「くっそ、もうこんな時間か…」
誰も居ないトレーナー室で思わず独りごちた。濃いめに淹れたインスタントコーヒを啜る。カーテンの隙間から差し込みだした橙色の朝日が徹夜明けの眼にしみる。昨晩から色々調べ物をしていたらすっかり朝になってしまった。完全に過集中だ。部屋を見回すと、印刷した論文と開いたままの本が机だけでなく床にも散乱し、脱ぎ捨てた上着と荷物も打ち置かれている。正直、空き巣でも入られたのかと思われそうな位の散らかり具合だ。
「トレーナー、オグリキャップだ。いるか?」
突如聞こえたノック音の方を向くと、ドア越しに私の担当ウマ娘がそんなことを言うのが聞こえた。マズいな…この散らかり様とこの徹夜明けの状態で彼女と会うのは実にマズい。
「居るんだろうトレーナー。入るぞ」
「あっ!ちょっと待って。いま来客が居て」
「こんな朝早くにか?」
ごもっともだ。徹夜で鈍った頭でとっさに良い言い訳を考えられるはずがなかった。
「おはようトレーナー。今日の朝練の事なんだが…」
彼女はドアを開けて入室する。途中まではいつも通りの語調だったが、この部屋の惨状を目にすると言葉を詰まらせた。マズい。
「また徹夜したのか?」
「違うんだ聞いてくれ。うっかり素晴らしい論文を見つけて関連する研究を漁っていたら…「トレーナー」」
落ちているスポーツ科学や指導法に関する研究論文を拾い上げながら、何とか言い訳を並べたが、そんな奮闘も虚しく彼女のその一言に制止される。
「トレーナー。言っただろう。身体を大切にしてほしいと。もう徹夜は止めてくれと」
ぴしゃりと有無を言わさぬ雰囲気で彼女はそう言う。じっと彼女は私を見つめる。なんだか心の奥底まで覗かれているようで少し怖くなる。
集中しすぎてうっかり徹夜してしまうのは私の悪い癖だ。学生時代は2徹3徹しても何とかなったが、最近は1徹でもボロボロだ。
「まったく、また倒れでもしたらどうするんだ。少し前、過労で倒れた時は本当に心配したんだからな」
「ごめんて」
口を尖らせて少し不満げに彼女はそう言う。口ではそう言いながらも、てきぱきと彼女は散らばっている資料を集めて纏めてくれる。すっかり手慣れているようで、いや、すっかり私のせいで手慣れさせてしまった様で申し訳ない気持ちになる。
「昨日はちゃんとご飯を食べたのか?」
「えっ、うん腹には入れた」
『ちゃんとご飯を食べてたのか?』だなんて母親みたいなことを彼女は言う。そうなると、徹夜なんてするなと小言を言うのも、散らかった部屋を片づける彼女の姿も、なんだか母親みたいだ。
「何を食べたんだ?」
「ええと、コーヒーについてくるガムシロップが沢山溜まってたからそれを少々…」
とりあえず糖分があれば頭は動く。確かそんな事を思いながら、昨日は手近にあったガムシロを晩御飯にした。正直食事というよりは、脳に餌をやったという方が正しい気もするけど、頭を働かせるのに必要な糖分は補給できたし…
「はぁ…」
彼女は、だらしない息子の姿に辟易とする母親の様に呆れ顔で額に手を当てて、深くため息をつく。
「いくぞ、トレーナー」
「えっどこに?」
「決まっているだろ。カフェテリアだ」
彼女は私の手を引いて私をカフェテリアまで連れ出した。途中で逃げるとでも思われているのだろうか、カフェテリアまでの道のりで彼女は私の手を離してくれなかった。
彼女の歩くスピードはやはりアスリートなので速く、彼女が先を行きその少し後ろを私がついていく。手をつないだままだから、母親に手を引かれ連れていかれる子供にでもなったようで笑う。
◇◇◇◇◇
流石に朝早いから、カフェテリアは人気が少なかった。普段は混んでいるカフェテリアを広々と利用できるのは気分が良かった。
「なんや、アンタら相変わらず仲良しやなぁ」
「ああ、タマか。おはよう」
オグリと同じ芦毛のウマ娘、タマモクロスはそんな事を言いながら、対面に座るオグリの隣に腰掛ける。
こうしてタマモクロスがオグリの隣に座ると、食べる量の差が強調されて面白い。同じ朝定食だけど、オグリのは日本昔ばなしに出てくる様な山盛りのご飯で、タマモクロスの方は半ライスといった具合だ。
「相変わらずオグリのトレーナーは、のほほんとしてんなあ」
「ああ、私のトレーナーは、ぽんやり大将だからな」
「いや、オグリそれ褒められてないで」
オグリは誇らしげに『ぽんやり大将』という私のあだ名を言う。そんなオグリにイヤイヤとタマモクロスはつっこむ。もとは、同期のトレーナーが私につけたあだ名なのだが、どういうわけか私のあだ名は知れ渡っていた。
「昔はオグリもぽんやりしてて、ぽんやりコンビだったのにえらい変わり様や。最近はすっかりしっかり者やないかい」
「そうか?」
「いやそうやて」
言われてみればそうなのかもしれない。出会った頃はもっとぽんやりしていたというか、天然だった。…私があまりにもしっかりしてないから、彼女をしっかりものにしてしまったのかもしれない。
「あっ、トレーナーほっぺに付いているぞ。…よし、取れた」
「ん、ありがと」
「いやいや、おかしいて」
頬についたソースをオグリにティッシュでぬぐわれる私を見て、タマモクロスはチャキチャキの関西弁でつっこむ。
「あ、そうだ少し前トレーナーの部屋に掃除に行った時、シャンプーがかなり減っていたが、詰め替え用のシャンプーはもう買ったのか?」
「あっ、いけね。すっかり忘れてた。最近トレーナー室で寝泊まりしてたからなぁ」
「やはりそうか。仕方ない、今日の夕方一緒に買いに行こう。いい機会だし色々足りないものを買わないとだな」
「あっ、ほんと?助かるよ」
「いやトレーナの家の状況を把握しとるとか、もうこんなん、しっかり者とかそういう次元やないやろ…」
呆れ声でつっこむタマモクロスを気にせずに、オグリは『まったく、キミは私がいないとダメなんだな』と嬉しそうにウマ耳をぴょこぴょこぱたつかせながら、優しそうな柔らかい笑顔でそう言う。申し訳ないとは思いつつも、そんな彼女の姿を見るとなんだか許されているように感じて、ダメだとは思いつつも、ついつい彼女に甘えてしまう。
「こんなんもうオカンやろ。あかん、トレーナーがダメダメ過ぎてオグリがオカン化しとる…」
人気の少ない早朝のカフェテリアに、そんな力ないタマモクロスのつっこみが響き渡った。
お粗末でした。