菊花賞が終われば、次は秋の天皇賞が始まる。バトンはブルボンからネイチャへと渡った。
控え室にて、西条はネイチャと最後のブリーフィングを行っていた。
「今回のキモはメジロパーマーだ」
「逃げにつられないようにするってことでしょ。宝塚記念の時も聞いたって」
その言葉に、西条は何となく引っ掛かりを覚えた。ネイチャはメジロパーマーを甘く見ているのではないかと。
確かに、宝塚記念ではネイチャがメジロパーマーの上を行った。だが彼女とてあの時のままではない。慢心して勝てる相手ではないのだ。
「改めて言っておくが、メジロパーマーは強いウマ娘だ。誤解を恐れずに言えば、彼女はツインターボの上位互換だ」
「ターボの上位互換……」
「換言するなら賢いツインターボだ」
「それはもうターボじゃないのでは?」
賢いターボというのが想像できず、ネイチャは微妙な表情を浮かべた。だが西条は気にせず話を続ける。メジロパーマーはジュニア期、クラシック期は迷走していた節が見えるが、シニア期になって本格化した。
頭を下げない特徴的な走行フォームに、逃げという脚質にもかかわらず、最後にひと伸びする驚異的なスタミナ。仕掛けどころを間違えば、悠々と逃げ切られる。
「だがダイタクヘリオスと一緒に出走した場合は、バカになる傾向がある」
「バカ逃げコンビってやつね」
共に逃げることで必要以上に張り切ってしまうのだと考えられる。ダイタクヘリオス風に言うのならば『テン上げでGO!』というやつだ。結果ペース配分を間違ってしまう。
「それを警戒しつつ、今日は前目でレースを進めよう。メジロパーマーやダイタクヘリオスがオーバーペースで走る可能性は常に考慮しておくこと。もしそうなったら、それにはつられないように」
「了解」
ネイチャがビシッと敬礼してターフへと向かった。
西条はそれを見送って、いつもの定位置へと移動した。パドックが始まり、各ウマ娘の紹介が始まる。
テイオーが舞台に上がると、一層の歓声が沸き上がる。その歓声の中で、西条はテイオーの異常を感じ取った。
(あの顔の火照りは熱だな。上手く隠しているようだが、自慢のステップも披露しなかった。調子はかなり悪そうだ)
朝起きた時は身体がだるいな、くらいだったのだろう。だが時間が経つにつれて悪化していった。
(今からでも出走を取りやめにしたいくらいだが、トレーナーでもない俺にそんな権限はない。彼女のトレーナーに忠告するのも筋違いだろうしな)
テイオーは自分の意思で出走を決め、トレーナーはそれを許可した。ならば外野が騒ぎ立てるのは筋違いだろう。それに調子が悪くともテイオーだ。レースに絶対はない。
『さあ全ウマ娘のゲート入りが完了しました。スタートからの2コーナーまでが問題だ。秋の天皇賞、スタートしました』
前年のトラブルが頭をよぎったのか、アナウンサーが警句を発した。
先頭を取ったのは大方の予想通り、メジロパーマーとダイタクヘリオス。ふたりが併せるように進んでいく。その後ろにテイオーがつき、テイオーの後ろにネイチャがついた。
『先頭はメジロパーマー。続いてダイタクヘリオス。トウカイテイオーはその後ろにつけます。トウカイテイオー素晴らしい足取り!』
(違うな。あれは熱で身体がふわふわしているだけだ。いずれ落ちてくる)
西条は冷静にそう分析した。事実、熱に浮かされたテイオーは冷静な判断力を失っていた。
『さあ18人が向こう正面を過ぎて3コーナーの坂を下って行く。先頭はダイタクヘリオスに変わったか。メジロパーマーは2番手。1000メートルを通過してタイムは――なんと57秒5!』
アナウンサーから驚愕の声が漏れる。それもそのはずで、これはメチャクチャに速いペース。殺人的なハイペースだ。それについて行っているテイオーは明らかに自分のペースを見失っている。
(ネイチャは現在10番手くらい。隣はイクノディクタスか? いいぞ、それでいい。あんな無茶なペースにつき合う必要はない)
『最終コーナーに入ります。トウカイテイオーは現在2番手。最終コーナーを回って最後の直線へ。先頭はダイタクヘリオス! テイオーはまだか! テイオーはまだか! テイオーはまだ2番手!』
テイオーの表情は苦悶に歪んでいる。いつものような余裕のある表情ではない。東京レース場の長い直線を駆ける体力は残されていないだろう。
『外から後続が一気にきた! 2番人気のナイスネイチャ! そしてイクノディクタスが伸びる! ナイスネイチャだ! ナイスネイチャが一気にきた!』
(――あたしが先頭!? でもテイオーはここから来る! テイオーが……テイオーが……あれ?)
『ナイスネイチャが1着でゴールイン! 2着はイクノディクタス』
決着はあっけないものだった。レースには勝ったが、テイオーとの勝負は次に持ち越しといったところだろう。
◇
西条はトレーナー室で書類仕事をしていた。秋の天皇賞が終わり、次のジャパンカップに向けての調整を始めている。
ブルボンにもURAからジャパンカップの出走要請が来ていたが、疲労を理由に断った。それでもしつこく食らいついてきたが、いま無理をするとダメになる、有馬記念には出る、という交渉でまとめた。
トレーニングプランや各種申請書類を書き終え、西条はトレーナー室を出た。ドアの鍵を閉めたところで、足音が聞こえてきた。歩く音ではない。走る音だ。
「やあ、こんばんは」
「……ネイチャのトレーナー」
「今はブルボンのトレーナーでもあるけどね」
ジョギングをしていたテイオーは足を止めて西条に向き直った。西条がテイオーと言葉を交わすのは久しぶりだった。春の天皇賞以降の春シーズンは、ダービーと宝塚記念のプランを練っていたし、夏は合宿に行っていた。
テイオーも西条の忠告を無視して無理をしてしまった以上、なんとなく顔を合わせづらい雰囲気になっていた。
「寒い時期は怪我のリスクが高まるから注意した方がいい。特にウォーミングアップは時間をかけて行うことだ。身体が温まったと感じても、筋温はさほど上がってなかったりする。まあこんなことはキミのトレーナーも承知だろうが」
テイオーの所属するチームスピカのトレーナーは西条よりもトレーナー歴は長い。ベテランというほどの年ではないが、GⅠウマ娘を育成できるだけの手腕はある。
「……また無理するなって話?」
テイオーはムッとした態度で返答する。だが西条は機嫌を損ねることなく、むしろ気遣うような口調で言葉を続けた。
「悩みがあるなら聞くぞ。チームメイトやトレーナーには話しづらいことでも、無関係の僕なら話せることもあるんじゃないか?」
「……ないよ。悩みなんか」
「無敗の三冠ウマ娘という夢を失って、
「――ッ!?」
テイオーは押し黙って口の端を噛みしめた。聞く人が聞けば贅沢な悩みだと思うだろう。本来ならGⅠレースに出走できるだけでも優秀であることの証左なのだ。このトレセン学園には1勝もできずに去って行くウマ娘の方が多いのだから。
だがそんなことを言っても慰めにはならない。
「最近、忘れてるんじゃないかと思ってな」
「……何をさ」
「自分がトウカイテイオーだってことをさ」
テイオーは虚を突かれたように茫然と視線を彷徨わせた。そして一瞬後に眉根を寄せる。
「なにそれ? ぜんもんどーってやつ?」
「自己の再確認だよ。キミはキミだ。シンボリルドルフにはなれないし、なる必要もない。トウカイテイオーはトウカイテイオーのまま、シンボリルドルフを超えればいい」
「カイチョーを……超える?」
それはかつてテイオー自身が目指したことだった。シンボリルドルフみたいなウマ娘になりたい。シンボリルドルフに追いつきたい。シンボリルドルフに勝ちたい。
それが薄れていったのはいつからだろうか。
シンボリルドルフとテイオーの才はまったく別のものだ。龍はどう頑張っても虎にはなれない。逆もまた然りだ。
龍には龍の強さがあり、虎には虎の強さがある。テイオーが「シンボリルドルフみたいになりたい」と思っているかぎり、彼女は皇帝には勝てないだろう。
西条はそれをテイオーに伝えたかった。
「そんなあやふやな状態で走っていたら、また怪我するぞ。マックイーンもいいが、もう一人のライバルのことも忘れないでくれよ」
そう言って、西条は一本のチューブをテイオーに投げ渡した。外国語で書かれた歯磨き粉のようなチューブを、テイオーは訝し気に見つめる。
「日本ではなかなか手に入らないマッサージ用のクリームだ。弱いテイオーに勝っても自慢にはならないからな」
西条はそう告げて
忘れかけていた何かを思い出す。
テイオーの心に小さな火が灯った。