「シンジ、そろそろ行くわよ」
「行くって、どこに」
放課後、同居人の少女が机に寄って声を掛けてきたので、シンジは首を捻った。金髪の長い髪に、蒼い瞳。一目で他人の目を引くとびきりの美少女だった。
「あんたばか?エヴァの起動試験でしょう、今日は」
「え、そうなの?」
シンジはスマホのスケジュール帳を見たが、そんな予定は入っていない。ネルフ側で入力したものを共有している形だから漏れはないだろうし、アスカも同じものを見ている筈なのだが……
「でもそんな予定、入ってないよ?」
「いいからとっとと来る!遅れるとまたミサトに愚痴られるわよ、ネチネチとね」
アスカはシンジの学生服のネクタイを引っ張って、同行を促す。シンジたちは高校に上がり、二人の制服も新しいブレザー型のものになっていた。男女ともに濃いベージュ色のブレザーで、男子はネクタイ、女子はリボンタイになっている。
「ちょ、ちょっと。首が締まるからやめてよ」
すると、アスカはシンジの耳許に口を寄せ、ドキッとするような事を言った。
「首締めはあたしじゃなく、あんたの得意技でしょ」
「うう……」
「いいネタを貰ったものよね、これで一生あんたを虐めて、たかれるわ」
アスカはそう言ってニヤリと笑った。シンジは一生という言葉に、償い切れない重さを感じる。
◆
「アスカ……あのさ」
「うん?」
「なんで、手を繋いでるのかな、僕たち……」
まだ学校内なのに、アスカが手を差し出して、シンジはその手を握ることを余儀なくされた。それで、廊下の同級生たちのひそひそ話の対象になっている。
「虫除け」
アスカはシンジと繋いでいない方の手でつまらなそうにスマホを眺めながら、簡潔にそう言った。電車の乗り換え案内を検索する画面がシンジの横目にも入った。
「高校に入っても相変わらず、下足箱のラブレターが減らない。一件ずつ断る式の対処療法にも限界がある」
「……僕をだしにするってこと?」
「あたしの為なら、何でもするんでしょ?」
それから、アスカはスマホをしまい、シンジにしか見えない角度でその表情に怒りを閃かせる。
「あんたにはあたしの都合のいい男になってもらう。あんたはそれを拒めない。あんたの心も身体も全部あたしのものだ。あたしの望むタイミングで関係もステップアップしてもらう。言っておくけど、愛情とかそんなものは期待しないで。期待できない理由は重々承知だと思うケド」
「……僕に拒否権がないのは分かるけど、そんなの自暴自棄になってるだけじゃないか、傷付くのはアスカじゃないか……」
「捨て鉢になって、何が悪いのよ。あたしはあんたに守ってももらえず、ただの性の捌け口になっていた。あたしがどれだけ傷付いたと思ってるんだ。だからやり返す。傷付けられたプライドは十倍にして返す」
「もう僕ら、そんな風に生きていくしかないの?」
そんな風に傷つけ合うなら、もう手なんか握らない方がいい、とシンジは思う。
「……とっとと行くわよ」
きびすを返そうとするアスカはシンジの手を握ったまま、離さない。シンジはアスカに合わせて動こうとは、しなかった。
「アスカ、真剣に話してるんだよ」
「あの時の浜辺で、あんたに犯された方がマシだった。人をとことん侮辱して。ズリネタには出来るけど、抱くことは出来ない……そういうあんたの心底はよく分かったわ」
「……なに言ってるん……だよ、アスカ」
「一生、この恨みは忘れない。一生あんたに付きまとってやる。お互いに心も身体も傷つけあって生きていくんだ」
「……一生って……僕なんかになんで拘るんだよ。自由に好きな相手を探せばいいじゃないか。それで僕に見せ付ければいい。そうしたら僕が一番傷つく。アスカにとっては一番の復讐になる」
「悪いけど、そんなの趣味じゃない。あんたにはあたしの大事なものを全部捧げてやる。でも、あんたは傷付き続ける。あたしに愛されているという実感がないから。これが一番の復讐よ」
それから、アスカはシンジの腕に自分の腕を絡める。
「さ、行きましょ。学校での見せ付けプレイもいいものよ」
「こんなの……」
「あんたはあたしの全部をいずれ手に入れる。あんたが一番欲しいものはあげないけどね」
アスカの復讐は、きっと彼女自身にとっても、つらすぎる事になるだろう。
◆
駅のプラットホームはいつもと反対側だった。
「アスカ、ネルフに行くなら、反対のホームだけど」
「今日は何の予定も入ってないわよ。あれはウソだ」
「……なんで」
「海でも見に行こう。あんたがあたしの首を絞めた海に」
「どうして」
「なんでとかどうしてとか、一々、五月蠅いのよ。そんな事を説明されないと分からないバカだから、あたしたち苦しんでるんじゃないか」
「海って、冬の海だよ。もう一年中夏じゃないんだ」
季節はもう十二月だった。
「教えてくれてありがとう。あたしがそんな事を知らないとでも?」
「……アスカの気持ちがよく分からないんだ、僕には」
「あたしは毎日だって、あの海に行きたい。学校なんか辞めて、あんたと二人、あの海を眺めながら、あんたを憎んで暮らしたい。世界なんか終われば良かった。あんたと二人ぼっちの世界になれば良かった」
「……そんな事、無理だよ。僕らはそんな風には生きられない」
電車が来た。ドアが開いても、アスカは乗り込もうとしない。
「電車来てるけど」
「口を開けば、常識的で詰まらないことしか言えないのよね」
「でも……」
電車のドアが狭まるタイミングで、アスカは素早くシンジの腕を掴み、ともどもに車内に滑り込んだ。
「ホント、くだらない男」
「……ごめん」
「あたしが一生付きまとうと決めた、凡庸極まりない男」
「そんな事やめた方が」
「それはあんたが決めることじゃない」
電車の中では二人は座らなかった。ドアの脇に立って、アスカは外の冬景色を見ている。しばらく押し黙っていたが、アスカはやがて口を開いた。
「……コートをさ」
「うん……」
「買ったんだよね」
「今、着てるやつ?」
「そう」
アスカが今制服の上に着ているのは、チャコールグレーのピーコートだった。シンジもアスカのによく似た色のダッフルコートを着ていた。
「冬になるとコートを買う。それは当たり前の事だけど」
「……今までとは……違うよね」
常夏の世界が終わり、冬のやってくる世界になった。季節が、人生が、回り始めている。
「あたしたちも、今までとは違う」
「……」
「だけど、それは当たり前の事なんだ。もう中学生じゃないんだから」
「アスカは……怖くないの。変わる、知らない世界が」
「怖いと思ったら負けよ。世界は敵ばかりだ」
「でも僕はそんな風には立ち向かえない」
「知ってるわよ、あんたは世界で一番の弱虫だ」
アスカはシンジの腕を掴んだままだったが、その腕を更に自分の側に引き寄せた。
「アスカ……」
「高校生カップルなら、このぐらいの親密さは不思議じゃない」
「……なんだか、僕にはアスカが色々と無理してるみたいで、つらいよ」
アスカをそんな風にさせたのは自分であると、シンジは知っていた。でも、アスカには何もしてあげられない。そんな力は何もない。
「自惚れだよ、それは。あたしが本当はシンジを好きで、シンジと本当はイチャイチャしたくて、こんな事をやっている……そんな風に思ってるんだろうけど、そんなのあんたの完全な妄想だ。あたしは無理なんかしていない」
「そこまでは言っていないけど……」
車窓の外の景色はひたすらに寒々しく、寂寥感を漂わせている。
「こんな風に寂しい景色があるとは思わなかったな」
シンジが思わず口にすると、アスカが睨み付けた。
「あの浜辺での景色をもう忘れてしまったの」
「いや、それは」
「薄情者」
あの風景は別格で、シンジにとっては永遠に残るものだ。だけど、アスカはシンジの台詞を誤解したようだった。
「あの時、二人だけであの海を見ていた。あたしはあの寂しさを忘れたりはしない、一生」
「ごめん……」
「同じものを見ていても、心が重ならないと苛々する。絶望する。泣きたくなる。どうして男にはそういう当たり前の気持ちが分からないのよ」
「僕が悪かったよ」
「そんな事は知ってる。あたしとあんたの間の事は、最初から最後まで、みんな全部シンジが悪いんだ!」
「……うん、分かってるよ」
「分からなくていい!……別にあんたに甘えてる訳じゃないから、勘違いしないで。甘えさせて欲しい訳じゃない」
シンジは、少し呆れてしまった。アスカはさっきから全部本音を自分自身で言っているのではないか。
「……甘えてくれてもいいよ」
「いやよ。シンジになんか甘えてなんかやるもんか」
「一生付きまとうってのも、甘えみたいなものじゃない?」
「どうしてよ」
「だって僕が誰かと結婚するかも知れないし、アスカに他に好きな男が出来るかも知れない」
「……あたしは別にシンジなんか好きじゃない。でも、シンジに結婚なんかさせないし、あたしも他の男なんか好きにならない」
「やっぱり、アスカは甘えたいんだと思うよ」
シンジが首を横に振ると、アスカが力なく溜め息をついて俯いた。
「……まあ、今日はGeburtstagだから……」
アスカはシンジの分からないドイツ語風の単語を呟いた。
◆
あの浜辺は、もうあの時と様子が違っていた。海の色は赤から青に変わり、沖にあった巨大な綾波レイや量産型エヴァも撤去されている。それがシンジには何だか寂しかった。まるであの時視た風景が単なる夢だったように感じられる。
「何も残ってない」
アスカが茫然として、言った。
「確かに、あの時はあったんだ!」
焦りを隠すこともなく、アスカはシンジに掴みかかった。
「量産型が磔刑に処されるように並んでいて、大きな綾波レイがいて、海はどこまでも赤くて。あれは嘘じゃないんだ!」
「うん……嘘なんかじゃないよ。僕も覚えている」
その言葉に少しだけ安堵するが、アスカはそれでもシンジの襟を掴んで、視線はシンジのコートの裾に落としている。
「あたしとシンジがいた浜辺なんだ。二人だけの浜辺で、世界にはあたしとシンジが二人っきりで。だから、誰にも奪われたくなかったんだ……!あの光景はあたしとシンジだけのものなんだ!」
シンジはアスカが自分を掴んでいる腕を握った。
「大丈夫。記憶は誰にも奪えないよ。僕はアスカと同じ事を覚えている。同じ光景をちゃんと見ている。僕がアスカにしたこと……ううん、ハッキリ言うよ、僕がアスカの首を絞めて殺そうとしたことも、アスカに気持ち悪いと言われて、頬を撫でられたこともみんな全部、ちゃんと覚えている」
「そんな記憶……もう忘れたいと思ったりはしないの?」
「うん。つらくても覚えている。忘れることはない。それこそ一生」
アスカはきっとそれをシンジに覚えていて欲しかったのだ。だからシンジに一生付きまとうと言っていた。アスカはあの場面を無かったことにはしたくなかった。
「僕はこの場所に来るのがずっと怖かった。だけど、来てみたらすっきりした。僕はここで全てを終わりにしてもいいと思うよ」
「全てを終わり?」
「うん、アスカが僕を絞め殺してもいいし、もう二度と会わないと約束してもいい。アスカの好きなようにしてくれれば……」
「何を言っているんだよ……また、そうやって逃げるのか!選択肢を全部あたしに委ねて、責任を全部おっかぶせて、あんたはどこまでも楽をしてるだけじゃないか!」
男のくせに、女に決断させて、選ばせて、とことん情けないとは思わないのか!そう、アスカの心は叫んでいた。
「あたしに嫌われるにしても、拒絶されるにしても、シンジ自身がどうしたいかを言って欲しい。そうでなくちゃ何も始まらないし、それがあたしを傷付けたシンジの責任だよ。自分が傷付く可能性から逃げないでよ」
「……アスカ」
アスカはシンジからそっと手を離した。冬のカモメが飛んでいる。アスカの長い金髪が海風に掻き乱された。
「ごめん、確かにアスカの言うとおりで男らしくなかったよね……僕は本当にダメな人間なんだ。アスカもよく分かってると思う。アスカの気持ち悪いって言葉の意味もずっとずっと考えてる。それは、もしかしたら、これからも一生考え続けるのかも知れない。何より僕のしたことは永遠に許されないことだから」
シンジは少しだけ視線をアスカから逸らし、記憶の中で浜辺に横たわるアスカと、その首を絞める自分を幻視した。
「だけど、正直な気持ちを言えば、僕はアスカに惹かれている。身体だけじゃなくて、その心に。もしももう一度だけチャンスが貰えるなら、僕はこの場所からアスカとやり直したい。アスカと男女として付き合いたい……アスカは僕を受け入れてくれるかな?」
「……あんたとだけは死んでもイヤ」
シンジはその言葉に雷に撃たれたようによろけ、俯いた。同時にああ……それはそうだよな、と納得も行く。アスカの複雑な心の反応を無理矢理に自分への好意と解釈して、自分を誤魔化してきたのだ。誰だって、自分を殺そうとした男と一緒になりたいなどとは思わない。一生付きまとうというのは、純粋な復讐の意志であって、それ以上の特別な意味は無かった。全てはシンジの一方的な想いで、勘違いだったのだ。
砂浜にポツリポツリと黒い砂の点が広がった。
シンジは失恋の痛みに、知らず涙を流していた。
「だけど、あんたは」
アスカがその黒い砂を見ながら言った。
「ここで一度死んで、生まれ変わったと言えるかも知れない」
「……」
「もしそうであるなら、あたしはソイツとなら、やり直して見てもいいかも知れない」
「アスカ……」
シンジはアスカの言葉に救われたように、右腕で自分の涙を乱暴に拭った。
「……今のは痛かったよ」
「あんたのその失恋の痛みは、あたしがすでにあんたに味あわされたものだったのよ?つらいでしょう、苦しいでしょう?あたしはずっとシンジに助けに来て貰いたかったんだ」
「うん……よく分かったよ。本当にごめん」
シンジの言葉にアスカはよしと頷いた。
「でもどうして、今日ここに?」
シンジが尋ねると、アスカは先程の単語を繰り返した。
「だからGeburtstagだからだよ……、それを新たな区切りにしたかったんだ。って、シンジには分からないか」
「もしかして、それって誕生日のこと?」
「ん、知ってたの、あんた?」
今日、十二月四日はアスカの誕生日だった。
アスカが反応すると、シンジはコートのポケットから、ベルベットのアクセサリーケースを取り出して、おずおずと差し出した。
「これ……」
「用意してくれてんだ。開けてもいいの?」
「うん、誕生日おめでとう、アスカ」
アスカはベルベットのケースをゆっくりと開く。
それは、7℃とかいうブランドのネックレスだった。銀色に光る輪の中に、アスカの瞳の色のような青い宝石が埋め込まれていた。ただ、捻れた輪の形など、正直、ブランドもデザインもアスカの好みではなかったが、シンジが悩んだ末に選んだのだろうなという想いは彼の真剣な顔に滲んでいた。
「今まで、彼氏のくれたプレゼントにダメ出しする女子って、人としてどうかと思ってた。でも、今はその気持ちが少し分かる」
「えっ、駄目だった?」
アスカは首を横に振った。
「正直好みではない……でもきっと好きになれるよ。彼氏からの最初のプレゼントだし、そもそもあたしはその彼氏だって、最初は好みではなかったんだから。……だからきっとコレも好きになれる」
アスカがシンジに初めて会ったとき、その顔を見て、アスカは冴えない顔だと思ったのだ。だから、第一印象は全てではない。それどころか、首を絞められたって、その最悪の底辺から再出発さえ出来るのだから。
シンジは彼氏彼氏と連呼されて感慨深いようだった。
「僕、アスカの彼氏なの?」
「そうよ。でも一生ストーキングされるのより、格は下がったかも知れないから、これから精々気合いを入れて頑張ることね」
「ああ、うん……頑張るよ」
アスカはそれからツッとシンジに近づいた。そして、さっと自分から、シンジの唇に自分の唇を重ねた。
「デザインが気に入らない分は、彼氏から直接取り立てたわ」
シンジは思わず目を白黒させた。
「あ、アスカ……」
すぐに距離を置いたアスカは悪戯っぽい目で、頬を少し上気させて、シンジを見つめている。
「明日から、ラブレター撲滅作戦を徹底的にやるからね。学校でいちゃつきまくって、バカップルの称号をゲットするわよ、いいわね?」
「いや、アスカ。バカップルは要らないんじゃないかな……」
生まれ変わったシンジの苦労は終わりそうもない。