蓮にメッセージを送ってから、数日が経っていた。私はずっと蓮からの返信を待っていたのだが、音沙汰はないまま、私は普通の、かつて当たり前に享受していた日常を取り戻しつつあった。
様々な友人たちとの関わりが戻ってきたし、音楽との関わりも戻ってきたのに、やっぱり私の心は満たされない。たった6畳ほどの広さの暗闇の世界でずっと待ち続けた、蓮の存在が欠けていて、私の心は満たされないのだ。
「……またかけてみようかな」
何度かメッセージも送った。『待ってて』なんて言われたから、じっと待ち続けようとも悩んだけれど、どうにも嫌な予感がして、どうにも不安で、私は幾度か蓮にメッセージを送っていた。それに、今朝は電話もかけてみた。けれど、電話は繋がりもせず、それどころか電波が入っていないから、電源が入っていない、という無機質な音声が聞こえてきたのだ。
「……やっぱりもう一回」
葛藤の末に私は蓮の番号に電話をかける。しかし、やはり耳に届いたのは、プープー、という単調な機械音。蓮に繋がる気配はなかった。
私は正直に言えば悩んだ。蓮は私に『待ってて』と言ったのだ。そう言ったのだから、むしろ蓮に返信を催促するのは申し訳ない気がして。そもそも私は蓮からの救いの手を自ら捨てたではないか。そんな私が蓮に返信を急かすのは、烏滸がましいと思ったのだ。
……けど、やっぱり嫌な予感というか、虫の知らせがしていた私は、有咲の番号を呼び出した。こんなことで有咲を頼るのは申し訳ないし、さっきポピパの蔵練が終わったばっかだけど、私1人では決心できなかったのだ。だから私は、後押しが欲しかったのだ。
『あーもしもし沙綾? どうしたんだ? なんか忘れ物か?』
「ごめんね有咲……。有咲に相談があって」
『……蓮ってやつのことか?』
私が小さく肯定の返事を返すと、小さなため息の後、どういうことかという質問が来た。
「蓮から会って謝りたいけど、待っててってメッセージが来た話ってしたよね」
『あー、言ってたな』
「……けど、あれ以来何にも返信来なくって」
『まぁ、とは言ってもまだ4、5日ぐらいしか経ってないだろ? 心配しすぎなんじゃねーか?』
「そう、かな。でも、電話かけても繋がんなくて……」
『……そうだなぁ。もういっそ家まで会いに行くとかかなぁ……ぐらいしか私には思いつかねーな……』
「そう……だよね」
うん、後押しが貰えた。それだけで、私は十分だった。
「ありがとね、有咲」
『え、あぁ。それだけでいーのか?』
「うん、勿論。……本当にありがとう」
『お、おー?』
私は有咲との電話を切って、ほうと一息ついた。……長く立ち入らなかった、私の大事な人の居る所へ。勿論、話せるのならちょっとだけでも良い。ただ謝りたいし、出来ることなら色んな話もしたいけど、きっと蓮も忙しいのだろうから、出来なければ仕方がない。
私の蓮に会いたいという衝動は抑えきれなかった。ずっと暗い世界で探し続けた最後の一欠片がそこにあるのだから。育ち続けた欲望がいよいよ咲き始めようとしているのだ。
懐かしい住宅街。付き合って最初の頃は、朝、デートの時なんかに蓮の家まで迎えに行ったりしたこともあったっけ。今となっては懐かしい光景のそのどれもが、見違えるほどに輝いていた。蓮と過ごした日々は、私にとって宝物で、それはどんなことがあろうとも揺らぐことはなかった。
「ここ……かな」
本当に何ヶ月ぶりぐらいだろう。ここに来るのは。石造の門塀には、黒く濃い文字で『豊岡』と書かれている。紛れもなく蓮の家だ。夕闇に隠れるようなガレージには蓮が乗ってた自転車だとかも置かれていて、それらがここに蓮がいるということを物語っている。
「さっ……。……覚悟を決めて」
私は深呼吸を数度繰り返すと、白いボタンを押した。音が聞こえた。中からは足音のようなものが聞こえてくる。誰が出てくるだろうか、とは言っても私とて蓮の家族と親交があるわけではないから、蓮以外だと分かんないだろうけど。
そんな私の複雑な期待の中現れたのは、私のお父さんぐらいの風貌をした男性。蓮のお父さんだろうか、いきなりそれほど予想していなかった人物の登場に私は少しだけ腰が引けた。
「……はい?」
その男性は顔が少し赤らんでいる。まるでお酒に酔っているかのように。呂律も少し怪しかった。
「えっと……豊岡蓮くん、いらっしゃいますか?」
「ああ? 蓮? 蓮なんか長ぇこと見てねぇなぁ……どこ行ってんだよ本当に……」
「……え?」
不意打ちのように衝撃の言葉が聞こえてきて、私は自分の耳を疑った。
「えっと……蓮、家に帰ってきてないんですか?」
「そうだよ。……お嬢ちゃんは蓮の知り合いかい?」
「……はい、一応」
「そうかぁ……蓮に会ったら言っといてくれ、そろそろいい加減帰ってこいってな! ったく、ついこないだからは絆も知らん間に帰ってこなくなったしよぉ……」
絆ちゃんと言ったら、蓮の妹だった。絆ちゃんの話も、蓮からの言伝でしか聞いたことがないけれど、蓮はなんだかんだ絆ちゃんを溺愛していたし、そんな絆ちゃんも家に帰ってきていないと聞いて、私は混乱した。
「蓮だけじゃなくて、妹さんもですか?」
「あぁ……。連絡しても『お兄と一緒だから大丈夫!』なんて言われてもなぁ、蓮なんかどこ行っても生きていけるだろうが、父さんは心配だよクソ……」
「そう……なんですか……」
「もうやってらんねぇなクソが……」
まるで愚痴のような話を聞かせるだけ聞かせると覚束ない足取りで家に帰って行く、蓮のお父さん。
……一体どういうことなの? 蓮はずっと前から家に帰っていないみたいだし、絆ちゃんも少し前から蓮と一緒に居て帰っていないらしい。蓮とは私もずっと連絡を取っていなかったから、家に帰ってこない事情も分からないのだが、きっとこれは私と会うことを『待ってて』なんて言っていたこととおそらく関係があるのだろう。
それはそうとして妹の絆ちゃんが先日家に帰らなくなったばかりだと言うことが気にかかった。もしかしたら蓮から私に連絡が来たのと、殆ど同じぐらいのタイミングかもしれない。
私の心を不安が包んだ。だって親御さんですら居場所を知らないなんて、一体全体どういうことなのだろう。それに蓮からの返信も来ないし、電話をかけても繋がらない。けれど、絆ちゃんは蓮と一緒に居るのだと言う。
訳が分からなかった。けれど、一つ考えられたことは、蓮は、そして絆ちゃんも何かに巻き込まれているのかもしれないということ。それが何なのかはまったくもって分からないけど、私だってその何かに巻き込まれて、心に傷を負ったのだから。
私は、とにかく心配になった。蓮の返事を待っている余裕はない、察したのだ。
私が蓮を探さなきゃ。きっと蓮は何かに巻き込まれているのだから。蓮を助けたかったのだ。私の暗闇の世界の、たった唯一の光であり続けてくれた蓮を。
その晩から、私の、蓮の捜索が始まった。
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暗い。世界が暗い。
何も聞こえなくて、何も見えない。何もかもが分からない真っ暗な世界。
そんな世界に浮かんでいるのは、かつて色のついていた綺麗な頃の思い出。そこでは俺は色んな人と関わりながら、平和な日常を送って、それが当たり前なんだと思って、生きていた。
それがどうだろうか。今となってはもう俺には誰もいない。大切な人を誰も大切に出来なかったから。その代償なんだ。定めなんだ。
沙綾も、絆も、そして、千聖も。
俺は何一つ大事にしてこれなかったから。わがままで傷つけて、俺は逃げ続けてきたから、こうやって今はもう独りぼっちなんだ。
真っ暗闇の世界の中で。明かりが何一つ差し込まない闇の世界で。音一つない暗い世界で。
どうしたって、俺がみんなにした裏切りの記憶は消すことができないし、俺は一生この枷をつけて生きていかねばならないのだ。
今日も、俺の暗く明けることのない闇の世界は広がり続ける。果てしなく先の見えない真っ暗でドロドロとした世界。俺はかつての過ちの代償として、この世界を生きていくのだ。そうするしかないのだ。
そうして、こうやって何もない世界を、生きている。一人ぼっちで生きている。生きているのかすら怪しいけど。
あぁ、助けてくれ。こんな真っ暗闇の世界から。
この世界が暗闇に落ちる直前の声を思い出す。
『大丈夫……、何も見えなくても……私だけはずっと、貴方の傍に居るから……』
本当に、この暗い闇の世界で、千聖は俺の傍に居るのか。
だって千聖の姿は見えない。千聖の声は聞こえない。何も、何にも。
頭がおかしくなりそうだ。
寂しい。
寂しい。
辛い、はやくここから出たい。
あの日常を取り戻したい。俺が欲しい日常ってなんだろ。俺にとっての幸せってなんだっけな。
分からない。分からない。何にも分からない。なんにも……。
「あああぁぁぁぁぁっっ!!!!」
思い切り叫んでみても、頭の中にしか響かない。耳からは何も聞こえない。
ああ、もう嫌だ。
会いたい。千聖に会いたい。
助けて……千聖。
千聖……。
「……蓮」
「……え?」
突如明るくなる世界。音が聞こえる。景色が見える。熱を感じる。
いる。千聖が。
千聖が、いる。
「あっ……ああっ……」
「怖かったわよね……ごめんなさい……」
「ちさ、……千聖……?」
「……蓮」
温かい。千聖が温かい。
気がつけば俺の手は動くようになっていた。
「ちさ……と……」
「……おいで」
あぁ、千聖と話せる。ハグできる。
幸せ……、しあわせ……。
「蓮……私がずっと傍に居るから……」
「……うんっ、……うんっ」
「……貴方は1人じゃないわよ……。私だけは、絶対に貴方の傍から居なくならないから」
「うん……」
「死ぬまで貴方と添い遂げるわ……。ずっと、ずっと、ずーーっと、蓮の隣にいるから」
「……俺……も……」
「……えぇ」
「千聖の傍に……ずっと、居る……」
「……うんっ」
「千聖の傍に……ずっと居させて……」
「当たり前じゃない……。私だけは、何があろうとも、ずっと貴方の傍に居るからね……」
「千聖……っ」
ついさっきまであった真っ暗な世界。そこに現れた光の束は、千聖だった。俺を孤独から救い出したのは、千聖だった。だから、俺は千聖を神のように崇め、千聖を慕うのだ。
一生離れない。どんな時でも。一生離さない。何があろうと。
千聖は俺だけのもので、俺は千聖だけのものだから。
千聖の熱が伝播する。全身で千聖を感じられる。
幸せだ……。幸せ……。
これが、俺の欲しかった、日常。
これが、俺の欲しかった、幸せ。
これが本当に、俺が欲しかった、愛。
熱が伝播するってよりも病みが伝播している。