あの後、絆と詳しい話を詰めることが出来た俺は、俺は沙綾にメッセージを送った。それは向き合う覚悟を決めたものであり、そして退路を絶つものであった。
『沙綾、久しぶり。俺も沙綾に言わなきゃいけないこと、謝りたいこと、沢山あるから、沙綾が許してくれるなら俺も会いたいです。だから、また、会えるようになったらすぐに連絡します。待たせちゃってごめん。けど、絶対に沙綾に会いに行くから、待っててくれると、嬉しいです』
そうしてメッセージを送ると、俺はスマートフォンを閉じる。さて、もう俺は逃げられない。俺はもう逃げない。今まで逃げ続けてきた現実に終止符を打つのだ。
「ふぅ……」
もう外は真っ暗で、外に広がる空にも星が瞬いていた。
ガチャリと扉の開く音がした。
「ただいま、蓮」
「……おかえり、千聖」
俺が何食わぬ顔でリビングで待っていると、持っていた鞄なんかを投げ捨てた千聖は何の躊躇もなく俺に飛び込んできた。
「……どうした?」
「ううん……こうしたかったから……」
俺の胸元に顔を埋めて甘える千聖は、まるで出逢った頃の姿と同じだと言うのに、いつからこんなにも変貌してしまったのだろうか。
「ふふ……明日久しぶりに休みが貰えそうだから、一日中蓮と一緒に居られるわ……」
「……そうか」
「パスパレの練習も明日はないから、漸くゆっくり出来そうだから……」
そう呟く千聖の表情は何故か悲しげで、俺はずっとこの瞳と声に狂い続けていたのだ。けど、ここから変えないといけない、いつまでも溺れていてはいけないのだ。だから。
「……千聖、明日さ、……俺の妹と、話せないかな?」
「妹……絆ちゃん、だったかしら?」
さて、これが第一段階だ、これで拒まれて仕舞えば、もはや強硬手段という手立てを使うしかなかった。けれど、そんな身構えていた俺にとって、千聖の返答は意外なものだった。
「……えぇ、良いわよ。どんな用件かしら?」
「……あれ、良いのか?」
「えぇ。蓮の妹さんでしょう? 私は構わないわよ、それで用件は?」
用件か、それならばと口を開く。
「単純に会ってみたいから、ということらしいけど」
「そう……、……私も一度お話ししてみたかったから、構わないけれど」
「そうか、それじゃあ」
「けれど、折角だから家にお招きしましょうか」
「え?」
どうやら千聖の考えでは、絆と話をするならこの家にまで来てもらおう、ということらしい。千聖の顔は丁度電灯の影になっていてその表情からはあまり多くを読み取れない。……しかし、予定では、千聖と俺と絆と、3人で外で会う心算をしていたから、どうしようかと迷った。
「けど外食すれば……」
「……流石に今の私は週刊誌なんかに追いかけられてる身だもの。外にはあまり迂闊に出られないわ、況してや例え蓮でも、男なのだから」
「それは……」
「外で食べたいと言うのなら、妹さんとだけでなら良いけれど」
けど、と続けて千聖はソファに座りながらこちらにもたれかけてくる。
「折角蓮と2人でいられるのに……蓮と居られる時間を、削りたくないから」
「……そう、か」
「……蓮と、離れたくないし……蓮と居られる時間は、1秒たりとも無駄にしたくないから……」
「分かった……」
先程まで影に隠れていた千聖の顔は不安に濡れていた。俺はこんな千聖をそのまま放っておけるわけがないのだ。だからこそ、絆の助力を必要としているのだから。
「……だから、妹さんには……この家に来て欲しいわ。勿論、その首輪だって……外して良いから」
俺の首元につけられたリード。これを外すのが許された時は、これまで千聖と一緒にお風呂に入る時だけだった。流石に絆の前でこれを見せるつもりはなかったのか、そんな提案をしてきた千聖に俺の心は揺らぐ。
「……だめ、かしら……」
「そう……だな……」
「今から妹さんに、連絡を取っても良いから、その条件なら、私も会ってもいいかな……と思ったわ」
「……分かった」
そう言えば千聖に妹と連絡を取ったことをバレるような話し方をしてしまったことをさりげなく後悔しながら、俺はスマートフォンで絆にメッセージを送る。俺がやりとりしている間も、千聖は俺の服の裾をぎゅっと掴んで、顔を埋めていた。
そんな中、妹から帰ってきたメッセージは、『分かった』というものだった。それを千聖に伝えると、震えながらも起き上がった。
「……そう、それじゃあ、もう遅いから、……明日に備えて寝ましょうか」
「だな」
そういうと俺と千聖は簡単にお風呂など支度を済ませると寝室に向かう。いつもならこのまま俺の首には首輪が付けられるはずなのに何故か千聖は付けないまま布団に潜る。
「千聖? 首輪は……良いのか?」
「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「……千聖」
俺の問いかけには答えず、小さく懺悔の言葉を繰り返す千聖。俺は同じベッドに入り込むと、千聖を抱き締めた。俺の腕の中で震える千聖は可憐でどこか儚くて、壊れてしまいそうな繊細さを放っている。そうして俺たち2人は暫くぶりに、柵のない夜を明かしたのだ。
絆がこの家を訪れたのは翌日、昼過ぎぐらいのことだった。チャイムの音が鳴る。俺はリビングではなく応接室のソファに腰掛けて待っていた。そして部屋に絆がやってくる。絆に続くように入ってきた千聖は迷わず俺の隣に腰を下ろした。
「……初めまして、貴女が蓮の妹さんの、絆ちゃん、だったかしら?」
「どうも、初めまして。兄がお世話になってます」
ペコリと頭を下げた絆。テーブルを挟んだ2人の醸し出す雰囲気はまだ読み取ることが出来ないほど微細なもので、千聖の表情もまだ柔和であり、リラックスしているようだった。
「蓮から話を聞いてずっと会ってみたかったわ」
「それは……とても光栄です」
本当ならば久方ぶりの妹との再会であるはずなのに、これから起きることを考えるとそんな感傷に浸る余裕もなかった。だが、俺の方が緊張している一方で、絆の表情は長い間会ってないからイメージがないせいかもしれないが、キリッと研ぎ澄まされた顔をしている。
「それで、蓮から、私に会いたがってると聞いたのだけれど、……何の御用件かしら?」
千聖のそれまでの表情が一変して、鋭い目つきで絆を見定めようとしていた。きっと千聖も、わざわざ妹が会いにくると言うことは何があるのだろう、という予測ぐらいは立てていたのだろうか。
千聖のそんな問いかけに、絆は顔を上げて、千聖の方をしっかりと見つめた。
「……千聖さんが、兄を、この家から出さないようにしていると、聞いたので」
「……あら?」
「兄から、経緯は粗方お聞きしました。……だから、そんな千聖さんにお願いが……あるんです」
絆はそこまで言うと、押し黙ってしまった。……いや、そもそも絆にここまで言わせしめた俺が情けなさすぎたのだ。……だから。
「……ありがとうな絆。俺から、話すから」
「蓮?」
「千聖、俺たち、あの大雨の夜、橋の上で千聖に助けてもらってから、色んなことがあったよな。浮気された者同士慰め合って、一緒に暮らして、報道に苦しんで」
「……そう、ね」
「……あの日俺は千聖に救われてなかったら、今頃自分がどうなっていたかとか、見当もつかない、だから、千聖には、感謝してる」
「そんなの、私だって、一緒のことよ」
「一緒に暮らし始めた時だって、きっと俺は千聖のことを愛してたし、千聖だって俺のことを想っていてくれたと思う」
「……」
「だからさ、俺は千聖と……こういう、縛り付けるだとか、抑圧する愛じゃなくて、もっと真っ当な、……綺麗な言葉で言うなら、互いを尊重して愛し合える関係になりたい」
「……そう」
「俺の思う、本当の愛って、こんな鎖で縛る愛じゃないから。……こんなの、間違ってるから」
千聖は何も答えない。だから俺は言葉を続ける。
「……それに、……菊磨と沙綾……俺の元恋人にそういうことがあって、俺は勘違いにしろ、沙綾のことを裏切ってしまったから……。俺はケジメを付けて、沙綾に謝りたいんだ」
「……蓮の、言いたいことは、よく分かったわ。……申し訳ないのだけれど、少しだけ妹さんはこの部屋で待っておいて貰って構わないかしら?」
「……え?」
「ここから先は、私と蓮の問題だから……、すぐに終わるから、行きましょう、蓮」
そう言うと絆の意見を聞くこともなく、千聖は俺を連れ出して、向かいの寝室に入るなりドアをバタンと閉めた。しかし、千聖は俯いたまま何も話そうとはしない。
「……なぁ、千聖。それで、こういうのやめてくれるか?」
千聖は答えない。けれど、少しだけ俯いていた顔を上げた。
「……私はね、沙綾ちゃんのこと、知っているわ。浮気なんかするような子じゃないっていうことも知っているわ」
「そう、なのか」
「それで、……蓮が裏切ったのを謝りたいと言っていることも、分かる。私だって最初は、浮気されたことの復讐で、貴方と関係を持ったのだから」
「そこは一緒だからさ」
「……けれど、沙綾ちゃんに謝って、どうするというの?」
「……え?」
「沙綾ちゃんが許すかどうかは私には分からないけれど、……許してもらえるのなら、私を捨てて、沙綾ちゃんとよりを戻すの?」
「ちがっ」
否定しようとした。千聖を捨てたかったわけじゃないから。けど千聖は止まらない。
「……何が違うと言うの? 確かに蓮も元は沙綾ちゃんと交際していたわね。貴方は今度は苦しんでる沙綾ちゃんがほっとけないから、私を置いて行こうとするの?」
「そういうわけじゃ」
「……蓮、貴方は、何故私と付き合ってくれていたのかしら? どうして……私が依存してるって分かってからも、傍に居てくれたの?」
「……そんなの、大切だから」
「私が惨めだったから? 私が可哀想だったから? 本当にそんな気持ちなかったって言い切れる?」
「……それは」
俺は答えられず、閉口するしかなかった。
「貴方の言う互いに尊重し合う愛って……そんなものなの?」
「そんなわけない!」
「……けど、貴方は私の元を離れて、沙綾ちゃんの所に、行くのでしょう?」
「ちが」
「……貴方の言う、本当の愛って、何? ……私を、捨てること?」
「……千聖を捨てられるわけ」
俺がそこまで答えると、千聖はこちらを見上げて、ゆっくりと喋り始めた。
「……ねぇ蓮。私は貴方の言うこの愛の形が間違ってるってこと、……分かっているわ。私だってこんなのおかしいって、間違ってるって、蓮を縛りつけなきゃいけない愛なんて、私の欲しかった愛じゃない……」
「……」
千聖の目には涙が溢れていて、その呼吸も荒くなっている。
「けど……もうっ、私はおかしくなっちゃったからぁ……ひぐっ、喩え間違えてたとしてもっ、もう、ダメなのっ、私は蓮と一緒に居られなきゃダメになっちゃったからっ」
「……千聖」
「……蓮は、……蓮は沙綾ちゃんのところに、行きたいの?」
「俺、は」
「……私から、逃げるのね」
千聖の力の籠った瞳が俺を睨みつける。まるで愛情のひっくり返った憎悪のような。酷く冷たく小さな声が俺の耳に突き刺さった。
「蓮、貴方は私と一生を添い遂げるの……。大丈夫、2人でなら幸せになれるから……」
「ひっ」
未だ感じたことのなかった感情。その時明確に自覚したのだ。千聖が、怖いって。恐怖に押されるように壁際へとジリジリと追い詰められた。生気を失った瞳が俺を射抜く。金箔に包まれた虚な紫炎の瞳から涙だけが流れ落ちて、俺を見つめているのだ。
「蓮、貴方は私だけのもの……。沙綾ちゃんには渡さない……」
「あ……」
「私だけを見て。……私の愛を受け入れて? 私だけを愛して?」
「ひっ……」
震える冷たく小さな手が俺の頬に当てられる。千聖との距離は数センチと離れていない。
「ねぇ……なんで? なんでそんなに怯えているの?」
千聖の透き通る金の髪が俺の心を貫く刃物に見えた。そして俺は恐怖で足の力が抜けて、音を立てて崩れ落ちる。
その時、ドアがバタンと開いた。絆が来たのだ。
「あっ……」
「ごめんなさい、話を盗み聞きしてしまって。聞こえない部分もあったからはっきりとは分からないですけど、放っておけませんでした」
絆の口調ははっきりとしていた。
「確かにお兄のしたことは擁護できないし、どっちつかずのお兄も悪いです。けど、それとお兄を監禁することは別問題です。間違ってるって思うなら、どうしてもっと早く改めなかったんです?」
「……」
「……お兄、帰ろ。埒があかないし、そんな勝手な理由なら、お兄が監禁される謂れはない。お兄が見捨てるわけじゃないって言ってるのに、信じられない人と、真っ当な愛を築くなんて無理だよ」
「え、おい絆っ」
「お騒がせしました。二度とお兄に会わないで」
絆は俺を無理やり引っ張り出そうとした。
「……蓮だけは、ずっと傍に居てくれるって……信じてたのに」
嫌な予感がした。冷や汗が背中を一筋垂れていった。玄関の扉を開けようとする絆。
「あ、あれ、なんで開かないの」
「は? え」
「鍵? ……えっ」
俺の横で僅かに鈍い音と共に絆がふらりと倒れる。力が抜けたようにその場に倒れていった。
「絆?!」
血が出ているわけではない。俺は絆の方を見つつも、後ろに迫る狂気を振り返った。
「……千聖?」
「……ねぇ蓮。……私が前に言ったこと、覚えているかしら?」
「前にって」
「今の私には……もう貴方しか居ないから」
「そんなことっ」
「蓮が居なきゃ……もう私生きていけないって」
「……千聖」
「……嘘偽りない、私の本心よ」
「……」
「私は貴方のことを、誰よりも、愛しているの。……貴方が居ないと、生きていけないほどに……」
千聖の瞳からは光が完全に消えてしまった。ただ混沌とした闇の中に、俺の姿だけが鏡の様に反射している。
「……ごめんね、蓮。もう私、……私から離れようとする貴方が、許せないの。貴方のこと……愛してるから。狂っちゃうぐらい……。可笑しいわよね、こんなの」
「あ、ち、千聖……」
「愛してるから……、許せなくなっちゃった。……ひぐっ、本当に……、ごめんね?」
「あ……」
「……ふふっ、だから……、蓮が、私だけを愛せるようにしてあげるから……」
俺の視界は暗転する。俺はみくびっていた、見誤っていた。きっと千聖なら説得すれば分かってくれるって。けど、違ったんだ。俺が千聖を壊した代償は、あまりにも大きかったんだ。だってそうだろう。
じゃなかったらきっと、本当は優しくて、本当はか弱い千聖が、涙を流しながら、こんな狂気になんて、染まらなかったんだから。だからごめん、絆。……千聖。
説得及ばず。
結構物語も終盤に差し掛かってきましたね。次回もお楽しみに。