風が吹いた。その涼風が艶やかな葦毛の髪を撫でつける。
メジロ家の別荘で謹慎していたマックイーンは、屋敷からしばらく歩いたところにあるトレーニングコースを走っていた。
身体を動かしていないと不安ばかりが募ってくるのだ。
自分は許されないことをした。故意かそうでないかは問題ではない。結局、謹慎を選んだのも学園という衆目の下から逃げ出したに過ぎない。
立ち止まり、空を見上げる。自分の心を映し出したような曇天だった。ため息を落とし、その後に大きく深呼吸をする。
再度走り出そうとしたとき、横手から涼やかな声が聞こえてきた。
「あまり無理をするものじゃない」
聞こえてきた方向に視線を向ける。瞳に飛び込んできたのは意外なウマ娘だった。長い黒髪を風にさらわれて、宝玉のような眼差しでこちらを見据えている従姉が、そこにいた。知らずのうちに、マックイーンの表情が緩んでいく。
「随分と、久しぶりですこと」
「今日は調子が良くてね、ここまで足を延ばしてみたんだ」
それが優しい嘘であることは、すぐに気づいた。彼女はコース脇にあるベンチに腰掛けると、自分の隣をポンポンと叩いた。
座れということだろう。マックイーンはおとなしく彼女の指示に従った。
「お戻りになる決心がつきましたの?」
「またそれかい? 言っただろう。私は実績が足りていないのだと」
「何をおっしゃいますの。お姉さまはパーフェクトティアラを……」
「勝ってない」
マックイーンの言葉を遮って、彼女は告げた。
「私は天皇賞を勝っていない。挑んですらいない。だからお婆さまが何と言おうと、私自身が納得できないのさ」
メジロ家において天皇賞の楯は特別な意味を持つ。それはメジロ家の悲願であり宿願であり、冀望なのだ。故に、その屋敷に住まうことを許されるのは、結果を出した者と、挑戦者に限られる。
その因習に彼女も影響を受けている。確かにかつてのメジロ家は陛下から寵愛を受けていた。だが今ではそれも薄らいでいる。形骸化しているとまでは言わないが、URAが組織立って大きくなったことで、メジロ家の影響も小さくなってきたのだ。
秋の天皇賞の距離が短縮されたことも、それを物語っている。
「まあ、私のことはいいさ。調子は……悪くはなさそうだね」
マックイーンのトモに触れながら、小さくつぶやく。元より怪我で休養しているわけではない。とはいえ、精神的な問題から体調を崩すことはままあることだ。彼女が心配しているのはそこもあるだろう。
正直、最初の頃はマックイーンも参っていた。
もし自分が勝っていたら、どうなっていただろうか。そう考えてしまう。テイオーならば、まだいい。何度もGⅠレースを勝っている彼女なら、その中に不本意な勝利がひとつ追加されるだけだ。十年後には、笑い話になっているかもしれない。
だがもし、もしGⅠ未勝利のウマ娘が繰り上げ優勝という事態になっていたら。そう考えて、マックイーンは身体を震わせた。
初めてのGⅠ勝利というのは感慨深いものだ。自分も当時のことを鮮明に覚えている。抑えきれぬ高揚感と達成感。レース内容はもちろん、その後に行われたウイニングライブの細部に至るまではっきりと。
それが汚されるのだ。
敗北が勝利に書き換えられる。納得のできない勝利。それは祝福ではなく呪いだ。そんな悪夢を想起し、マックイーンは己の脚を殴りつけたい衝動に駆られた。
その変化を敏感に感じ取ったのか、マックイーンの手に嫋やかな手が重ねられた。
「キミは罰を受けた。それですべてが許されるわけではないが、必要以上に自分を責めるべきではないと私は思うよ。生真面目なキミは引退も考えたかもしれないが、それは違う。キミが成すべきことは、勝つことだよ」
「勝つこと……ですか?」
「そうだ。あんなことがなくても、不利を受けなくても、勝てなかった。そう納得させることだ。だからキミは勝ち続けなければならない」
「勝ち続ける……」
それがどんなに困難で過酷なことか、彼女が知らないはずはない。
「そのためには、とらわれてはいけない」
昔を思い出したのだろうか。いつも整って崩れることのない表情が、わずかに揺らいだ。
「キミは先のレースで、トウカイテイオーにとらわれたな。故に
その通りだった。マックイーンはスタート前からテイオーを意識しており、それにとらわれて、ほんのわずかにスタートが遅れた。その一瞬を取り返そうと、無理な進路変更を余儀なくされた。それが故意ではなかったとしても、自らの焦りが生んだ悲劇だった。
「ライバルは、いいものよ。自分を更なる高みへと導いてくれる。でもとらわれてはダメ。自分を見失ってしまう」
彼女の言葉はいちいちもっともで、マックイーンの心に突き刺さった。それでも苦痛を感じないのは、彼女の言葉にトゲがないからであろう。むしろ慈愛にあふれているようにすら感じる。それは彼女の人柄によるものに違いない。
その吸い込まれそうな瞳に、マックイーンはしばし魅入っていた。
それに気づかれまいと、マックイーンは小さく咳払いした。
「以前にお会いした頃に比べて、お言葉が乱れてますわね」
「本家から離れればこうもなるさ。生来の性分だよ、たぶんね」
彼女は自嘲するように小さく笑った。それでもマックイーンは彼女の評価をいささかも下げようとは思わなかった。
強く気高く美しく。
嫉妬すら追いつかない、憧れすら届かない。見る者すべてを魅了するほどの魔性。
幼き頃に目指した、遥かなる頂き。
雲間から差し込んだ天使のはしごがふたりを優しく包み込む。濡羽色の長髪が、宝石をちりばめた額冠のように輝いていた。
心の中にあったモヤモヤが晴れていくのを感じて、マックイーンは立ち上がった。
復帰戦は、連覇のかかった春の天皇賞。メジロ家の本命レース。それに勝つ。
ただ勝つのではない。圧勝する。そんな決意を秘めて、マックイーンは駆け出した。