催眠アプリで純愛して何が悪い!   作:風見ひなた(TS団大首領)

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第36話「パーソナルトレーナーくらげちゃん」

「成功……した?」

 

 

 一瞬のめまいから立ち直った僕は、部屋の掛け時計を見た。

 時計の針はきっかり夜9時を指している。

 やった……! 時間が飛んでいる!

 

 喜びの声を上げようとした刹那、僕はその場に倒れ伏した。

 

 

「!?」

 

 

 コヒューコヒューと呼吸が乱れ、全身にまったく力が入らない。

 体中からだらだらと汗がとめどなく流れ出していた。

 催眠の副作用か……!?

 

 ……と思ったが、どうやら違う。これは体育の後に味わったことがある感覚だ。

 全身がとんでもなく疲労困憊(こんぱい)している。

 体が疲れ切ってまったく起き上がれない。

 ま、まさかこんなところで死んでしまうのか……?

 僕は一体記憶を失った1時間でどれだけ過酷な運動を……!?

 

 喉がめちゃめちゃに水分を要求していた。

 部屋はクーラーが効いていて心地いいが、このまま倒れていたら明日には脱水症状でミイラになって見つかるかもしれない。そんな末路はごめんだ。

 

 どうやっても立ち上がれそうになかったので、なんとか床を這って、息も絶え絶えに廊下へと向かう。台所に行って水を飲まなければ……。

 くそっ、ドアが閉まっている……! 催眠中の僕め、律儀なことを……!

 

 必死に膝立ちになり、ドアノブを回して押し開く。

 しかしそこで膝から力が抜け、ドサッと体を廊下に横たえた。

 あー……床が冷たくて気持ちいい……。

 

 

「今の音なに!? ……って、きゃあっ!?」

 

 

 隣の部屋のドアが開き、出てきたくらげちゃんが目を丸くした。

 

 

「ど、どうしたのお兄ちゃん!? 何があったの!?」

 

「み……水を……」

 

「水!? わ、わかった!」

 

 

 くらげちゃんは瀕死(ひんし)の僕の頼みを聞いて、急いで階下へと駆け下っていく。

 ありがたい、これでどうやら死なずに済みそうだ。

 持つべきものは頼れる妹だな。

 

 

 

※※※

 

 

 

「1時間休みなしで運動した!?」

 

「うん」

 

 

 くらげちゃんはコップといわず、ミネラルウォーターのペットボトルごと持ってきてくれた。2Lの水をごきゅごきゅとラッパ飲みした僕は、ようやく人心地つく。水をこんなにも美味しく感じたことはない。天上の甘露とはこのことだ。

 たらふく水を飲んで体が安心したのか、全身からこれまで以上にだらだらと汗が出てきた。フフ、我が体ながら現金なやつだ。

 

 そんな僕を見ながら、くらげちゃんは呆れかえったような表情を向けた。

 

 

「お兄ちゃん、それは無茶だよ」

 

「何が?」

 

「お兄ちゃんみたいなまったく運動してないモヤシが、いきなり1時間もフルで運動したらヘバるの当たり前じゃん」

 

「モヤシ……」

 

「モヤシもモヤシ、豆もやしだよ! 体ひょろ長くて肌真っ白だもん」

 

 

 そうか、僕は豆もやしだったのか……。

 

 

「でも体育の授業とか50分運動してるし」

 

「授業は全然フルで運動してないでしょ! めっちゃ手を抜いてだらだら走ってるじゃん! グラウンドで授業してるの、教室の窓から見てるんだよ! ……あ」

 

 

 くらげちゃんは慌てて手で自分の口を塞いだ。

 ……?

 

 くらげちゃんの仕草の意図はともかく、確かに言われてみれば体育の授業はいつも疲れないように手を抜いてたな。僕が運動音痴だと知れ渡っているようで、球技してもボールが全然回ってこないし。

 となれば、1時間フルで運動するのは僕にとって初めての経験だったわけか。

 

 催眠中の僕は決められたスケジュールを分刻みで守ったのだろう。9時ぴったりに目が覚めたことだし、杓子定規(しゃくしじょうぎ)な僕の性格上多分そうだ。

 スケジュールには休憩時間が設けられていなかったので、一工程終わったらすぐ次の運動に取り掛かったに違いない。

 ……つくづく運動中の記憶を消すようにしておいてよかった。めちゃめちゃ辛い記憶だ、絶対に思い出したくない。

 

 くらげちゃんは微妙に僕から視線を逸らしながら訊いてきた。

 

 

「でもどうしていきなり運動なんてやろうと思ったの? お兄ちゃん小さい頃から運動大嫌いだったよね」

 

「あー……うん。まあ、僕もちょっとは体を鍛えないとって思って」

 

「ふーん?」

 

 

 くらげちゃんは半目になって僕の顔をじっと見た。くそっ、信じてない顔だ。

 そして開けっ放しになった僕の部屋のドアを見ると、さっと中に入った。

 

 

「あっ! こら、入るな!」

 

 

 くそ、疲労しすぎて足が立たない……!

 くらげちゃんは机の上に置きっぱなしになっていた女性向け雑誌を手に取ると、ぱらぱらとめくって「へえー」とわざとらしい声を上げた。

 

 

「なるほどなー。『せっかくの夏休み、体を鍛えるなら今!』『亜里沙(ありさ)ちゃんにインタビュー!』かぁ」

 

「や、やめろぉ!」

 

「わぁ~! インタビューの中の『亜里沙ちゃんも細マッチョな男が好き』ってところなんかマーカーで囲ってあるじゃ~ん」

 

「くっ……こ、殺せっ!!」

 

 

 僕は辱めを受けた女騎士のような悲鳴を上げた。かような辱めを受けては生きてはおられんばい!

 

 

「そっかぁ。なるほどなるほど」

 

 

 くらげちゃんはんふーと笑いながら僕のところに戻ってくると、バンバンと背中を叩いた。やめろぉ、今体がガタガタなんだよぉ!

 

 

「えらいっ! 好きな子の好みに合わせようなんて気概がお兄ちゃんにもあったんだね!」

 

「う、うるさい! 僕は別にありすの好みに合わせるつもりなんてないぞ、ただ夏休み明けに驚かせたかっただけだっ! あとついでに運動不足も解消して……」

 

「ありすちゃんは夏休みしょっちゅううちに来てるんだから、驚かせるも何もバレちゃうと思うよ」

 

 

 はっ……! それもそうだ。

 夏休み中はくらげちゃんの家庭教師に来てるんだった。

 

 

「でもお兄ちゃんのそのやる気、私も応援するね!」

 

「応援って何する気だよ」

 

「私が無理のないトレーニングメニュー考えてあげるから!」

 

 

 僕はそれを聞いて、疑わし気な顔を向けた。

 

 

「くらげちゃんがトレーニングメニューを? お前素人だろ。そもそもくらげちゃんだって運動なんてしてるの?」

 

「してるに決まってるだろーーーーーッ!!!」

 

「ヒエッ」

 

 

 くらげちゃんはくわっと目を見開き、僕の肩をつかんだ。やだ、この子結構握力強い……!

 

 

「可愛い女の子ってのはみんな運動してるの! 運動とかダイエットとかしなくても勝手に理想体型になるなんて都合のいい話、あるわけないでしょ! 甘いものバクバク食べた後は絶対運動して絞ってるんだよ、当然でしょうがッ!! 可愛いは自分で作って維持するものなんだよッ!!」

 

「お、おう……」

 

「『私太らない体質だから~』なんて言いながら甘いもの食べてる女は嘘つきなんだよ! 絶対家帰って隠れて運動してるから! テストの前に全然勉強してないわ~なんて言って高得点取る奴といっしょ! 周囲を油断させてひとり勝ちを狙ってるの! 詐欺師だよ! スパイだよ! イスカリオテのユダだよッ! この世界に生きていちゃいけない存在なんだよ!!」

 

 

 そう叫びながら、くらげちゃんはがっくんがっくんと僕の肩を大きく揺さぶる。

 なんか女の子のすごく生々しい話を聞かされてしまった。

 

 

「でも僕たち、遺伝的に太りにくい体質じゃん……?」

 

「……確かにそうだけどもっ! その点はパパとママにすっごく感謝してるけどもっ!! でもそれとこれとは別なの! 可愛くなりたかったら努力しないといけないのっ!!」

 

 

 僕の肩を掴む手にぎゅーーっと力を込めながら、くらげちゃんは絞り出すように叫んだ。痛い痛い。

 

 

「だからお兄ちゃんが『覚醒(めざ)めて』くれたのは、私すっごくうれしいよっ! お兄ちゃんもいっぱい運動して健康な体になろう! 可愛いを作ろう!!」

 

「いや、可愛くはならなくていいんだけど……。細マッチョと対極の概念じゃん」

 

 

 弱弱しく呟くが、どうもくらげちゃんはハッスルして聞いてないようだ。

 元からおしゃれに興味があるくらげちゃんのことだし、多分何か変なスイッチを入れてしまった気がする。ギャルコーデは辞めたものの、今度は別の方向にかわいいおしゃれを追求しているようだし。

 

 

「というわけでお兄ちゃん、健康は食生活からだよ! 牛乳飲もう!」

 

 

 そう言って、くらげちゃんは自分の部屋からパック牛乳を持ち出してきた。

 自分の部屋にミニ冷蔵庫を置いているのだ。

 

 

「何故牛乳」

 

「運動した後に飲むと筋肉痛が薄れるんだよ! あとミルクプロテインで筋肉も付くし! おっぱいも大きくなっていいこと尽くめだよね」

 

 

 そう言ってくらげちゃんはニコニコと笑っている。

 なるほどなあ。最近とみに胸やお尻が育ってるのはそのせいか。

 でもいくらお兄ちゃんとはいえ、あまり目の前でおっぱいとか言うのはどうなんだ。恥じらいがない子に育ってしまってちょっぴり悲しい。

 

 僕はくらげちゃんに勧められるまま、ぐいっとコップに注がれた牛乳を飲みほした。

 ……おや? 妙にうまいぞ。

 

 

「おいしく感じるでしょ? 体が求めてる栄養素が入ってるってことだよ!」

 

「へえー、そういうものなのか……」

 

「あとはスポドリも飲もうね! 汗で電解質(でんかいしつ)が流れ出たから、塩分が必要だよ!」

 

 

 なるほど、くらげちゃんが少し運動に詳しいのは本当らしい。

 じゃあちょっと信じてみようかな。

 

 僕がそう言うと、くらげちゃんはえへんっと胸を反らした。

 

 

「当然だよ! 私を信じてついてきて、お兄ちゃん! きっとお兄ちゃんを世界一可愛くしてあげるからねっ!」

 

「だから可愛くならなくていいんだよっ!!」

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