平日のいつもの夕方。今日はオグリの練習がオフだから、1人で自室のトレーナー室に籠って書類仕事を片づけていると、神妙な面持ちの彼女がやってきた。
「やぁ、オグリどうしたんだい?」
「折り入って相談があるんだ」
いつもクールに澄ました表情をしている彼女だが、今日は一層キリっとしているというか、何だかこちらも畏まってしまいそうな雰囲気すら感じる真剣な面持ちで彼女はそう言う。これは、流石にちゃんと聞いてあげないとだめだろう。作業を一旦中止して、普段は作戦会議やミーティングを行うテーブルの方に移り、彼女の言葉にしっかりと耳を傾ける準備をする。
「ああ、すまない。ごちそうになる」
マグカップでスティックのカフェオレを淹れて、彼女に渡しテーブルをはさんで向かいの椅子に座る。マグカップを受け取ると、ふうふう冷ましながらチビチビと飲み始める。彼女から真剣な相談を持ちかけられるのは初めてだった。だから少し心配になって、何か温かい飲み物でも振舞わずには入れなかった。
「それで、相談の事なんだが」
彼女は飲んでいたマグカップをテーブルに置き、神妙な面持ちで話を切り出す。思わず生唾を飲み込む。彼女は芯の強い子だ。だからそんな彼女が相談を持ちかけるとなれば、それはそれ相応の事だろう。
「これなのだが…」
彼女は制服のポケットから四つ折りにした紙を取り出し、開いて私の方に向けてテーブルに置く。置かれたそのA4のプリントの最初の行には、少し大きめの明朝体で『授業参観のお知らせ』と書かれている。…えっ?なんというか拍子抜けだ。もっと何か重たい相談やお願いが来ると思って身構えていたから、何だか肩透かしをくらった気分だ。
「えっと、どういうこと?」
「その、授業参観に来てほしいんだ。お母さんの代わりに」
「私に?」
「ああ、キミにお願いしたいんだ」
話を詳しく聞くと、オグリのお母さんは急遽外せない予定が入って都合が悪くなってしまったらしい。東京在住ならいざ知れず、カサマツからとなると1日掛かりだから、予定の合間を縫って見に来るということも出来ない。可哀そうだけど、そうなってしまえば仕方がない。
「お母さんが急遽来れなくなってしまったことは悲しい。でも、もしキミが代わりに来てくれたとしたら私はとても嬉しい。どうかお願いできないだろうか?」
正面に座る彼女は膝に手を置き頭を下げる。畏まった所作の節々に真剣さを感じさせる。ここまで、真剣に頼み込まれては断れない。まぁ、断る理由もないし、良いか。
私が彼女のお願いを快諾すると、彼女は嬉しそうな足取りで帰っていった。授業参観か。年の離れた兄弟もいないし、ましてや子供もいないから観る側は初めてだ。何だか緊張してきた。あー、服どうしよう。やっぱり無難にスーツかな。机に残された授業参観のプリントをぼんやりと眺めながらそんな事を考えた。
◇◇◇◇◇
授業参観当日、やはり普段のジャージとかパーカーではダメだと思い、スーツを着た。トレセン学園のトレーナー職に服装規定は無い。スーツを着たのは一体いつぶりだろうか。最後に着たのは、就活の時だったか、はたまた親戚の法事だったか。ともかく、最後にいつ着たのかを思い出せないくらいスーツを着たのは昔の事だった。
そんな事を考えながら歩いていると、校舎にたどり着いた。『保護者出入り口』と看板の立てられた玄関ドアから校舎に上がる。同じ敷地内だけど普段は滅多に入ることはないから新鮮な気分だ。何だか校舎の雰囲気が懐かしさを催させて、学生時代に戻されたような錯覚を覚える。
「おっ、もう結構来てるな。言われたとおり早めに来てよかった」
階段を昇り、教室の前の廊下まで来ると、もう結構な人だかりになっていた。やっぱり、授業参観に来ている保護者はみんなフォーマルな服を着ていたから、スーツに革靴で来てよかった。危うく浮くところだった。
まだ授業前だからか、廊下で生徒とその保護者が楽しそうにおしゃべりをしている。しかも1人や2人ではない。私が学生だった頃はそうだったかなと思ったけど、よく考えたらトレセン学園は遠方からの生徒が多いから、久方ぶりの家族との再開という生徒も多いんだ。そうなると確かに授業が始まる前に廊下で喋りたくなる気持ちも分かる。何だか母親が来れなくなった彼女の事が可哀そうになってくる。確かにこの雰囲気で自分だけ見に来てくれる人がいないというのは寂しい。
「ん、そうか丸をつけないと」
廊下に置かれている1台の机が目に入る。机の上にはプリントとボールペンが置かれている。プリントの上段には『保護者出席確認表』と印刷され、生徒の名前がずらりと並んでいた。そこから『オグリキャップ』の名前を見つけ出し、横の出席確認欄に丸を付ける。
「トレーナー」
教室の方から聞き覚えのある声が聞こえてきて、そちらを向く。オグリだ。自分の席から手を振っている彼女の姿が教室のドア越しに見えた。私が手を振り返すと、彼女は立ち上がり、嬉しそうにウマ耳と尻尾をぱたつかせながら足早に廊下の私の下へ駆け寄ってきた。
「本当に来てくれたんだな!嬉しいぞ」
距離がいつもより近い。駆け寄ってきた彼女は本当に私のすぐ前まで来て、喜びいっぱいの表情を私に見せる。ああ、本当に嬉しいのだろう。言葉だけじゃなくて、ウマ耳も尻尾も溢れんばかりの嬉しさを雄弁に示していた。
「うんうん、スーツ姿も似合っているじゃないか」
「お世辞でもそう言ってくれると嬉しいよ」
「スーツを着慣れていないだろうに、私のために着てきてくれてありがとう」
彼女は上から下に視線を流し、スーツ姿の私をそう評した。彼女は心底嬉しそうな表情を浮かべ、弾んだ声でそう言う。スーツを着て来ただけなのに、ここまで喜んでくれると何だかこっちまで嬉しい気分になる。
「トレーナー、ネクタイがずれているぞ」
「ああ、本当だ」
彼女に指摘され、締めてきた自分のネクタイに視線を落とす。確かに少し緩んでずれていた。スーツを着てネクタイを締めたのは本当に久しぶりで、やっぱり上手くいかないものだ。なるほど、このネクタイを見て『スーツを着慣れていないだろうに』と言ったのだろう。慣れていないのがすっかりバレていた。
「ふむ、私が直そう」
「えっ?」
「安心してくれ、エアグルーヴが彼女のトレーナーのネクタイを直している所をよく見ていたから、やり方は知っている」
彼女はネクタイを自分で直そうとする私を制止し、そんな事を言う。少し心配だったが、そこまで言うなら任せてみるのも良いのかもしれない。
「お、オグリ、締まってる締まってる」
「ああ、すまない。こうか?」
うっかり彼女は強く私のネクタイを締めるものだから、きゅっと締まり苦しくなる。いや、やはり自分で直すべきだったかもしれない。
「ちょっ、くすぐったいって」
「うーん、これであっているはずなんだ。少しじっとしていてくれ」
見下ろすと、真剣そうな表情でネクタイと格闘する彼女の姿が映る。真剣にやってくれるのはいいけど、ところどころ彼女のすべすべして柔らかい指が首や顎の辺りを掠め、それがどうにもくすぐったくてかなわない。
くすぐったくて離れようとする私を取り押さえる様に、彼女は密着してくる。相変わらず彼女は真剣な表情でネクタイと格闘している。多分無意識にしているのだろう。
「よし、できた!これで大丈夫だ」
「ん、ありがと。助かったよ」
彼女は最終的には上手いこと私のネクタイを直してくれた。…途中に色々あったけど。彼女は少し離れ、じっと私の首に締め直したネクタイを眺めながら、満足そうにうんうんと頷き、そう言う。
「似合っているぞトレーナー。かっこいいじゃないか」
にぱーと微笑みながら、さも当然の事を言うように彼女はそんな事を言う。あんまりまっすぐにそんな事を言うものだから、言われたこちらは恥ずかしくてかなわない。
そんなやり取りをしていると、すっかり時間は過ぎて授業が始まる寸前になっていた。彼女を席に送り返して、私は後ろのドアから教室に入る。どうやら、父兄の保護者はこのクラスには居ない様で、入った瞬間に注目を集める。席に座る生徒たちの間で『誰のお父さんだろう?』『いや、お兄さんかも』などと小さな声で話す会話が聞こえてきて、思わず少し笑ってしまう。少し向こうの席に座るオグリはなんだか自慢げな表情でこちらを見つめる。
「授業参観で浮かれるのも分かりますけど、授業を始めますよ」
女教師がよく通る声でそう言い、授業が始まった。最初こそ浮ついた雰囲気だったが、授業が始まると静かになる。彼女も集中している様で、真剣なまなざしを黒板に向けて、板書を取る。
端から順に回答者を指名しながら授業は進む。すっかり、授業も終盤になった頃、とうとう彼女の番が訪れた。
「オグリキャップさん、この問題の答えは?」
「はい。ooがxxだから、答えは~~だ」
「正解です。ありがとう」
『正解です』という教師の返答に、小さくガッツポーズをしながら、チラリと私の方を振り向き、誇らしげな笑顔で私に一瞥をくれる。なんだかそれは、自分の頑張りを両親に自慢する可愛らしい子供の様で、何だか少し笑ってしまいそうになる。でも、そんな彼女も彼女らしいというか、胸の中に何か温かい感情が広がる。何か美味しいものを彼女に食べさせてあげたい様な気分だ。
そんな事を頭の中で考えていると、いつの間にか授業は終わっていた。授業参観はお開きだ。流石に懇談会まで出る気はないから、彼女に一声掛けてトレーナー室に戻った。
◇◇◇◇◇
トレーナー室で手持ち無沙汰にスマホをいじってSNSを眺めていると、彼女が帰ってきた。心なしか足取りはいつもより軽やかで表情も柔らかい感じだ。
「トレーナー、今日はありがとう」
「いいよこれくらい。レースだけじゃなくて、勉強も頑張っている姿が見れてよかったよ」
「そうか!それは嬉しいな」
少し恥ずかし気にふにゃりと柔らかく彼女は笑う。その人懐っこそうな表情に何だか目を奪われる。
「今日は頑張ったし、なんかご飯おごるよ。何が食べたい?」
「本当か!そうだなぁ…」
顎に手をあてて、彼女は考え始める。うーんうーんと珍しく悩んでいる。健啖家の彼女はこういう時『oooが食べたい』と即答する。珍しいこともあるものだ。
「うーん…やはりあれだな。あれが食べたい」
「あれ?」
「ああ、キミが作るハンバーグが食べたいんだ」
「えっ、私が?」
どういうわけか分からず、詳しく聞いてみると、どうやら授業参観で頑張った日の晩御飯は決まって母親の作るハンバーグだったらしく、それを食べたいらしい。
「でも、私が作るハンバーグでいいの?人並に自炊スキルはあるから出来なくはないけど、恐らくオグリのお母さんが作るハンバーグとは別ものになっちゃうよ?」
「いや、それでいいんだ。私はキミの作るハンバーグが食べたい。お願いだ」
「わかったよ」
「とても楽しみだ!」
私の返答に彼女は無邪気な子供の様な満面の笑みでそう言う。
「トレーナー、早速材料を買いに行こう。今日は勉強を頑張ったから、もうお腹はペコペコだ」
待ちきれない子供が親の手を引き走り出すように、彼女は私の手を引く。彼女を満足させるにはかなりの量のハンバーグを作らなくてはいけないわけで、これはタフなタスクになりそうだ。
「ありがとう、トレーナー。キミのおかげで今日は最高の1日だ!」
私の手を引く彼女は朗らかな笑顔を覗かせながら鈴を転がすような声でそう言う。そんな彼女を無性に愛おしく感じた。胸の中の温かい気持ちに浸りながら、嬉しそうに微笑む彼女に手を引かれてトレーナー室を後にした。
お粗末でした。