1
今日、上司の駒場
「申し訳ございません。二度と同じミスをしないように気をつけます」
結菜は俺の言葉を聞いて鼻で笑った。
「ふん。あなたの『気をつけます』は聞き飽きたわ。一体、どうしたら何度も同じミスをすることができるのかしら。本当に使えないわねえ。今度、同じミスをしたら、承知しないわよ。分かったら、もう席に戻ってちょうだい」
俺はもう一度結菜に頭を下げた。
「本当に申し訳ございませんでした」
俺はトボトボと自分の席に戻った。周りの女子社員からクスクスと嘲笑が起こった。俺の涙が床に落ちた。それを見た女子社員の誰かから「メス泣きするな」と声が上がった。その言葉で職場全体が爆笑に包まれた。俺は笑われても何も言えなかった。女性たちの笑い声の中を黙って自分の席に歩いた。
俺はコーラで肌に張り付いたシャツを着替えることもできず、そのままの格好で仕事を続けた。
俺は茅野武雄。44才の派遣社員だ。駒場結菜は正社員で総務課長だ。俺より一回り以上若い。今年30才だ。結奈の前には、俺がその会社の総務課長だった。俺がまだ総務課長をしていた5年前に結菜が俺の部署に転勤してきた。若々しくかわいい子だった。転勤初日に俺に「課長。私、総務の仕事は初めてなのでいろいろと教えてください。よろしくお願いします」と殊勝に頭を下げたのは今でもよく覚えている。
それから、俺は結菜を指導した。3年たつと、結菜も仕事をすっかり覚えて、俺の片腕として働くようになった。そんなとき、俺はある会社から誘われた。そこは大学時代の友人が立ち上げたベンチャー企業だった。友人はぜひ自分の会社にきてくれと俺を熱心に誘った。給料も今の会社の1.5倍出すと言った。俺は友人の熱意に負けて、彼の会社に転職することを決断した。送別会のときに、結菜が俺のところに来て「課長、いままで私を育ててくれて本当にありがとうございました。でも、課長のいない総務課なんて、私には考えられません」と言って涙を流した。俺は後ろ髪引かれる思いで友人の会社に移った。
友人の会社の事業は順調にいった。友人は約束通り俺にいままでの1.5倍の給料を出してくれた。しかし、俺が入って1年たったころから、急激に資金繰りが厳しくなった。そして、半年前にあっけなく倒産してしまった。倒産以来、友人は雲隠れしてしまって、いまだに行方がしれなかった。俺は路頭に迷ってしまった。
俺の上の子は幼稚園に入ったばかりで、下の子も来年幼稚園だった。そして、妻のお腹には来年生まれる三人目の子どもがいた。俺には重い責任がのしかかった。何としてでも、どこかに就職しなければと焦ったが、40才を過ぎた俺を雇ってくれるところなどどこにもなかった。そんなとき、俺が前にいた会社の総務部が派遣社員を募集していることを知った。俺は藁にもすがる思いで派遣会社に登録し、前の会社の面接を受けた。
面接の結果は3カ月の試用期間付きの採用だった。俺は久しぶりに総務部に出社した。結菜が総務課長になっていた。5人いた課員は俺がいたころから全員変わっていて、全員が結菜より若い女性になっていた。俺は試用期間付きの派遣社員だ。彼女たち6人が俺の上司になったわけだった。しかし、俺は結菜が上司で良かったと思った。全然知らない人物よりも、よく知っている結菜が課長でいてくれる方が仕事がやりやすいと思った。しかし、俺の期待は見事に裏切られた。出社初日から、結菜の俺に対する執拗なイジメが始まったのだ。
出勤初日。結奈は俺を「茅野」と呼び捨てにした。仕事中に、俺の机からボールペンが床に落ちたときだ。結奈がそれを見て、備品の扱いが雑だと俺を叱った。結奈は「本来は派遣社員ごときには、会社の備品は使わせないのよ。茅野、あなたは特別に使用を許しているのに、何なの、その雑な扱いは」と言って、ボールペンで俺の頭を何度もコンコンと叩いたのだ。俺は結奈の机の前に立たされて1時間以上結奈に叱られた。そして反省文を書かされた。
このように、結菜は会社の備品の使い方が悪いといった何でもないことを取り上げて、ことさら俺のミスだとののしり始めた。結菜のイジメは毎日続いた。結菜に合わせて、課の5人の女子社員たちも俺のイジメに加担しはじめた。仕事もだんだんと雑用を命じられるようになった。
3カ月の試用期間が終わった。しかし、結菜に言われたのはさらに3カ月の試用期間の延長だった。結菜から派遣会社に、俺はミスが多いのでもう3カ月試用してみたいという話が伝えられた。結菜の思いは、3カ月の試用を延長することで俺のイジメをさらに楽しもうということにあるのは明らかだった。しかし、派遣会社の担当者が俺に「茅野さん、良かったですねえ。クビは免れましたよ」と言った。いかにも、本来はクビになるところなのに、3カ月の試用期間延長を勝ち取ったのは自分の功績だという顔をしていた。俺は派遣会社が味方でないことを知った。
今では来客へのお茶出しや書類のコピーといったことは、すっかり俺の仕事だった。俺は結菜や5人の女子社員に命令されて、お茶出し、コピー、お使い、掃除といった仕事をさせられた。
今日も結菜に女性の来客があって、俺は応接室にお茶を出した。女性の来客が好奇の眼で俺を見ていた。そして、来客が帰った後で、お茶を出した後の来客へのお辞儀の仕方がなっていないと、結菜にみんなの前でさんざん叱られた。俺は結菜の机の前に立たされて、30分以上も結菜のお小言を聞いた。結菜に向かって何度もお辞儀の練習をさせられた。結菜は椅子に座って足を組んで氷の入ったコーラを飲みながら、ねちねちと立たせている俺に説教をした。俺を叱りつけながら、だんだん気持ちが高ぶったようで、しまいには立ち上がって、すっかり温まってしまったコーラを俺の頭からドボドボと振りかけたのだ。俺は泣いた。しかし、俺には家族があった。この会社の派遣を辞めるわけにはいかなかった。俺は結菜に何をされても、ただ耐えるしかなかったのだ。
2
その日の会社の帰り道だ。さすがにコーラで汚れたスーツとワイシャツでは家に帰りにくかった。俺は見知らぬ街をあてもなく歩いた。すると、眼の前に「癒し処 爽風」という暖簾が見えた。何だろう。和風の喫茶店だろうか?
家に帰りにくかった俺は自然にその暖簾をくぐっていた。木の壁と木の床でできた何もない部屋があった。
「いらっしゃいませ」
明るい声が聞こえた。見ると、若い女性が二人立っていた。小柄な女性は地味なブラウスとスカートという姿だった。長い髪を後ろで束ねている。もう一人の女性は大柄だった。派手な柄シャツとパンツにショートボブの髪が似合っていた。二人とも顔が輝いていた。俺にはそれがまぶしかった。
「こ、この店は?」
小柄な女性が答えた。
「お客様に癒しを差し上げる『癒し処 爽風』です」
癒し? その言葉が胸にひびいた。まさに俺が必要としている言葉だった。
「ここで、癒してもらえるんですか?」
「ええ、お客様が望まれる癒しをご提供します。お客様はどのような癒しをご所望でしょうか?」
俺はとっさに返事ができなかった。
「・・・・」
小柄な女性が明るく微笑んだ。
「お悩みがございましたら・・もし、よろしければ、お話いただけませんか?」
こんなことを言われたのは初めてだった。
俺は思わず、木の床に手をついていた。そのままの姿勢で、俺はしゃべり始めた。いままでの出来事が怒涛のように俺の口からあふれ出た。今まで抑えていた気持ちが一気に決壊した。話しながら、俺は泣いていた。俺は話し続けた。
気がつくと、先ほどの女性二人のほかに、中年の男性が部屋の中に立っていた。男性は店長の早乙女と名乗り、女性たちを紹介した。小柄な女性が三千院花楓、派手な女性が大原安祐美といった。
俺は長い時間をかけて、いままでのことを一通り話し終えた。早乙女たちは黙って俺の話を聞いてくれた。長い俺の話が終わったとき、早乙女が俺に言った。
「それは、本当にお辛いですね」
「そ、そうなんです。なんとか、結菜に復讐をしたいんですが・・」
早乙女は顔をしかめた。
「復讐ですか?」
「そうです。復讐です」
「復讐では負の連鎖が続くだけですよ」
「負の連鎖?」
「そうです。復讐をしたいという茅野様のお気持ちは十分に分かりますが、マイナスの想いがマイナスの事象を呼ぶということがあるんです。復讐というマイナスの行動では一旦気が晴れても、茅野様にまた何かのマイナスのことが起こりますよ」
「では、私はどうすればいいんです?」
早乙女は少し考えた。そして、タブレットのようなものを操作した。俺の周囲が薄くぼやけて、景色が消えた。
3
俺が気がつくと、スーパーマーケットの中だった。早乙女と花楓、安祐美の三人が俺の横に立っていた。かなり大きなスーパーだった。買い物
そのレジでは、おばあさんが買い物の清算をしていた。
「おつりは789円ね」
おばあさんはそう言って、小銭入れを取り出した。ガチャガチャガチャと小銭入れを何度も揺すると十円硬貨を1枚取り出して、レジの女性の前の小皿に入れた。そうして、また、小銭入れをガチャガチャガチャと何度も揺すると今度は百円硬貨を1枚取り出して、レジの小皿に置いた。同じようにして、今度は一円硬貨を取り出して、レジの皿に入れた。おばあさんの後ろはものすごい長さの列になっている。俺は見ていて、硬貨を手の平に広げて一度におつりを取り出したらいいのにと思った。おばあさんを見ていると、いらいらしてきた。しかし、おばあさんは我関せずとゆっくりゆっくりレジの小皿におつりを一枚ずつ並べていくのだ。
レジの女性がいらいらしている。しかし、お客がおつりを出しているのに、早くしろとは言いずらいようだった。レジの女性のいらいらが限界に来た。女性がこれ見よがしに首を伸ばして列を見まわした。おばあさんに長い列を見てくださいという仕草だった。
しかし、おばあさんはビクともしなかった。何もなかったように平気で小銭入れから小銭を一枚ずつゆっくりゆっくりと出していくのだ。列に並んでいる人たちからため息が漏れた。列の後ろの方が崩れて、何人かが別の列に並びなおすのが見えた。
俺の横で早乙女の声がした。
「茅野様。ご覧になられましたか?」
「ああ、迷惑だなあ」
そのとき、早乙女がまたタブレットを操作した。周りが薄くなった。
4
俺たちはまたさっきの『癒し処 爽風』の中にいた。あの何もない部屋だった。早乙女の声がした。
「茅野様には、あのおばあさんになっていただきたいのです」
「あのおばあさんに? どういうことです?」
「おばあさんの行為そのものは迷惑以外の何物でもありません。ただ、あのおばあさんは自分が周りに迷惑をかけているということが全く分かっていないのです。だから、周りからあれだけ非難の眼を向けられても平気でいられるんですよ。いわば、
「・・・・」
「茅野様にもあのような鋼の心臓を持っていただきたいんです。周りからいくらイジメられても、それをイジメと感じなければいいのです」
「イジメをイジメと感じなくするということですか? でも、俺にはそんなこと、とてもできませんよ」
早乙女が一冊のノートを俺に差し出した。
「これは忘却ノートというものです。このノートに書かれたことは、すぐに忘れ去ることができるんですよ」
「忘却ノート?」
書かれたことを忘れることができるノート? そんな話は聞いたことがなかった。
早乙女が続けた。
「今後も結菜さんの茅野様に対するイジメは続くでしょう。しかし、茅野様は今の会社にしばらくは派遣社員で居続けなければならない。では、どうすれば良いか? それは、結菜さんのイジメをイジメと感じなくなればいいんですよ」
「結菜のイジメを感じなくなる?」
「そうです。イジメを受けても、その内容をこの忘却ノートに書いて、すべて忘れてしまうのです。そうすることで、結菜さんのイジメをイジメとして感じることがなくなります。その状態を続ければ、結菜さんのイジメもやがてなくなりますよ」
そんなことが本当におこるのだろうか? 俺は半信半疑だった。だが、何もしないでいるよりはましだった。俺は早乙女から忘却ノートを受け取って家路についた。
俺は家に帰った。シャワーでコーラを洗い流し、夕食を取った後で、忘却ノートにいままでの出来事を書き綴った。結菜や部下の女性たちから受けたイジメはどんな細かなことでも逐一ノートに記載した。一通り書き終わったら、もう夜明けになっていた。妻が新しいスーツとシャツを出してくれた。それを着て俺は会社に出勤した。
5
仕事が始まると、俺の横の女子社員が前の女性と話し始めた。
「ねえ、何だか、コーラの臭いがしない?」
「する、する。ああ、
部屋の中の女子社員全員が笑い出した。また、始まった。俺へのイジメだ。
俺は考えた。コーラ? コーラとは何のことだ? そう言えば、コーラについて何かあったような気がした。しかし、思い出せなかった。まあ、どうでもいいや。
俺は構わず仕事を続けた。俺が反応しないので女子社員たちは拍子抜けしたようだ。自然に静かになった。
しばらくすると、結菜の声がした。
「茅野。みんなにコーヒーを出してよ」
女子社員たちがまた笑った。「言われる前にコーヒーを出せよ」という声が聞こえた。何人かの女子社員が机の上を片付けて、コーヒーのコップを置くスペースを創り出した。
俺は首をひねった。みんなにコーヒーを出す? どういうことだ? 俺は派遣社員なので、俺の仕事はこの会社と派遣会社が契約をしている。その契約の中には、社員にコーヒーを出すことなど記載していなかったはずだ。
俺は結菜に言った。
「駒場課長。お言葉ですが、私の業務範囲には職場のみなさんにコーヒーを出すことは入っておりません」
「な、なんですって」
結菜の声が裏返った。事務所内が急に静かになった。みんな、息をのんで俺を見つめている。結菜は予想もしなかった俺の反撃に言葉を無くしてしまったようだ。
「ま、まあ、いいわ」
結菜が俺を睨んだ。
しばらくすると、また結菜が俺を呼んだ。
「茅野。これ、コピーを10部取って、会議室に持ってきて」
俺は結菜に言った。
「駒場課長。コピーはご自分でとってくださいませんか。私の派遣契約には入っていません」
結菜は真っ赤になった。コピーの原稿を持った手がブルブルと震えていた。
「あ、あんたねえ、そこまで、私に逆らう気?」
俺には結菜の言葉が何のことか本当に分からなかった。俺は結奈に言った。
「逆らう? 何のことでしょう?」
そのとき、会議室から女子社員が顔を出して結菜を呼んだ。
「駒場課長。もう会議が始まりますけど・・」
結菜は俺を見ながら「覚えておきなさい」と言って、会議室に消えた。
俺の口に自然に笑みがこぼれてきた。何も怖くなかった。俺は席に座って笑い出した。腹の底から笑った。過去に何があったか、はっきりと覚えていないが、いままでどうしてあんなにビクビクしていたんだろうか? そう思うと何だかおかしくなって、俺はさらに笑い続けた。俺のまわりの女子社員たちが黙って、笑い続ける俺を見つめていた。
6
俺は「癒し処 爽風」に忘却ノートを返しに行った。もう、ノートは必要なかった。忘却ノートの威力は絶大だった。あれから、しばらくすると、結菜のイジメは無くなってしまった。しかし、今の試用期間の3か月が終わると、結菜が俺を解雇するのは確実だった。俺はその前に派遣社員を辞めた。今は求職中だ。生活の不安も忘却ノートに書き綴ったら、不思議なことに不安をあまり感じなくなった。
俺に必要なのは過去に引きずられずに一歩前に出ることだったのだ。過去にひきずられないことにも勇気が必要だった。忘却ノートがその勇気を俺に与えてくれたのだ。
早乙女が忘却ノートを受け取りながら言った。
「如何でしたか、この忘却ノートは?」
俺は率直な気持ちを口にした。
「素晴らしかったです。過去を忘れること、過去に引きずられないことの大切さがよくわかりました」
「これからはお仕事探しですね?」
「ええ、過去のイメージに引きずられていたら、俺はどこかに就職しても、やはりそこでイジメを受けたように思います。過去に引きずられないことで、今はどんどんチャレンジできる気分です」
早乙女が笑った。
「それは良かった。もし何か苦しくなったら、また、いつでもこの『癒し処 爽風』に来てください」
「はい、そうします」
俺は礼を言うと、「癒し処 爽風」を後にした。少し歩いて振り返ると、店の前で二人の女性、花楓と安祐美が俺を見送ってくれていた。俺が振り返ると、二人が手を振ってくれた。俺の胸に「安心」が広がった。
これから先、また苦しいことが俺を襲うだろう。そのとき、俺はきっとこの「癒し処 爽風」に来るだろう。
俺はそう確信した。俺は花楓と安祐美に手を振った。胸が熱くなった。涙が俺の頬を伝った。イジメられて出る涙とは明らかに違った。俺は二人に手を振り続けた。
了