――俺をドキドキさせてくれ
ゲート前、つい先ほど控え室で言われた言葉を、ネイチャは心の中で反芻した。
(あたしをドキドキさせてどうすんだっての!)
身体の熱さを振り切るように、ネイチャは両の手のひらで頬をパンパンと叩いた。
「おっ、気合入ってるね、ネイチャ」
「……テイオー、知ってる? ダービーを8枠から勝ったウマ娘はいないんだって」
「およよ? 揺さぶりかなぁ~。でもワガハイは逆に闘志が出るタイプなのだ。勝つのはボクだよ」
「ふふっ、そういやあんたはそういうやつだったわよね。でもね、勝つのはあたしだから」
「じゃあ勝負だね!」
テイオーはビッと親指を立てて、自分のゲートへと歩いていった。ネイチャもテイオーとは反対の、内側のゲートへと歩いていく。
レース前ともなれば、少なくないプレッシャーに晒されるものだが、今のネイチャは背中に翼が生えたのではないかと思えるくらい、身体の軽さを実感していた。
いつもならば繰り返し口にしていた呪文すらも、思考の外に押し出されている。
ありていに言えば、今のネイチャはかつないほどに"絶好調"だった。
『――さぁ、最後のトウカイテイオーが、毅然とした表情でゲートに入ります。無敗の三冠ウマ娘が期待されているトウカイテイオー、皐月賞に続きこの二冠目のレースを制することができるのか?』
スポーツ紙はこぞってトウカイテイオーが日本ダービーを勝つことが既成事実のように報じた。そしてスタンドを満たしている観客の多くがそれを期待しているだろうことは、ネイチャも分かっている。
(残念ながら皆さんの期待通りにはならないかも、ですよ)
スタート前の静寂が訪れる。荘厳で静謐な空気が満たされていく。
『栄光の日本ダービーが――今スタートしました! 各ウマ娘がすーっと内に切り込んで第1コーナーに向かいます。トウカイテイオーは7番、いや8番手。外目8番手で第1コーナーにかかります』
(テイオーのスタートがいい! 早めに前に来てる。でも引くわけにはいかない!)
『第1コーナーを回って先頭はビフォーユウ、続いてフォレストケート、3番手にナイスネイチャ、トウカイテイオーは現在6番手。第2コーナーを回って向こう正面に入ります』
(大勢は落ち着いてきた。ここでの動きはあまりないはず。ペースはそこまで速くない。みんな内を走るから、たぶんテイオーは外を走らされている。今のところ想定通り)
ネイチャの想像通り、テイオーは外を走らされていた。それでもテイオーの表情には余裕がある。
『向こう正面から第3コーナーへ、外からトウカイテイオーが上がってきているぞ。リオナタールも虎視眈々と機を窺っている。第4コーナーを回ってシガーブレイドが内に入ってくる。トウカイテイオーが良い位置にいる。現在5番手!』
最終コーナーを抜けて最後の直線に入り、歓声がいっそう強くなった。それぞれのファンが贔屓のウマ娘の名前を叫んでいるのだ。その中に自分の名前があることが、いま間違いなくダービーを走っているのだということを強く実感させた。
この怒号のような大歓声の中から、ひとりの声を聞き分けるのは不可能だろう。だがネイチャの耳にははっきりとその声がとどいた。
彼はこれまで「頑張れ」と言ったことはなかった。「頑張ったな」と言われたことはあったが、「頑張れ」と言われたことはなかったのだ。
だからこそネイチャは心を震わせた。
(あたしはまだ――頑張れるッ!)
そう決意した瞬間、不思議な感覚がネイチャを包み込んだ。視界がひらけ、意識が拡がっていく。ネイチャは生まれて初めて、見えないものが見えた気がした。
(なんだろう……この感じ。2000メートル走った後とは思えないくらい、脚が軽い。身体が今までにないくらい、最高にキレてる。先頭との差は5バ身……追いつける。追い抜ける)
『最後の直線残り400メートル! 先頭はビフォーユウ! 5バ身離れて内からリオナタール、ナイスネイチャ、グッドジュピターがほぼ横並び! ナイスネイチャだ! ナイスネイチャが伸びる! ビフォーユウを捉えた! 並ぶ間もなくビフォーユウをかわす! 先頭はナイスネイチャ!』
(テイオーが来てる。4バ身……3バ身……どんどん迫ってくる。さすがテイオーね。でも大丈夫。頭ひとつ分、とどかない)
『トウカイテイオーが来た! トウカイテイオーが真ん中から突っ込んで来た! ビフォーユウをかわしてナイスネイチャに迫る! 逃げ切れるかナイスネイチャ! 追いつけるかトウカイテイオー! ナイスネイチャ! トウカイテイオー! ナイスネイチャ! トウカイテイオー! トウカイテイオーわずかにとどかない! ナイスネイチャが1着でゴーーール! 栄光のダービーを制したのはナイスネイチャ! ナイスネイチャ優勝です!』
激闘が終わり、ターフに紙吹雪が舞う。ネイチャはまずゴール近くの関係者ゾーンにいる西条に手を振り、続けてスタンドのファンに手を振った。テイオーファンを裏切った結果になってしまったが、予想よりも拍手は多かった。
「ネイチャ……ダービー優勝、おめでとう」
テイオーは強く握った拳を後ろに隠して、ネイチャに祝福の言葉を贈った。
「ありがとう。でもね、テイオーのおかげだよ。いつも
感極まって、ネイチャはテイオーを抱きしめた。テイオーもまた、その抱擁に応えて力を込めた。
「今日は負けを認めてあげる。でも、まだ一冠ずつで引き分けだから。無敗も三冠もなくなっちゃったけど、菊花賞はボクが勝つからね。にししっ」
「それはどうかな~。菊花賞もあたしが取って二冠のウマ娘になっちゃうんだから」
お互いに睨み合い、破顔した。そして――
『次は菊花賞で――勝負だッ!!』
――天高く腕を掲げ、その拳をぶつけ合った。