「……」
夏休みの前日の夜。
平和島静雄は第七学区学生寮の一つの扉の前で怒りの笑みを満面に浮かべて拳を握っていた。拳の間からは鮮血が滴っている。一体、どれほどの力を込めているのだろう。
「いーざーやーくーん。あーそびーましょー」
知らぬ人が見れば一種の病気なのではと思うくらいの血管を顔に浮かせ、肺の奥から声を絞り出す。学生寮で寝ている人達への配慮なのか、彼なりに精一杯、穏やかな声を出したつもりだった。
しかし、口から出たのは死神が生者の魂を刈り取る時の宣告のように低く、凍りつくように冷たい声。静寂した廊下に冷たい声が響き渡るが、部屋の主からは出てくる気配はない。
「……あれー、シズちゃん?」
不意に、廊下に穏やかで透き通るような声が響いた。振り向くとそこには臨也が冷や汗を流しながらコンビニ袋を片手に呆然と立ち尽くしている。
凄まじい威圧感を放ちながら、鋭い眼光で臨也を睨めつけるが、当の本人はいつものことなのか、どこか余裕のある雰囲気を醸し出していた。
「その呼び方はやめろよぉ。知らねぇ人が見てたら、友達とか思われるだろぉ? 俺にはちゃんと平和島静雄って名前があるんだからさぁ」
「いやぁ……ごめんね、シズちゃん。それで――何の用だい?」
「今日、返された答案用紙の全部が赤点だったんだぁ。てめぇ、なんか仕組んだな。俺には分かるんだよ、あの答案用紙からノミ蟲の臭いがプンプンしやがる」
「そんなワケのわからないことを言われても困るんだけどなぁ。シズちゃんのテストなんて最初から赤点は決定してるでしょ? わざわざ、俺が手を下すまでもないし」
「あぁ? てめぇが手を下してねーなら、誰がやったんだゴラァァァ!!!」
怒声を浴びせながら、爆発的な勢いでアスファルトを蹴って臨也との間合いを一瞬で詰める。握り締めた拳を大きく振りかぶって顔面に叩き込む――しかし、凄まじい勢いでブン! という音とともに虚しくも宙を殴った。
眼前から臨也が消えたのだ。静雄は一瞬、困惑するのと同時に――。
(殺す殺す殺す殺す殺す……ん?)
腹部にわずかながらに痛みを感じた。静雄の着ているワイシャツがジワジワと赤く染まっていく。何が起こったのか分からず、ただ腹部に突き刺さっている銀色に輝くナイフの先端を見つめる。
「ナイフ……?」
「本当に人間なのかなぁ。ナイフが5ミリしか刺さらないって化物だね。殺す気で刺したんだけど」
臨也の手にナイフが握られていた。彼の怒りはさらにヒートアップしたようで、口元が裂けるのではないかと思うほどの笑みを浮かべる。ちなみに、目は笑っていない。
「……ナイフで刺してきたってことは、殺されても文句は言えねぇよなぁ、いーざーやー!!!」
周囲に何か投げるものはないかと見渡すと――玄関の扉を見つけた。他人のものなら躊躇しただろうが、臨也の部屋の玄関の扉となれば話は別になる。
静雄は怒りに満ちた笑みを浮かべながら、ドアノブを握る。
「死ねゴラァァァァァァ!!!」
*
「は?」
臨也は目を丸くした。分厚い扉が凄まじい回転をしながら一直線にこちらに向かってくるではないか。
常人ならば、部屋の扉を人に投げつけるという発想には至らないだろう。しかし、そこに至るのが平和島静雄という男だ。
一直線に向かってくる扉を避けるために、上半身を仰け反らせる。髪の毛を擦って、扉は臨也の背後へと飛んでいく。
「危ないなぁ。普通の人なら死んでるよ?」
「じゃあ、死ね」
「ハハハッ。困ったなぁ、見逃してよ」
「今すぐ死ね。ダンプに笑いながら突っ込め」
会話が成り立っていないというのは良くあることなので、臨也はスルーする。今の状況は臨也にとって非常に不利だった。
自分のところに来るのは二、三日後だと予想していたからだ。静雄という人間を侮っていた自分を今更ながらに憎く思う。
静雄と戦うのならば、確実に逃げ道は確保していなければならない。しかし、今は学生寮の六階。逃げるには非常に困難だ。
背後に視線を向けると、静雄の投げた分厚い扉が木に突き刺さっているのが見える。
(この位置からだと……届く。あの扉の上に着地したら、後は木を降りて全力で人通りのあるとこまで逃げれば良さそうだ)
静雄に背を向け、全力でアスファルトを蹴る。予想外の行動だったのか、静雄の反応がわずかに遅れた。
『パルクール』の技術を平和島静雄という人間から逃げ切るために多少身に付けていた臨也は瞬時に木に突き刺さっている扉と自分との距離を測り、数メートルの高低差から躊躇なく跳んだ。
「っ!? イザヤ!! てめぇ――」
怒声が背後から遠ざかっていく。振り返って冗談を言うような余裕もない臨也は扉の上に着地するのと同時に足に走る衝撃に堪えながら、素早く木を降りていく。
木から降りると、こちらに向かって言葉にもなっていない怒声を浴びせている静雄の姿が見える。
(さすがにシズちゃんでも、あの高さからは飛び降りれるわけが――)
静雄という人間でも六階という高さから飛び降りれば、さすがに死ぬだろう。
臨也は逃げ切れたと確信して微笑を浮かべながら、足を一歩踏み出した。
「逃がさねーぞ!!!!」
「……ですよね」
静雄は叫びながら六階から飛び降りた。凄まじい衝撃音がその場に響いた。膝を着いた静雄の周囲の地面はヒビが入っている。普通なら死ぬ高さだが、静雄は笑っていた。
笑いながら立ち上がって、両手の骨をパキパキと鳴らしているその姿はまさに死神。
この日の夜、怨嗟に満ちた声と苦笑する声が学生寮に響いたのは言うまでもないだろう。
*
「……なんで電化製品が全部壊れてるんだ? まさか、ノミ蟲野郎の仕業か?」
昨夜、学園都市内で起こったとある出来事が原因で静雄の部屋は凄まじい熱気に支配されていた。あまりの暑さにエアコンのリモコンを手に取ったが、電源が入らない。
朝ご飯を食べようと冷蔵庫を開けると中から異臭。野菜類は全て全滅しており、最早これまでという状態。怒りのメーターが徐々に上がっていく。
何に対して怒りをぶつければいいのか分からないので、静雄は気分転換に布団を干すことにした。
ベッドの上の布団を片手に抱えて網戸を開けると、静かな青々としている空が美しく輝いているのが見える。
「ぎゃあああああああああ!?」
不意に、隣のベランダから聞こえてきた悲鳴に静雄はビクッ! と驚くのと同時に「またか……」という声を洩らしてしまう。
隣りの部屋に住んでいる学生、上条当麻。毎度、何かしようとするたびに不幸に見舞われるという残念ぶりは、どこか自分と似通ったものを感じる。
当麻の叫び声を聞き流しながら、布団をベランダに干す。またキャッシュカードを踏み砕くとか、携帯電話を破壊したとかそういう類のものだろう、などということを考えながら静雄は網戸を閉じて部屋の中に戻る。
テーブルの上で携帯のビーブ音が響く。担任からのものだった。
「もしもし、平和島っす」
『静雄ちゃーん、バカなので補習でーす☆』
「まじすか」
補習の呼び出しの電話である。いつもの静雄ならバカという単語に反応してブチ切れるのだが、相手は担任。しかも、見た目と性格のせいか、いつもキレるタイミングを逃してしまう。
担任との電話を終え、Tシャツから制服に着替える。隣りの部屋から聞こえてくる悲鳴や笑い声にイライラしながら鞄を乱暴に床から拾い上げ、外に出る。
「……?」
目の前に修道服を着た銀髪の幼い少女が立っていた。静雄の頭の中で疑問符が浮かぶ。
学園都市内に宗教団体などがあるのだろうか。まだ年端もいかないような少女が学生寮の何の用があって来たのか、静雄は困惑した。だが、少女の後ろにいる人物を見て納得する。
「当麻の彼女だったか」
「え、違う違う!?」
「なんだ、違うのか。じゃあ誰なんだよ、まさか……誘拐?」
静雄の顔面にうっすらと血管が浮くのを見て、当麻の顔が青ざめていく。当麻は慌てて身振り手振りで静雄に事のいきさつを説明するが、何を言ってるのかさっぱり通じない。
幼い少女は不思議なものを見るような目で静雄の顔をジロジロと見る。視線を感じて静雄も少女を見つめる。
「……」
「……顔に血管が浮き出る人って初めて見たかも」
「こ、こら! インデックスさん!? 初対面の人にそんなこと言ってはダメですよ!?」
「血管が浮き出るのって珍し……いのか? やべぇ……凄く顔が気になってきた」
「「…………」」
当麻とインデックスの二人を背後に、自分の顔をペタペタと触りながら、静雄は階段を降りていった。