何も見えない真っ暗な世界。どこかフワフワとした浮遊感がして、周りを見渡すと何もない。何故俺はこんなところにいるのかも分からないままに、そんな浮遊感に流されている。
突如差し込んできた光が、ゆっくりとそんな闇の世界を切り拓いていく。そんな光に誘われるように俺の目はゆっくりと開かれていった。
「……ん」
まだ視界は半分以上ぼやけていて、視野はかなり霞んでいるのだが、よくよく見ると奥に映るその背景は家の天井であった。そうか、ここは家なんだ。家に帰ってきたのは分かったけれど、こうやって俺が意識を失う直前の記憶が曖昧だった。俺は一体何をしていたのか。
やがて視界がはっきりとしてくる。なぜか全身は脱力していて、倦怠感が襲ってきた。
なんとか体を起こそう、そうした時、ちょうど視界の端っこでドアが開いた。軋むような音を立てて入ってきたのは千聖だった。
「……おはよう、蓮」
「あぁ、……おはよう、千聖」
挨拶を交わしながら、体を起こそうとした。けれど千聖はそんな俺の動きを手で静止させた。
「……どうしたんだ?」
俺の問いかけに千聖は何も答えることなく、突然俺の唇を奪う。全身の力が抜けるようにベッドの上に倒れ込んだ俺は、千聖の舌を抵抗することなく受け入れていた。
そんな瞬間だった。ガチャリ、という音が響いて、俺は驚き目を開けた。
「え……何……して」
「……何って、見れば、分かるでしょう?」
「なんでこんなもの……」
千聖が手にしていたのは長い紐。そしてその紐は俺の首にいつのまにか取り付けられた首輪に繋がれていた。
こちらに妖しげな笑みを向ける千聖の表情を見て、思わず震える。千聖は俺に妖気に満ちた微笑を振り撒くと、ゆっくりと俺の寝転がるベッドの上に上がり込み、倒れたまんまの俺に抱き着く。
「だって……蓮が、私を捨てて逃げるから……」
「そんな……」
徐々に、徐々にかつての、気絶する前の記憶が甦ってくる。そうだ、俺は気絶する直前に後ろを振り向いて、そして俺を襲った相手をはっきりとこの目で見たんだ。それは紛れもなく、今俺の目の前にいる千聖だった。
「……私のこと、見捨てないって……言ったわよね?」
千聖がこちらを、こちらの心の奥底まで、深く覗き込む。その瞳には不思議と活力は宿っていなかった。
「私のこと、絶対に……一人にしないって……言ったじゃない……」
「千聖……」
「私の傍に居てくれるのは……もう蓮しか居ないから……」
深淵の闇が潜むその瞳に摘まれたように、俺の思考回路はまるで働かない。その瞳と見つめ合うだけで分かる、千聖は、壊れてしまったんだって。そして、壊したのは、紛れもなく俺だった。
「私から、離れないでよっ……ずっと、私の傍にいてよぉっ……」
「……ごめん」
幸い両手は空いているので、倒れ込んで抱き着いている千聖の髪をそっと撫でた。そうだ、こうやって俺たち二人は狂っていったんだ。愛に飢えて、愛に狂って、仮初の愛を真実の愛と信じて、二人で壊れていったのだ。だから今こうやって、壊れてしまったのだから。
「……私こそごめんなさい」
「……どうして千聖が謝るんだ」
「私だって……こんなの、可笑しいって……馬鹿げてるって、分かってるから……」
「……そう、か」
千聖の震える唇はまるで俺を誘っているように蠱惑している。きっと二人とも理解していた、これが異常だなんて、おかしいんだって。間違っているんだって……。
「……だから、ごめんなさい……蓮……」
熱を持った涙を流しながら訴えかける千聖を責めるなんて、俺にはとても出来なかった。だって千聖をここまで壊してしまったのは俺のせいだったから。
「私の傍から……もう離れないで……」
けれど、俺はそれにすぐに頷くことも出来なかった。こんなの間違ってる、そんなの俺にも分かってたから。これで受け入れて仕舞えば、本当に俺たちはダメになってしまうだろうから。僅かに残った理性がそう叫んだんだ。
……それに、俺はまだ、沙綾に本当のことを、謝れていなかった。それだけが心残りだった。沙綾は本当は裏切りなんかしてなくて、俺はこうやって裏切りを重ねて。
千聖の心をここまで壊してしまったのは確かに俺かもしれない。けれど、未練を残した沙綾を裏切って沙綾を壊したのもまた俺だった。
倒れる前に、有咲と名乗る少女から耳にした、沙綾の状況。俺にはそれを見ないフリをすることも出来なかったのだ。
「……そう、……それでも良いわ」
何も答えることのない俺を見て、千聖は少しだけ息を吐いた。一瞬だけ見せた寂しげな表情に頭がイカれそうになる。
「けれど、絶対に貴方を……私の虜にしてみせるから。私から二度と離れられないようにするから……」
千聖の目にはもはや光は宿っていない。俺がその明かりを消してしまったのだろうか。スイッチ一つで部屋の明かりが消えるように、心の炎が消える時は一瞬なのかもしれない。
「だから……私を愛して? 蓮……」
俺はその愛を拒むことなど出来ない。当然のことのように受け入れる他なかった。
千聖の唇は俺の口の中を隅から隅まで犯し尽くす。熱いベロで俺の存在を確かめるようにただ一心不乱に俺の唇を貪り続ける。
「んちゅっ……んはぁっ、はぁっ……」
そんな激しいキスの余韻を楽しむように、二人を繋ぐ糸は切れようとしない。むしろそれすら飲み込む勢いでまたもや俺は蹂躙されて、抵抗することなど出来ないままに喰べられるのだ。
「蓮が居なきゃ……私は……」
脳髄の全てが溶かされそうな甘い声が部屋に響く。外の明かりすら入ってこない薄暗い部屋の中で、何度も何度もそんな甘く激しい声が反芻して、俺の脳を可笑しくするのだ。大事なものまで、全部溶かすように。
監禁されてしまっているのなら、逃げられないのなら。大人しくこの歪な愛に従う方がマシなのだろうか。俺の首に嵌められたチョーカーは、決して俺は千聖から逃げられないと言っている。けれど、こんな愛の形はきっと間違ってる。俺が千聖に求めていた愛は、こんな愛じゃないから。俺がこれまで育もうとしてきた愛は、きっとこんな強制的に相手を縛り付けるような愛じゃないから。
千聖にこれ以上歪んだ愛を植え付けてはいけない。俺が何とかしなきゃいけない。千聖を壊したのが俺であるように、千聖を元に戻せるのもきっと、俺だけだから。けれどもこの歪んだ愛からは逃れられない。
あぁ、俺、一体なんでこんなこと、してるんだろう。
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「……絶対に私を、一人にしないで……?」
「……あぁ」
「んっちゅ……、……行ってくるわね」
私がこの愛の巣から出かけようとした朝、蓮の気持ちはやはり沈んでいるように見えた。それはきっと、昨日、あの悪魔のニュースを見たから。私はあの後すぐに眠りについてしまった。だってあそこは私の桃源郷だったから。けれど、きっと蓮はその時に、私の知らない何かを知ってしまったのだろう。蓮の態度はあまりにもよそよそしく見えた。
「……ふぅ、さて、蓮は……どうするのかしら?」
何かの胸騒ぎがした。それの正体はきっと蓮が何かのアクションを起こすからなのだろう、と、私は直感的に察した。本当は今日は仕事なんてない。連日の報道で心をすり減らしているだろうと心配してくれた事務所が私に少し休みをくれたから。だから私は本当は家を出る必要なんてなかったのに。なぜか、私は蓮の考えを知りたくなって、今こんな風に端末の画面を穴が空くほどに見つめているのだ。
「……あ、動き出した……」
端末の画面に映る蓮の位置情報は、やはり何故か動き始めた。今日はどこにも行かないなんて私に言っていたのに。やっぱり私に何か隠して、しようとしていることがあるのだ。私はそれが、素直に寂しくて、悲しかった。
「……これは、商店街かしら……?」
私もよく訪れる花咲川の商店街。どうして、どうして蓮がこんなところに用があるのだろうか。私は嫌な予感がした。だって、あそこには、あそこには。
蓮の、かつてのオンナがいるから。
蓮が過去に一度だけ、その名前をポロリと漏らしたことがあった。『沙綾』と言っていた。きっとそうだ、そういうことなのだ。
間違いない。蓮をかつて裏切ったのは、沙綾ちゃんだった。
その証拠にやっぱり、GPSのデータはあの、山吹ベーカリーの周辺を指している。
「……行かなきゃ」
蓮が私から離れていくと言うならば、蓮が私から離れられないようにすれば良いだけだもの。蓮は絶対に私から逃れられない。運命がそう決めているのだ。蓮の隣に居るのは私なのだと。
だから許せなかった。例え少しの間だけでも、私以外の人を見る蓮だなんて。
あぁ可愛い。きっと私が何も知らないとでも思っているのかしら。そんなところが本当に可愛い。愛おしい。蓮のことを考えるだけで狂おしいほどに、愛が溢れる。
けれど、きっとこんなに醜い'私'を見せてしまったら嫌われちゃうから。蓮に嫌われたら私は生きていけないから。
……だから私は、必死に隠すのだ。必死に演じるのだ。強い'白鷺千聖'を。蓮の前だけでしか生きていくことのできない女を。
「……あれ?」
私が山吹ベーカリーに向かっている時だった。何故か蓮の位置座標が急速に変わる。けれど動き方から見るに装置などの故障ではない。きっと蓮は走っているのだ。私は急いで山吹ベーカリーの近くへと向かう。路地裏を抜けていこうとした時、少し遠くに一瞬だけ、走り去る蓮が見えた。何故か、有咲ちゃんも一緒に。
正直、有咲ちゃんと蓮が一緒にいる意味が分からない。そもそも接点がないじゃないか。
許せない。許せない。許さない。
私は走った。追いかけて、蓮が逃げた方へと急いだ。すると道の角を曲がった先で二人は止まったようだった。私は角に身を隠して、聞き耳を立てた。せいぜい2,30mは離れているから、あまり声はまともに聞こえないけれど、どういうわけか聞こえてくるのは有咲ちゃんの怒鳴り声。
どうして? どうして蓮がそんな仕打ちを受けているの?
けれど途端に有咲ちゃんがこちらに走ってくる。私は咄嗟に電柱の影に身を隠した。周囲には目もくれず、向こうの方へと走り去っていく有咲ちゃんは、私の存在に何とか気づかなかったらしい。なんとか一息ついて、空を見上げている蓮の様子を遠目から伺った。
そんな時だった。蓮からメッセージが届いて、私は慌ててそれを開いた。
……ごめんね、蓮。私だってこんなことしたくもないのに。私にはもう貴方しかいないから。私から離れようとする貴方が、許せなかったの。
だから、……ごめんね。
お互い狂っていると理解しながらも止めることのできない愛の形。完全に溺れた時からの負の遺産ですね。
☆10をくださった、なっちゃんオレンジ様、☆9をくださった、まりう様。
高評価していただきありがとうございました。