自室のベッドの上で、何も描かれていない天井を眺める。千聖……白鷺千聖と一夜を共にして数日が経っただろうか。あの夜、お酒を飲み過ぎて橋の上で潰れてしまっていた俺を助けた白鷺千聖は、自分を裏切った人物の被害者を見つけて、そして2人で細やかな復讐を遂げた。しかし、そんな復讐が残したものは、少しの間だけ寂しさを紛らわせるような夢を見せるだけ見せて、儚く消えていった。俺があの夜泣き出してしまったのも寂しかったから、なのかもしれない。自分の心の中にぽっかり空いた穴を埋めるため。俺は酒という手段を取っていただけで、その限界を白鷺千聖を使って埋めたに過ぎなかった。
「……あぁ」
だが、それきりだと割り切った。そうでないと、俺自身も裏切りの罪悪感と惨めさに耐えられなさそうだったから。心の奥底ではいけないことだなんて分かっているから。ここ数日はお酒も絶っていた。そして自室に籠り、何をするでもなく惰性を生きている。家からすら出ていなかった。言葉すら殆ど発していないかもしれない。
このままじゃダメなんてことは分かっているけれど、それをどうこうするような気力は湧いてくるわけじゃなかった。
今日もまた、1日が終わる。窓の外に映る景色には赤く夕焼けが広がっている。
「……何のために、生きてるんだろな」
もはや単に生命活動を行うだけの自分の意味。そんなことはまるでわからず、沙綾を失ってからというもの、世界中から色が消えた。見えるものすべて、白黒になってしまった。酒に浸る時にだけついた色も次第に薄れていって、それが白鷺千聖と会っていた間だけは不思議と世界に色がついていたのだ。だが、あれっきりだと割り切っているから、もう忘れてしまおうとしていた、そんな時だった。
コンコンコン。
長らく音のなかった侘しいこの部屋に、甲高い音が鳴り響いた。その音が聞こえてきたのはドアの方から。俺を世界から隔絶している窓。そして、そんな音に続いて、久方ぶりに俺は妹の声を聞いた。
『……ねぇ、お兄。ちょっとだけ、話があるから、出てきて欲しいな』
この世界から出ることを促す声。正直に言えばこの世界でもう少し絶望に浸っていたい。この絶望の世界で生きて行くためには悲劇のヒーローを演じる高揚が必要だったんだ。だが、その一方で、立ち上がれと心の中で叫ぶ自分もいて、俺はしばし沈黙を続けた。
やがて、外から木の軋む音が聞こえて、だんだんと小さくなっていた。絆が諦めて、下の部屋に降りていったのだろう。俺は一旦息をついて、改めて自分の胸に手を当てた。
とても静かな空間。こんな静かな空間では思考もなぜか上手くまとまってしまう。……といっても、まとまった思考なんてものすらないのだが。
すっかりズタボロになってしまっていた心が、ひとときの安らぎを得て、却ってその空虚さを自覚してしまった。冷静に考えてみれば、以前のように酒に惑わされて、溺れて、なんてことがなくなったのだから、健康的に考えれば良いことなのかもしれない。だが、精神的な健康を考えればその限りではない。
あの時、酒に溺れていた俺は生きる意味をそこに見出していたのだ。だが今は、まるで目的だとかそういうものが感じられなかった。
そんな時、ふとスマートフォンが震えた。メッセージが届いたのだ。それは絆からだった。
『お兄ごめんね、さっき声かけたんだけど寝てるかもしれないから。もしも少しでも元気があったらリビングまで降りてきて欲しいな』
そんなメッセージが暗い画面に浮かび上がり、少し経って消えた。
ゆっくりと立ち上がる。何か特別なことがあったわけではないけれど、なんとなくリビングに降りてみようと思って立ち上がったのだ。
鈍い音を立てて開くドア。不安な音を立てて軋む廊下。懐かしい感覚に少しだけ元気が出たような気がした。
「……あ、お兄」
久方ぶりに見た明るいリビング。そこで向かいのソファに腰掛けていたのは絆。絆はどうしたら良いのか分からないといったように困惑していた。俺は絆の向かい側に座って、口を開いた。
「……その、ごめん」
なんとなく伝えなきゃ行けないと思ったのだ。思えばどれほど迷惑をかけたか分からないが、こんな言葉ひとつで謝れているのか分からないのだが、それでも言わなければと思ったのだ。
「……うん、いいんだよ」
「話って?」
「お兄がずっと……辛そうだったから、何があったのかなって」
「……そうか」
どう伝えればいいのだろうか、こんな情けないこと。伝えてしまえば、俺はもうどうにかなってしまいそうで、沈黙を貫くしかなかった。
「……言わなくても良いよ。でも、危ないから深夜に出歩いたり、勝手にお父さんの酒飲んだりとかはやめてほしいな……」
「……ごめん。……それから、ありがとう」
「あ、そうだ」
何かを思い出したようにキッチンに向かう妹。
「お兄に元気出して欲しかったから……たしかこのお店の、好きだったよね?」
「え……」
だが、そんな妹の親切は刃となって俺を貫いた。分かっている。絆に悪気なんてないことを。きっと妹は俺のことをよく見ていてくれたのだ。だから、だから、込み上げるものを必死で抑えて、小さく呟いて、踵を返す。
「……ありがとう」
手渡された袋を提げて自室に戻る。ベッドに倒れ込んだ俺は少しだけその袋に入っていたパンを齧る。堪えきれない涙の味がする。
「うっ……くそっ」
堪えきれない涙の味がするけれど、俺はひたすらそのパンを齧る。かつて愛した女を想い起こすけれど、心臓が潰れそうなほど苦しくて辛いけれど、それでも俺は食べるのだ。こんなクソみたいな俺を心配してくれる妹の優しさだったから。
「なんで……」
溢れ出てくるのは泣き言と、後悔の念ばかり。どうして俺はパンを齧っているだけなのに、こんなに苦しくて辛くて死にたくて仕方がないんだ。そんなに苦しみ嘆いているのに、俺はまだ苦しもうとしているんだ。答えのない問いが次々と頭の中に浮かんできて、そのたびに俺はさらに苦しみ続ける。じわじわと嬲り殺しにされるような、無限に続くように思われる苦しみ。
「……沙綾」
思い出したって仕方がないのに。どうしようもない話なのに。お前が悪い。そもそも苦しんだ原因を作ったのもお前じゃないか。お前がもっと大切な人に向き合わなかったから、お前が悪いんだ。お前が被害者面する謂れはないし道理もない。
頭の中に無限に反芻し続ける罵倒の嵐。そんな嵐を抑え込むように俺は一心不乱にパンを齧り続ける。
かつて愛を捧げた女が作ったかもしれないパンを俺は食べ続けるのだ。
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私の世界は突如として真っ暗になった。自分が唯一と言って良いほどに信じていた人の裏切り。私は捨てられたのだ。
人の思惑が激しくぶつかり合い、生きていくだけでメンタルがすり減らされる芸能界で、私は日々戦っていた。そんな戦いの毎日で傷ついた心を癒してくれたのが彼であった。
最初はそんな、人に頼ろうだとか、そんなことは何も考えていなかった。こいつもきっと私のことを利用しようとしているだけなんだ、なんて考えていた。けれど、いつまで経ってもそいつはそんな期待していた姿を見せようとしてこなくて、遂にそいつはそんな姿を見せぬまま、私たちは心を通わせた。
だからきっと、この愛は永遠なんだ、なんて信じていた。絶対にそいつだけは私のことを裏切らない。そう思っていた。
だからだろうか、裏切られて、心が壊れてしまったのは。
失意に堕ちた私は何をするでもなく、ただ仕事を終わって、ただ街を流浪していた。たまに女しか見えていないナンパ野郎に声をかけられたりもしたけれど、そんな声もどこか遠くの世界の言語に聞こえた。
その日も気がつけば時間は日付を跨ぎそうなほどになっていて、そこでようやく帰らなければとなったのだ。帰らなければ、と思えるほどに少しは冷静になれたものの、はっきり言えば家に帰りたくはなくって、強いていうなら俗世だとか、現実だとかそんなものから逃げたかった。
そんな時だった。死にかけのこの男を見つけたのは。
大雨の降り頻る中で、橋の欄干にもたれかかった人。このまま放置するわけにもいかず声をかけても反応はない。仕方なく揺すって起こそうとすると、とてつもなく酒臭い。やっぱり放置して帰ろうかと思ったところでようやく反応を見せた。
「ん……?」
「かなり具合が悪そうですけど、立てますか?」
「……ほっといてくれ」
「こんな様子で酔っ払って倒れてる人を放っておくなんてできるわけないでしょう?」
嘘だ。正直言えば、この時はこんな酔っ払い放置して帰りたかった。
「……親切なことは結構だが、……不幸が移るだけだ、やめとけ」
そして助けた男はそんな不幸自慢をし始めた。なんだこいつは。そんなの言ったら、私なんか。……私なんか。そう考えたら、勝手に口が動いていた。
「……ふふ、それだと私も貴方に不幸を移すかもしれませんね」
「はぁ?」
「私も、男に捨てられたばかりですから」
それが私、白鷺千聖と、私と同じ男に狂わされた、豊岡蓮の邂逅だった。そして私は、彼の醜態を嗜めたのにも関わらず、それより酷い過ちを犯したのだ。
神様が偶然与えてくれた、疲弊し切った心を癒す逃げ場だから。今度こそは、この男こそは、私から離れていかないように、逃げないように。逃げ出そうとしても、絶対に逃がさないから。
2人ともそこそこ心に傷を負ってるのはさておき、千聖さんだけ妙に不穏だな?