部屋は長いこと住んでいた自室よりも居心地が良かった。そこにはまるで自分が長い間、最初からここにずっと住んでいたかのような安心感があった。もちろんそれは、この部屋で共に暮らしてくれる、千聖がくれるものだった。
「8時……か」
以前なら夜の街に繰り出そうとしていた時間であったが、もう今は違う。すぐに帰ってくるであろう千聖を待つ時間だった。7時に仕事が終わったなんて言ってたから、もうとうに帰ってきてもおかしくないような時間だったのだが、珍しく千聖の帰りはちょっと遅い。そわそわした気持ちを抑えつけながら、カーテンの外に覗く夜空を見つめていた。
ガチャリ、という音がする。千聖が帰ってきたのだと腰掛けていたソファから立ち上がる。だが、いつもより乱暴に扉が開けられて入ってきたのは、いつもより憔悴したように見えた千聖だった。
「おかえ……どうしたんだ?」
「……蓮、蓮っ……」
いつにもなく取り乱した千聖は俺の胸元に顔を埋めたまま顔を上げようとしない。千聖の金色の細糸を梳きながら頭を撫でると、ぽつりぽつりと千聖が小さく震えた声で呟いた。
「……ぐすっ、ごめ、ごめんなさい……蓮……」
「ん……、いいよ、全部吐き出して」
相当溜めていたであろう涙を溢れさせながら千聖は声を上げる。少し時間が経ってしゃくり上げる声もなんとか収まってきた。ずっと千聖の小さな頭を撫で続けた腕をそっと離すと、千聖の抱擁はより強くなる。
「……もっと」
「うん」
ずっと立っているのもなんだったので、千聖の手を引いて2人がけのソファに座り込んだ。
「……何かあったんだな」
ただならぬ様子の千聖を宥めすかすと、何があったのか問われた千聖はゆっくりと顔を上げた。
「……私が会社を出たら、記者がいて」
「……うん」
「菊磨とのこと……バレて」
「うん」
「……ごめんなさい。こんなことで……ごめんなさい」
「……いいんだよ」
突撃取材を喰らったのか、それもかつての各務菊磨との交際の。
千聖にとって、心を打ち砕かれるような過去を穿り返すような取材だったのだろう。以前の千聖が俺の教えてしまった酒の魔力に負けてしまったことを思えば、メンタルが不安定になったとしてもおかしくはなかった。
千聖はきっと、記者に追いかけられて、自分のトラウマを思い出したのだ。
「……ごめんなさい、ごめんなさい」
「千聖が謝ることじゃないから、辛かったんだろ……もっとこっち来いよ」
「……うん」
ただ、そういうことであれば千聖がこんなに必死になって俺に謝罪の言を繰り返す意味があまり分からなかった。だってこうやってお互いに過去を慰めて泣きたくことだなんてこれまでもごまんとあったから。そんなので迷惑をかけたなんて考えていたとしても今更なことだった。
それでも千聖から謝りの言葉が止むことはない。まるで何かの赦しを乞うような強迫観念に迫られているように、その言葉が止むことはなかった。
「……いいんだよ、千聖。……どうしてそんなに謝っているんだ?」
俺がそう問うと、千聖の言葉がピタッと止まった。そしてモゾモゾと起き上がり、顔面蒼白で小さく語り始めた。
「……最初に、貴方と会った時、私は絶望のどん底に居たわ……」
「……橋の上で、会った時だな」
小さく頷くと、千聖は話を続ける。
「……菊磨が憎かった。私を誑かして……私を狂わせたのに……私を捨てた、アイツが憎かった……」
「……うん」
「貴方と出逢って、私と同じ立場の貴方を見つけた時……私は神様がくれたチャンスだと思った……、壊れてしまった私の心の癒し、逃げ道をくれたんだって」
「……うん」
「だから、最初は貴方を使って、復讐したわ。同じ相手に狂わされた者同士、アイツに復讐しようとした。復讐してそれで少しでも私の欠けた窪みが埋まればって」
千聖がいつか言った『意趣返し』。それがまさに復讐であり、現実から逃げるためのドラッグだったのだ。
「だから、最初は貴方のこと、都合の良い、心の穴を埋めてくれるだけの男だと、思っていた……。あの時の自暴自棄だった私は、ただの都合の良い男だとしか思っていなかった……、所詮ただの身代わり……菊磨の、菊磨の代わり、……紛いもの」
「……紛いもの」
「好きだなんて、言ったのにっ……、そんな純粋な気持ちなんかでもないっ、自分勝手な……ぐすっ、独りよがりでっ」
「……そうか」
「だから、ごめんなさい、ごめんなさい、蓮のこと、ひぐっ、そんな目で見ていて、本当にごめんなさい……」
「……」
「今の私には……もう、貴方しかいないからぁ……。だからお願いっ……、私を捨てないで……私を1人にしないで……!」
千聖の悲痛な叫びが、部屋に響く。千聖の力の籠った瞳から流れる大粒の涙。普段の澄ました表情からは考えられないほどにクシャクシャにして、必死に訴えかける千聖の表情。
「お願いしますっ、見捨てないで、私を捨てないでっ、蓮……!」
……千聖のそんな謝罪を受け入れないなんてこと俺にはできようもなかった。だって、俺だってそれは同じことだったから。千聖は俺に迫り、必死の訴えは止まない。
「もう私……蓮がいないと、生きていけないからぁ……」
俺だって、最初は流されるままに千聖と一夜を共にした。沙綾の裏切りという事実から目を背けるために、酒に溺れて、妹と決別して、大切にしていたものを全て失って、そんなかけがえのないはずの沙綾の代用品が千聖だったのだ。
「だから……捨てないで、ください……お願い……します……」
狂気に駆られた千聖が必死に縋る姿を見て俺は思ったんだ。
『美しい』って。
「れ……ん……?」
俺が千聖の前にしゃがみこんだからか、冷たい木の床に頭を擦り付けて赦しを乞うていた千聖が僅かに頭を上げる。そんな千聖を俺は、そっと抱きしめた。
「……俺こそ、ごめんな千聖」
「蓮……?」
まだ荒い過呼吸を続ける千聖の頭をゆっくりと撫でる。徐々に千聖の呼吸が落ち着いていくことが分かった。千聖が勇気を振り絞って、打ち明けてくれたのだから、それに俺は報いなければならない。
「……千聖がそう思ってたってこと言ってくれて、正直嬉しかった。最初なんてどうして千聖が酔い潰れた俺を助けてくれたかなんて、ずっと不思議だったから……」
「でも、私は、そんな綺麗な理由じゃ……」
「……いいんだよ、綺麗なんかじゃなくても」
千聖の呼吸は漸く落ち着いて、息の音もとても小さくなった。
「俺だって最初は酒に溺れて、現実に打ち拉がれて、それを助けてくれただけで、千聖なんか、現実逃避の術ぐらいにしか……考えてなかった……」
「……蓮」
「だから、だから、……俺こそ、……ごめん」
俺は千聖に顔向けなど出来るはずがない。考えていることは、千聖に負けず劣らずクズなのだから。だから、俺はただ謝罪の意をと、地に伏した。
「……蓮、……頭を上げて?」
それをやめさせたのは、千聖だった。千聖の声色は先程までの強迫されたようなものではなく、柔和な温もりの持った声だった。
「私はね、蓮。……貴方と居れて、幸せなの。例え、それがどんな経緯であったとしても」
「俺だって……千聖といるだけで、それだけで、俺は幸せだ」
「ふふっ……、なら、それでいいじゃない……お互い様、だから……、どんな理由で貴方と会えたとしても、そんなの……関係ないから」
涙を零しながらも、ようやく千聖は僅かな微笑みを取り戻してくれた。千聖がそうやって微笑むだけで、俺はまるで許されるような、そんな温かさを感じた。
「確かに、沙綾が菊磨と浮気なんてしなきゃ、千聖と会うことなんて、絶対になかった」
「……っ、うん」
「……でも俺は、こうやって裏切られたから、千聖と一緒に居られるんだ」
「……えぇ。貴方が居なきゃ、私は、ぐすっ、もうダメなの……蓮以外なんて要らない……!」
「千聖……」
千聖の抱擁はとても熱い。まるで心の底から熱しているかのように冷え切った心を穏やかに温めていく。
「蓮……れんっ……ひぐっ、れんっ……!」
千聖はずっと、俺に独りよがりの感情を抱きながら俺を慰め続けてきたのだ。きっと、それを菊磨との交際報道で掘り返されて、独り不安と闘いながら帰ってきて、そして限界を迎えたのだ。
きっと千聖は、俺に依存しているんだ。菊磨に純情を踏み躙られ、現実に感情を蹂躙されて、やっと見つけた心のオアシスから離れられないのだ。俺が、救わなければいけない。だって、俺を最愛の人の裏切りという絶望の淵から助け出してくれたのは千聖なのだから。大切な人を何度も裏切ってなお、現実から逃げようとする俺を受け入れてくれたから。
「蓮……、ありがとう、私の傍にいてくれて……」
「……気にすんな」
「貴方が居ないと……ダメになっちゃうから……」
そして、俺を縋ってくれるから。千聖が俺が居ないとダメになると言うのと同じで、俺だって愛する人がそこに居なきゃダメになりそうなんだ。もう裏切られたくはないから。もうあんな想いはしたくないから。
たとえこれが沙綾への裏切りだとしても、千聖は俺が居ないとダメだから。それに、最初に裏切ったのは、沙綾じゃないか。
「ねぇ蓮、……一つ聞いて欲しいことがあるの」
「どうした?」
すっかり泣き止んだ千聖は二人並んだソファの上で、俺にもたれかかっていた体を起こす。先程まで輝きを失って虚を眺めていた千聖の瞳は潤いに満ちたように光を得て、俺の方を一点に見つめる。その瞳を見つめ返すだけで闇の中へと吸い込まれるような感覚に陥るような、妖しい瞳だった。
「それに近しいことは既にさっき言ってしまったのだけれど、有耶無耶にしたくないから、改めて私の口から言わせて欲しいの」
千聖の目は真剣そのものだった。
「私、貴方のことが好き。私をここまで狂わせるその瞳が好き。私を蕩けさせるその声が好き。私を溺れさせるその手が好き。私を酔わせるその匂いも好き。優しさも、温もりも、全部、全部好き」
淀みなく全てを言い放つ千聖は、まさに狂気を孕んでいた。
「蓮が、好き」
ここまで一途に慕われるなんて、どれほど幸せなことなのだろうか。きっと千聖は、俺を裏切らないから。
「答えをちょうだい?」
「俺は」
だから俺は。
「千聖が、好きだ」
「……ふふっ♪」
溺れている。互いに溺れている。
溺れて、狂っている。
菊磨とのかつての熱愛がメディアにバレた千聖さん。『千聖が依存している』なんて言ってるけどお前も依存してるぞ主人公。