「こんにちは」
「あっ、どうも…じゃあ、俺そろそろ帰るからさ。三人とも頑張れよ。またな、刈猟緋」
「うむ」
「はい! ありがとうございました、村田さん! お元気で!」
アオイに続いて病室にやって来たのは、しのぶ。彼女の来訪を機に、村田は蝶屋敷を去ることにしたようだ。炭治郎たちに別れを告げて、病室を後にした。
「どうですか、体の方は」
「かなり良くなってきてます。ありがとうございます」
身体の調子を炭治郎に尋ねるしのぶ。快方に向かっていると、炭治郎が礼を述べたが…彼女はそれを受けて聞き慣れない単語を口にした。
「そうですか。では、そろそろ『機能回復訓練』を始めましょう」
「…?」
伊之助と善逸は、未だ容態が健全とは言い難かった。炭治郎だけが一先ず「機能回復訓練」に参加することになり、訓練場にて説明を受ける。
「まず、あの三人…すみ、きよ、なほたちが寝たきりだったあなたの身体をほぐします。それが一段落すれば、今度は反射訓練を。あそこに並んだ湯飲みを使うわけですが……これは見た方が早いですね。ということで、刈猟緋さんお願いします」
「成程、故に私を呼び止めていたのか」
「反射訓練」は少々言語化するのが面倒であるため、実践して見せるのが良いだろうと考えられた。湯飲みが並んだ机を挟み、しのぶと滲渼が向かい合う。
「では、分かりやすいよう速度を緩めながら行います。よく見ていてくださいね」
「はい!」
────空気が張り詰める。
しのぶが手を伸ばしかけた湯飲みに向かって、滲渼が先に手を伏せる。そのまま彼女が左手を出した湯飲みへしのぶが目を向け、すんでの所で湯飲みの口を押さえつける。
幾度か同じようなやり取りが繰り返された後、滲渼がしのぶの警戒を抜けて湯飲みを持ち上げた。彼女の目の高さまでそれを持って行った所で二人の動きが止まり、しのぶが炭治郎に視線を戻す。
「と…このように、相手が押さえるよりも早く湯飲みを持ち上げて、注がれた薬湯をかけることで訓練完了となります。押さえられた湯飲みを強引に持ち上げたりはしないでくださいね」
「成程…! 分かりました!」
「そして最後に全身訓練…簡単に言えば、鬼ごっこを行います。反射訓練と全身訓練はアオイとカナヲが相手をしますが、二人とも鬼殺隊の隊士ですから、気は抜かないように」
しのぶたちについて来たアオイ、そして予め訓練場に待機していたカナヲが横に並ぶ。実際の所、アオイに関しては選別以降鬼殺の任務をこなしている訳ではないのだが、それをわざわざここで話す必要はない。しのぶは彼女も隊士であるのだということだけを伝えた。
「それでは、これから頑張ってくださいね」
「はい! ご丁寧に、ありがとうございました!」
「刈猟緋さんも、ありがとうございます。呼び止めてしまってすみません」
「構わぬ。特に急ぎの用も無かったのでな」
────その後始まった炭治郎の機能回復訓練は、正しく地獄そのものだった。三人の少女は痛みを訴える炭治郎にお構いなく、容赦なく身体をほぐしにかかる上、反射訓練ではアオイとカナヲに匂いのきつい薬湯をかけられまくる。全身訓練でもカナヲを捕まえられない日々が続き、その日常は伊之助が訓練に参加し始めてからも変わらなかった。善逸の参加以後、漸く反射訓練でアオイに勝てるようになり始めたが…カナヲには一方的にやられてばかり。伊之助と善逸もそれは同じで、心が折れた二人は訓練に来なくなってしまった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
そして、二週間以上が経った夜。すみたちに教えてもらった「全集中・常中」の概念をものにしようと一人奮闘する炭治郎は、瞑想の最中にある人物と再会する。
「────郎君」
「…」
「えい」
「!? ……えっと…カナエさん? こんばんは」
「こんばんは、炭治郎君。頑張ってるのね」
屋根の上で自分の世界に没頭していた炭治郎は、カナエの呼び掛けに気付かなかった。頬をつつかれて初めて彼女の存在に気付き、挨拶を交わす。
「禰豆子ちゃんは、起きたかしら? あまり様子を見に行けなくて」
「はい。ぐっすり眠って元気になったみたいです」
「そう、良かったわ! お話したいことが沢山あるのよ」
「……あの、ずっと気になってたんですけど…カナエさんは、鬼が憎くないんですか?」
可憐な笑みを浮かべて、鬼である禰豆子と話がしたいのだと言うカナエ。その心に偽りは無く、だからこそ炭治郎は疑問が絶えない。鬼殺隊に入ったのは、鬼と仲良くするためなのかとも思ったが…カナエの答えは、その予想を覆すようなものだった。
「…憎くない訳じゃないの。でもね……それ以上に、可哀想だなって。殆どの鬼は、人を喰い殺してやりたいと思って鬼になった筈は無いでしょう? ある日突然無理矢理に、或いは彼らなりの理由があって……。それなのに…全部忘れてただ人を喰らい、鬼舞辻無惨の言いなりになる。当然そうでない鬼も居るとは思うけれど、私はそんな彼らの助けになりたかった。それに、仲良くなれることが証明出来れば、殺してしまう以外にも道が見つかるかもしれない…鬼のせいで悲しむ人も居なくなるかもしれないと思ったのよ。………結局、自分で見つけることは出来なかったけれど」
眉を下げ、悲し気に微笑む。炭治郎はこれまでに、カナエがかつて柱であったこと、今は引退して蝶屋敷での炊事洗濯などを担当していることなどを耳にしていた。道半ばで引き返さざるを得なくなった彼女の胸中を想い、自分まで悲しくなってしまう。
「カナエさん…」
「だけど…そこに君たちが現れたの。人と鬼が互いに想い合う、私が追い求め続けた理想の姿。禰豆子ちゃんのおかげで私、心のもやもやが晴れたわ。絵空事なんかじゃなかったんだって、そう思えた。改めて…ありがとう、炭治郎君」
「…俺が言うのもなんですが……禰豆子は特別です。他にも禰豆子みたいな鬼が居るとは、簡単には言えません」
「…そうね。でも、いいの。あり得ることだって分かった、ただそれだけで良いのよ。もう、十分」
「(珠世さんたちのことは…話すべきじゃない。嘘は吐きたくないから濁しておこう……ごめんなさい、カナエさん)」
カナエは、鬼と仲良くすることが不可能では無いと知れたことが嬉しかった。他の隊士たちにそれを強制するつもりなどない、ただ自分の夢が間違いなどではなかったと……己の中で決着をつける。後は…人々を救う使命は、仲間たちに託して。
「だから、炭治郎君は自分の信じる道を進んで。これ以上、鬼が人々を苦しめないように」
「…安心してください。俺たちが…カナエさんの想いも背負って戦います。皆が笑って暮らせる世界にしてみせますから────」
「それは良い心掛けですね、炭治郎君」
「!?」
その時。二人の背後に音もなく降り立ったのは、しのぶだ。任務を終えたのか担当地区の巡回を終えたのか、蝶屋敷に戻って来ていたらしい。
「し、しのぶ────」
「姉さん。梯子が架かっていたけれど…まさか自力で屋根まで上ってきたんじゃないわよねえ? 激しい運動は厳禁だって、分かってるものねえ?」
「あ、あのね、聞いてしのぶ────」
「それとも梯子を上り下りするぐらいは大した運動の内には入らないかしら? ────ちょっとお話、しましょうか」
「あわわ…」
朗らかな笑みの中、血管を額に浮かべたしのぶ。炭治郎は匂いで彼女の激しい怒りを感じ取っていたが…彼女が怒っていることは誰の目にも明らかだ。怯えて小さく丸まったカナエを横抱きにして、しのぶは屋根を下りる。
「………よし、頑張ろう!」
炭治郎は、しのぶだけは怒らせてはならないと学んだ。