ネイチャは日本ダービーで体験した不思議な感覚を忘れられずにいた。それにこだわりすぎて菊花賞では不覚を取った。自分でも知らずのうちにあてにしていたのだろう。それが致命の隙となって負けた。
トレーナーである西条はダービーのことは忘れろと言った。西条はその感覚について心当たりはあったが、今のネイチャには足かせにしかならないと判断した。
だがネイチャは諦めきれなかった。いつまでもモヤモヤとした気持ちが残り、ついにはその感覚について調査を始めた。
(忘れろと言われた手前、トレーナーさんには相談できないしなぁ)
まずは身近でその感覚を知っていそうなウマ娘、スペシャルウィークに訊いてみた。
「知ってるよ。私もね、ダービーが初めてだったんだ。身体がギャンって熱くなってグワーって力が出て、ギューンって走れたんだよね!」
いまいち要領を得ない回答なうえ、ネイチャが体験したものとは微妙に違う。スペシャルウィークは身体が熱くなったと言ったが、ネイチャはその逆、周囲の温度が下がったような感覚だった。
頭の中がクリアになり、スッと視界が開けた。世界から
次にネイチャはオグリキャップに同様の問いを投げかけた。
「うん。その感覚は、私にもある。私は有馬記念が最初だったな。だがすまない。私には上手く説明できない。だから、あの人に訊ねるといい」
そう促され、ネイチャは荘厳な扉の前に立っていた。
確かに彼女なら、レースのことで知らないことなどないだろう。むしろ、彼女の知らないことを、他のウマ娘が知っているとは思えない。
(でもさすがに緊張するなぁ)
彼女はすべての生徒たちに、悩みがあればいつでも相談してほしい、と広く門戸を開いている。
とはいえ、やはりこの部屋に踏み入るには少しばかり勇気が必要だった。
大きく深呼吸を一回。ネイチャは覚悟を決めて、ノックをしようと右手を胸の高さまで上げた。
と、その時――
「生徒会に何か用かな?」
「はひゃぁ!?」
ネイチャは飛び上がらんばかりに仰天し、声の主に視線を向けた。
そこにはこの部屋の主で、この学園で2番目の、ことによっては最も高い権威を持つウマ娘だった。
絶対の体現者。蓋世不抜のウマ娘。"皇帝"シンボリルドルフ。
「えーっと、その、何と言いますか、ですね」
「ふむ。まあ入り給え。用件は中で聞こう」
そう言って、シンボリルドルフは部屋の扉を開けた。
彼女はネイチャに座るように促すと、手慣れた様子で2人分の紅茶の用意を始めた。片方をネイチャの前に置き、残りを手に持ってネイチャの正面に腰かける。
優雅な仕草で紅茶を一口すすると、彼女は問いかけた。
「では、話を聞こうか。ナイスネイチャ」
自分の名前を知られていることは意外ではあったが、皇帝は一度覚えた名前と顔は絶対に忘れない、という噂を思い出した。
(いや、あたしだってダービーウマ娘だし。会長なら知ってるよね)
わずかに矜持を自覚して、ネイチャはシンボリルドルフにあの感覚について問いかけた。それを聞いて、シンボリルドルフは特に困惑した様子もなく、むしろようやくかといった感じでネイチャに向ける視線を鋭くした。
「まず最初に言っておくが、あれは限界以上の力を引き出すといったような、そんな都合の良い力ではない」
「精神が肉体を超える的な力だと思ってましたが……」
「ただの言葉遊びだな。かつて大本営が全滅を玉砕と言い換えたように、耳当たりの良い言葉に変換したにすぎない」
シンボリルドルフはバッサリと切り捨てた。その口調から、彼女がその言葉に好意的でないことがうかがい知れた。
「私は好かんよ。その先に待っているのは破滅だ。限界を超えた
ウマ娘と故障は切っても切り離せない関係にある。人間のアスリートだって怪我無しで現役を引退できるのは稀だ。
「あの感覚は、もっと現実的なものだよ。理想と現実の合致、とでもいうべきか。ボディイメージという言葉を知っているかな?」
「……いえ、不勉強で申し訳ありません」
「例えば、水たまりがあったとしよう。自分にそれを飛び越えるだけの能力があるか。脚の長さ、助走の加速力、そこから生まれる跳躍力。そういった自分の身体や運動能力をイメージする力だ。そのイメージと実際の力が一切の乖離なく発揮できる。それがあの感覚だよ。ざっくり言えば『100%中の100%』の力を引き出している、ということだな」
スポーツにおいて、よく本番では練習の80%の力しか発揮できないと言われる。それがスポーツの常だ。普通に考えて、練習でできなかったことがいきなり本番でできるようになることはまずない。
限界以上の力を引き出すのではなく、限界まで力を引き出す。それがあの感覚の正体だと分かった。
「ではあの世界に入るための条件、みたいなものはあるんですか?」
「トレーナーには相談したのかな?」
「……あの感覚は忘れろ、と」
ネイチャはごまかさずにそう言った。元より、下手な嘘やごまかしが通用する相手とも思えなかったし、こちらは教えを乞う立場なのだ。
「その通りだと思うよ。先ほども言ったが、あれは限界以上の力を引き出すものではない。ならば地力を鍛えるのが一番だろう。遠回りこそ近道だよ。これ以上は聞かない方がいい。私とキミ、おそらく条件は違うはずだ。妙な固定観念や先入観を持たせたくはない。私としては、そんな不確かな力に頼るよりも、常に100%の地力を出せるように鍛錬することをお勧めするよ」
ネイチャは続けて"音"についても質問した。世界から
シンボリルドルフはそれを、
「自分の
「……溺れる?」
「こんなものじゃない、本気じゃなかった、次のレースでは本気を出す、などと言い訳ばかりを並び立てるようになる。敗北を認められなくなれば、それ以上の成長はないよ。
シンボリルドルフの説明は堂に入ったものだった。まるで何度も同じことを繰り返してきたように。
退室するネイチャを見送った後、彼女はソファに背を預けて天井を見上げた。
「ナイスネイチャ、キミはまだ可能性の表層を覗き見ただけにすぎない。真に覚醒する資質がキミにあるのか。ふふっ、胸が躍る」
後輩の成長に、皇帝は小さく笑みを零した。
紅茶の残りを飲み干し、窓からトレーニングコースを眺める。そこでは多くのウマ娘たちが汗を流してしていた。
いつもの光景。皇帝の好む光景だった。
その端っこの方で、
「うぉぉぉ! デビルバットゴースト! からの! 絶・天狼抜刀牙ッ!」
「チィィ! 狼虎滅却・無双天威ッ!」
黄金の斬光と白き剣閃が絡み合う。
皇帝は嘆息して頭を抱えた。