ネイチャを指導するにあたり、西条はまず2つのことを指示した。
1つ、トレーニングルームの使用禁止。
西条は基礎固め、つまり
2つ、時間があれば過去のレース映像を見ること。
トレセン学園の生徒であれば、視聴覚教室に保管されている過去のトゥインクル・シリーズの映像がすべて閲覧可能だ。特にシニア期のGⅠレースなどに出走するウマ娘は、誰もが洗練された動きであり、得られるものは多い。
ネイチャは正しくこれらを守った。トレーニングルームを使用しないことは、同級生たちに怪訝に思われたが、ネイチャは笑って誤魔化していた。
そして今日はトレーニングの中に初めて模擬レースが組み込まれていた。といっても大人数でやるものではなく、1対1のタイマンレースではあるが。
その相手を見て、ネイチャはゴクリと
「今日は彼女に協力してもらう。ネイチャ、自己紹介を」
「はい! 中等部のナイスネイチャです! よろしくお願いします、オグリキャップ先輩!」
「私のことは知っているようだな。今日はよろしく頼む」
銀色の髪をなびかせて、オグリキャップは鷹揚に挨拶を返した。
「さあ、早速レースをしよう。ネイチャはスタート位置へ。僕はオグリキャップに指示することがあるからね」
色々と言いたそうなネイチャをはねのけるように、西条は両手をパチンと叩いた。
「あたしには何かないんですか? 作戦とか」
「自由に走ってくれ」
西条は素っ気なく言った。
「……さいですか。じゃあ、オグリキャップ先輩。先に行ってますね」
「ああ。……いいのか?」
ネイチャを見送った後、オグリが西条に問う。
「今は考える力を育てているんだ。それよりキミへの指示だが、まずは後方に構えて、ネイチャに圧をかけてほしい。そして、最後の直線で思いっきり抜いてくれ」
「思いっきりか?」
「思いっきりだ」
「ふむ。了解した」
西条の指示を受けて、オグリはスタート位置へと向かった。ふたりが並んだことを確認し、西条が笛を鳴らす。
レースがスタートした。前に出たネイチャが内側の経済コースを走る。
(安定したフォームだ。基礎はしっかりと出来ているようだな)
オグリは素直に感心した。この時期のウマ娘は、それぞれが子供の頃に走っていたクセが大なり小なり残っているものだが、ネイチャのフォームは理想のそれに近かった。
第2コーナーを過ぎて向こう正面に入った瞬間、オグリが動いた。それまで軽快だった足音が、地鳴りのように大きく、響くものへと変わる。抜くぞ、抜くぞ、という気配を、ネイチャの背中にぶつける。
そのプレッシャーを受けて、ネイチャのフォームがわずかに乱れた。耳もせわしなく動いている。その圧力から逃げるようにネイチャのスピードが上がっていく。
だがその気配は背中に張り付いたように付いてくる。ふたりの距離は離れることもなく、縮まることもなく、最終コーナーを回った。
そこで、爆発音が響いた。
その一瞬後にネイチャの横を白い影が走り去った。
オグリキャップをオグリキャップたらしめる超前傾の超攻撃的フォーム。ネイチャも必死に追いすがるが、差は開く一方だった。最終的には7バ身差をつけられての決着となった。
「お疲れ様」
「ああ、ありがとう」
「ありがとう……ございます」
ゴールしたふたりに西条がタオルとドリンクを渡す。
「プレッシャーに負けてペースが乱れたな」
「そういうレベルじゃない気がしますけど」
明らかに手加減されていたのはネイチャにも分かった。抜こうと思えばいつでも抜けただろうし、スタートだってこちらの動向を窺ってのゆったりとしたものだった。
「少し休憩してもう1本いくぞ」
「私はすぐにでも構わないが?」
オグリは悪気もなく言ったのだろうが、ネイチャはブンブンと首を振った。
西条は苦笑し、15分の休憩をとった後にレースを再開した。
2度目のレースは、先ほどとは逆にオグリが前を行く形になった。そしてネイチャは困惑する。
(遅い……遅くない?)
ネイチャは西条の指導で、自分の中に時計を持っている。まだ完璧に時を刻んでくれるわけではない未熟な時計だが、これは1000メートル63秒くらいのペースだとネイチャは判断した。
このままのペースで進めば、ネイチャに勝ち目はない。そもそも勝つとか負けるとか、そういう次元の差ではない気はするのだが、自分の力がどこまで通用するのか確かめたい気持ちはあった。
追い抜く。そう決断して、ネイチャは外に一歩踏み出した。
その瞬間――
(――ッ!?)
目の前を塞がれた。ネイチャの踏み出しに合わせて、オグリも外へと踏み出したのだ。結果として進路を塞がれた形になる。斜行にはならない絶妙のタイミングだった。
ネイチャが内に進路を戻すと、オグリも戻す。その繰り返しが何度か続いた。
(後ろに目がついてるみたい……完全にこっちの動きを把握してる。こんなの勝てるわけないよ)
実力差をまざまざと見せつけられ、ネイチャの
そのまま大きな動きもなくレースは進み、最後の直線でまたもコースが爆発した。
「――わぷっ!?」
オグリの後方を走っていたネイチャは、蹴り上げられたウッドチップをまともにかぶって悲鳴を上げた。それでも走ることは止めなかったが、最終的には大差をつけられてのゴールとなった。
「お疲れ様」
「ああ、ありがとう」
「…………」
ゴールしたふたりに、西条は再びタオルとドリンクを渡す。だがネイチャは意志消沈して反応がない。西条は撫でるようにタオルをかけ、地面にボトルを置いた。
「ふたりはシャワーを浴びてくるといい。僕は準備をしているから、終わったらトレーナー室へ来てくれ」
西条はそう言い残して立ち去った。ネイチャはしばし茫然としていたが、オグリに腕を取られて無理矢理に立たされた。
「行くぞ。2本も走ったらお腹が空いた」
「あ、はい」
早くもスタスタと歩き始めたオグリをネイチャが追う。幸いシャワー室には二つ並んで空きがあった。
ふたりは手早く服を脱いで汗を流し始めた。しばし無言の時間が流れる。口火を切ったのはオグリだった。
「あれは、1対1だからやれたことだ。多人数で走るレースではまずやれないし、やられることもない。だが、近い形で抑え込まれるケースはある」
オグリ自身も散々やられたクチだ。オグリは器用なタイプではないため、力押しで切り抜けてきたが、ネイチャはそういうタイプではないと感じていた。
「負けて悔しいと思う気持ちは大切だ。だが私と今のおまえとでは、レベルが違い過ぎる」
これはあてこすりなどではなく、厳然たる事実だった。かたやデビュー前のウマ娘で、かたやトゥインクル・シリーズよりもさらに熾烈なドリーム・シリーズで活躍する一線級のウマ娘だ。今のオグリに競り勝てるようなら、すぐにでもダービーで優勝できるだろう。
「まあなんだ。そう気落ちする必要はない」
ネイチャはオグリが不器用ながらに気を遣ってくれていることを、ようやく感じ取った。同時に、
「えーっと、心配かけてすいませんでした。もう、大丈夫です」
「そうか。ではそろそろ行こう。
オグリに急かされるように、ネイチャは髪も乾ききらないうちにシャワー室を後にした。
向かったトレーナー室からは、香ばしい肉の匂いが漂ってきた。中では西条が鉄板で肉を焼いていたところだった。
「早かったな。そっちに焼き終わったものを置いているから、どんどん食べてくれ。ごはんはセルフで頼む」
「ああ、了解だ。うん、いい匂いだ」
オグリは手ずから特盛のごはんをどんぶりに盛ると、テーブルについた。
いただきますの挨拶を終えると、積まれていた肉がどんどん彼女の胃袋へと消えていく。
(こういう契約かぁ)
オグリの健啖ぶりは学内でも有名だった。西条は彼女の脚を肉で買ったのだ。
「ネイチャ、早くしないと食べ損なうぞ」
「え? ああ、うん。すぐ行きま~す」
そうして三人で(というかほぼオグリ一人で)、10kgの牛肉、3kgの野菜類、5合のごはん、そして西条が冗談半分で用意したバケツプリンも綺麗に平らげて、オグリはお腹をさすりながら帰って行った。