レースの開始時間がすっかり差し迫ったころ、レース場内の控室で私たちはいつものように今回のレースの作戦について最終確認をしていた。
「作戦は今言ったとおりだけど、何か質問はある?」
「いや問題ない。大丈夫だ」
まぁ特に質問もないだろうとは思いつつも、念のためそう訊ねる。彼女はふるふると澄ました顔のまま首を横に振る。
「今日も勝とうね」
「ああ」
キリっと澄ました表情で頷くさまは、彼女のクールで綺麗系な側面をうんと強調するようで思わず眼をうばわれる。勝負服姿もそれを一層強調させるのかもしれない。
『今日こそは』や『今日だけは』ではなく『今日も』なのだ。ここ最近のレースで彼女は負けなしだ。それこそ、週刊誌や新聞で特集を組まれるような目覚ましい連勝で、他のトレーナーやウマ娘がこぞってレースで勝つ秘訣を聞きに来るほどの勝利続きだった。
「トレーナー、いつものを頼む」
目の前の彼女は相変わらず澄ました顔で、でもどこか真剣そうにそう言いながら、両手を広げ、私にいつものあれをするように頼む。
「…ああ、分かったよ」
両手を広げ私を待っている彼女へ近づき、そのまま抱きしめる。温かい。彼女の高めの体温を感じる。抱きしてめて彼女の背に回した腕からは、さらさらと絹糸の様に上質な長い彼女の芦毛の感触が伝わってくる。すっかり私に抱きしめられている彼女と目が合う。恐ろしく整った顔立ちだ。普段は意識することもなかったが、なんて長いまつげをしているのだろう。吸い込まれるように蒼くて深い彼女の瞳に見取れていると、彼女は薄く微笑み、顔をぐりぐりと私の胸元にすり寄せてきた。
「ちょっ、くすぐったいってばオグリ」
「すまない。だが、レースに勝つためには必要な事なんだ」
彼女は申し訳なさそうにウマ耳をへたりと垂らす。でも、彼女はやめようとしない。甘えん坊の猫や犬がそうするように、彼女はスリスリと身体をすり寄せてくる。そうすると、いやおうなしに彼女の匂いを意識させられる。女性らしいミルクの様な丸い香りと石鹸の香りを混ぜたみたいな彼女の心地よい匂いに、すっかり嗅覚は支配される。私の両目は密着した彼女しか映していない。私の両耳は彼女の心拍音だけを私に伝達する。抱きしめている彼女の温かさを確かに感じる。不思議な感覚だ。すっかり私の感覚器官は彼女の情報に支配されている。なんだかオグリキャップという存在にすべてを支配されてしまった様な感覚に陥る。
「よし、これで大丈夫だ。きっと今日も勝てる」
「そう?良かったよ。じゃあ頑張って」
彼女は満足げな表情で私から離れる。レース前に抱擁することがどうしてルーチンになったかといえば、それは彼女の思わぬ提案によるものだ。彼女曰く『レース中、ふとトレーナーも一緒に走っていると感じることがある。…とても、心強い感覚だ』らしい。続けて『レース前にキミの事を傍で感じられたら、レース中もキミの事を感じられると思う。だから、レースに勝つために私とハグをしてくれ、トレーナー』と、いつぞやの彼女は私にねだった。
最初こそ半信半疑だった。ハグしただけでレースに勝てれば世話はない。一回きりと思っていたが、彼女はそれ以来勝ち続けた。そうなると断れなくなるわけで、ずるずると続き『いつもの』で通じるくらい、すっかり習慣になっていた。
「トレーナー、私を見ていてくれ。今日もきっと勝利を持ち帰ってきてみせる」
彼女は自信満々な表情で、少しの興奮を表情の内に覗かせながらそんなことを言う。彼女を見送り、私は観客席に向かう。結果から言ってしまえば、今回も彼女の勝利だった。こういうのは実によくない事なのだが、担当ウマ娘が勝利したことの嬉しさよりも、『ああ、やっぱりな』という、答え合わせをしている時に感じる様なスッキリ感の方が多くを心の中で占めていた。
彼女は今日もいつものようにレースに勝った。レースで勝つことが当たり前になってしまったのだ。レース前に彼女とハグをすることがいつの間にか当たり前になったように。
「トレーナー!今日も勝ったぞ!」
「うん、私も担当トレーナーとして誇らしいよ」
レースを終えた彼女は嬉しそうにパタパタと観客席にいる私の方に駆け寄ってきて、少し興奮気味にそんなことを言う。そんな彼女の姿を見ているとさっきまで考えていたことも、何だかもうどうでもよくなってきた。
◇◇◇◇◇
それ以降も、彼女はレースに勝ち続けた。そのせいで、他のトレーナーやウマ娘はますますレースで勝つ秘訣を聞きに来るようになった。勿論、『レース前のハグが勝利の秘訣です!』なんて言えるわけもなく、適当にはぐらかしてきた。このことも困ったことなのだが、それ以上に困ったこともあった。
「トレーナー、いつものを頼む」
昼休みのトレーナー室。訪ねてきた彼女は入室するや否や、部屋の鍵を後ろ手に閉めると、いつもの様に両手を広げ、いつもの様にそうねだる。
「わかったよ、今回はどうして?」
「次の授業で小テストがあるんだ。勉強はしたつもりなのだが自信がなくてな…だからお願いだ」
観念したように、彼女のお願いを受け入れる。抱きしめられている彼女は、相変わらずいつもの様に顔をスリスリと私にすり寄せる。相変わらずくすぐったくてかなわない。
これが最近の私の悩みの種だった。レースで勝つために私達はハグをしていた。そして実際勝ち続けていた。でも、いつからか彼女はそれを拡大解釈して、願掛けの様に私とのハグを利用するようになった。今日のテストみたいに、レース以外の事でもここぞという時の前はトレーナー室を訪れて『いつもの』を私にねだるようになった。
「…よし、大丈夫だ。ありがとうトレーナー」
満足げな表情で彼女はそう言うと、トレーナー室を後にする。彼女の匂いがまだこの場に残って、何だかぽんやりとした気分になってしばらくぼーっとする。
「…っはい。ああ、お世話になってます」
ぽんやりしていると、ふとスマホに着信が来ていることに気が付く。相手はたづなさんだ。話しなれた相手だけど何だか緊張して、思わず上ずった声で着信に応答する。
「ええ、はい、ちょうど今日は予定がないので是非」
たづなさんからの飲みのお誘いにそんな風に即答する。僥倖だ。ハグしたがる女子の心理について、女性の観点から何か意見をもらえるかもしれない。
何とか今日の仕事を片づけて、そんな邪な思惑を持ちながら指定された居酒屋に向かった。
◇◇◇◇◇
「確かにそれは少し距離が近すぎる気がしますね…」
「そうなんすよ、レース前はともかく小テスト前までするのはいかがなものかなーって思うんすよね」
とりあえずの生ビールを通り越して2杯目に差し掛かったころ、対面に座るたづなさんに『最近オグリによくハグをせがまれていてちょっと困惑している』という話題を振る。
「…」クンクン
「えっ、あっ、臭いですか?不快にさせてすみません…」
対面で美味しそうにお酒を飲んでいたたづなさんは、ふと何かを思いたったかのように身を乗り出すと、クンクンと私の方に鼻を突きだして匂いを嗅ぎ始めた。
「あっ!いえ違うんです!そう言われてみれば、トレーナーさんからオグリさんの匂いがかなりするなあって思って、思わず」
「へ?そんなにですか?」
「あっ、でも、私は”ヒト”にしては鼻が利く方なので気づきましたけど、普通の人は気づかないと思いますね。嗅覚に優れるウマ娘の皆さんは気づくでしょうけど」
たづなさんはどういうわけか、『ヒト』という部分を強調気味に言いながらそう言った。全く持って気にしなかったが、ハグしている時は密着状態なので、確かにオグリの匂いが私についてしまう。となれば、同じようにオグリにも私の匂いがついているはずであるわけで…あれ?結構まずくない?
「うーん、これは後で少し対応を考えないとかな。まあ、でも明日考えればいいや。今日は飲みましょう!」
折角の飲みだ。小難しいことは後で1人でやればいい。そんなことを思いながら強引に話題を切る。
その後は、レースやウマ娘関連の話題で盛り上がった。やはり共通の話題は鉄板だ。とりわけ、たづなさんのレースに対する造詣の深さは脱帽ものだった。昔のレースの事もよく知っていて、まるで実際にそのレースをかつて走った経験があるかのように臨場感たっぷりで語ってくれた。すっかり宴が盛り上がると、お酒の量も増えるわけで、宴もたけなわになるころには、すっかりお互い出来上がっていた。
◇◇◇◇◇
「うぅっ…頭痛い」
翌日、すっかり二日酔いだった。体が重い。昨日は帰るとそのまま風呂も入らずに、朝遅くまで寝てしまった。起きたら、シャワーを浴びる時間すら無かったから今朝はひどく焦った。まぁでも、遅刻しなくてよかった。
今日は、オグリの練習はオフで今度のレースに備えてのミーティングだけだし、会議の予定もない。多分どうにかなるだろう。忙しい日じゃなくて本当に良かった。
そんなことをトレーナー室でひとり考えていると、誰かが部屋のドアをノックした。
「トレーナー、私だ。入るぞ」
「ん、」
私の返答を聞いた彼女はドアを開けてこちらに入ってくる。そしていつものミーティングの様に備品のパイプ椅子を私の傍に持ってきて腰掛けようとする。
まずいな、昨日風呂に入りそびれた私は臭うかもしれない。ヒトならギリギリ大丈夫かもしれないが、嗅覚の鋭いウマの彼女にとって、今日の私はスメハラ野郎になっているかもしれない。
「えっ…どうしたんだトレーナー?」
露骨に距離をとる私に、彼女はウマ耳を垂らしながら尻尾を低く遅く振り、悲しそうな声色でそう言う。
「ああ、いや昨日風呂入りそびれちゃってさ、ちょっと臭うかもしれないから距離を取らせてもらおうと思って」
「なんだ、そんなことか。気にしないでくれトレーナー。むしろ…いや!ともかく問題ない。いつも通りやろう」
彼女は尻尾をぶんぶん振りながら少し興奮気味にそう言う。なんだかそわそわしていてせわしない。いつもマイペースな彼女だからか、何だか新鮮だ。
「きっちりしているトレーナーが風呂に入りそびれるなんて珍しいな」
「いやーほんと昨日はすっかりレースの話題で盛り上がって、飲みすぎちゃってさ」
「ふむ…確かにまだ少しお酒の香りがするな」
参ったな。二日酔いはだいぶ良くなったけど、酒はまだ抜け切っていないらしい。彼女は少し身を乗り出して、鼻を突き出してくんくんと匂いをかぐ。何だか昨日のたづなさんを思い出す。
「むっ…この匂いは…?」
彼女は顎に手を当てながら訝しげに首をかしげる。
「もしかして、トレーナーが昨日一緒に飲んだのはあの理事長秘書か?」
「えっ。凄い、よくわかったね」
「ああ、君の方から彼女の匂いが少ししたからな」
彼女はウマ耳を後ろに伏しながら何だか不満げにそういう。あれ、なんだろう怒っている…?
「…やはりだめだな。我慢ならない」
彼女は小さくそんな事を呟くと、急に椅子から立ち上がる。びっくりしてこちらもつられて椅子から立ち上がる。彼女はそのまま私に近づき私を抱きしめた。
「おぐり、今日は風呂入ってなくて臭いから…!」
「問題ない。気にしないでくれ」
何だか何時もより強く抱きしめてくる彼女にそんなことを言ったが、全く取り合ってくれなかった。気にするなといわれても、気にしてしまう。もはや一種の羞恥プレイだ。
「…」スリスリ
「ちょっ、くすぐったいってば」
抱き着く彼女はいつも以上にスリスリとすり寄ってくるものだから、くすぐったくてかなわない。
「トレーナーの匂いだ。やはりとても安心出来る…」
「そうかい?」
「ああ、とても心地よい匂いなんだ。私の大好きな匂いだ」
彼女が私を抱きしめる力は一層強くなる。そうすると、更に密着するわけで彼女の熱と柔らかさと匂いを一層意識させられて、何だか変な気分になってくる。
「だから、キミからキミ以外の匂いがしてイヤだったんだ。なんというか、自分だけの特等席を勝手に誰かに座られたようで、胸の奥からザラザラした気持ちがふつふつと湧いてきて…それが、とても…」
珍しく弱弱しい口調で尻すぼみにそう言う。でも、そんな声色とは裏腹に私を抱きしめる彼女の腕には力がこもる。まるで小さな少女が大切なぬいぐるみをとられまいと強く抱きしめる様に、彼女は私を抱きしめる。
「なぁ、トレーナー。私は欲張りなのだろうか。キミはいつも私の傍で私を支えてくれる。これだけでも得難いような有難いことで、本当ならそれだけで満足するのが正しいのかもしれない」
相変わらず彼女は私を強く抱きしめたままだ。抱き付いている彼女は顔を私にうずめているので表情は分からないけど、声の調子からすると多分真剣な表情をしていると思う。
「でも、どうしてもこんな風にキミとハグするのを止められない。ひょっとしたらキミにとっては迷惑な事なのかもしれない。そのことは十分に分かっているつもりだ。でも…それでも…!」
『私はキミとハグがしたい』、私を抱きしめる彼女は抱きしめたまま顔を上げて私を見つめ、はっきりとそう言った。
「そっか…」
『ああ、オグリキャップだ』、彼女にじっと見つめられてそう思った。そこには一片の迷いも逃げもなく、ただ自分の思いをまっすぐに伝え、どんな相手の返答も受け入れる覚悟を決めて待つ、かっこいいい彼女の姿があった。
「…分かったよ、あれ以来レースもずっと勝ってるし…別に迷惑だとは思ってないからいいよ」
「そうか!ありがとう、トレーナー!」
どうにも断れなかった。私達は距離が近すぎるから少し距離をとるのが正しかったのかもしれない。でも、あんな風にまっすぐな目でそう言う彼女のお願いを私は断れなった。私はトレーナー失格なのかもしれない。
そんな私と対照的に彼女はウマ耳をぴょこぴょこ揺らしながら尻尾をパタパタ揺らし、喜色いっぱいの声色でそう言う。
「…あの、オグリ、そろそろ離してくれるとありがたいんだけど」
「ダメだ」
せめてもの抵抗に私はそんな事を言うが、すっかり却下されてしまった。別にイヤというわけではないけど、かなり長く抱きしめられているのでそろそろ離してほしい。
「ええっと、また何かテストでもあるの?」
「テストというよりは戦いだな」
「戦い」
『女子には色々あるんだ』とそれ以上ははぐらかされてしまった。
お粗末でした。